48.狩りの刻《後編》

《1998年12月20日 3:00PM エルハイト市 第五街区》


 どこをどう走ったか、マリアはもう覚えていない。


 人々をふり払い、せばめられていく当局捜査官の包囲網の中で徐々に逃げ場を失って。

 いまはクリスと、橋の下に隠れている。

 護岸された川辺に身を潜め、橋脚の陰から見上げて、上の様子をうかがった。人はいない。


「はぁっ、はァ、――――」

 クリスの呼吸は、異常に乱れていた。全力疾走したからではない。おびえているのだ。恐怖と寒さに震えながら、琥珀色の目を見開いて、クリスは狂ったように繰り返していた。

「逃げなきゃ。……逃げなきゃ。逃げ――」

 ちらりちらりと降る雪が、無情にクリスの体温を奪う。

 マリア以上に、この少年はおびえているのだ。失うことに、おびえている。過去のヒューマノイド狩りで大事な“家族”を奪われたことがあるからこそ、マリア本人よりも現実的な恐怖を感じているのだろう。

 マリアだって、逃げたかった。でも、


「無理よ……逃げられない」


 逃げられるわけがないのだ。

 マリアは、さっきの警報を思い出していた。


《なお、ヒューマノイドの隠匿を行った者に対しても、ロボット管理法第六十九条第三項の定めるところにより懲役九年処罰の対象となる》


 わたしは逃げられない。

 でも、この子は?

 わたしと一緒にいたら、クリスも処罰されてしまう。

 ……そんなの、ダメ。


「クリス。わたしと一緒にいたら、あなたも危ないわ。だから、あなたは……」

「ばか!!」

 マリアはクリスに頬を叩かれた。

 ――痛い。

 痛みが恐怖を連れてきた。喉からせり上がってくるような、恐怖の奔流。


「マリア……逃げなきゃ……。殺されるんだよ? 捕まったら、頭からつま先までバラバラにされて、脳を割られて心臓取られて血を抜かれて、――いやだ。いやだ……いやだ!」


 ――殺される?

「マリア。……マリアが、死んだら、――僕は、どうしたらいいの」

 すがりついてくる小さな体を、マリアも抱きしめ返していた。マリアはいつしか、クリスの体と同じ温度でふるえていた。


 ……でも。


 それでもマリアは、何をすべきか見失わなかった。

「だいじょぶよ!」

 声のふるえをこらえながら。できるだけ、明るい声を出したつもりだ。

「一つだけ方法があるの」

 にっこりと。いつもみたいに笑ったつもりだ。


「ねぇ、クリス。お願いだから、わたしを残してドクター・シュルツのところまで行ってほしいの。あなたは人間だもの、検査が終われば、外に出られるでしょ?」


 クリスは驚いて顔を上げた。

 ドクター・シュルツ? どうして、あんな奴のところに? ――琥珀の瞳がそう問てくる。


「わたし、検査で捕まってしまうと思うけど。でも、ドクターだったら何とか助けてくれると思うの」


「な、なに言ってるの、マリア。捕まったら、助けるなんて出来ないよ」

「できるわ。あの人はすごい人だから」

 花咲くような、いつもの笑顔。そんな笑顔を、マリアは浮かべたつもりだった。


「わたし、ドクター・シュルツと初めて会ったときに約束したの。あの人は絶対わたしを守ってくれる。そしてわたしは、あの人のために絶対死んじゃいけないの。だから……」


 彼女はクリスの肩をぽん、と押した。


「わたしを本当に助けたいと思ってくれるのなら。お願いだから、早くあの人のところに行って。わたし、一人でだいじょぶだから」


 クリスの体は、よろよろと後ずさった。二歩、三歩。

「……マリア?」

 琥珀色のうつろな瞳が、マリアを見つめる。マリアは深くうなずいた。

「お願い、クリス。――ね?」

 マリアに最後の念を押されて。

 クリスは、彼女に背を向け走り出していた。

「………………ありがとう、クリス」

 小さな後ろ姿が見えなくなると。マリアは、へなへなとしゃがみこんだ。


 ――ごめんね。わたし、嘘ついちゃった。


 ドクター・シュルツが、わたしを助けるわけがない。何の役にも立たない、こんなわたしを。

 あの子を引き離すためとはいえ。バカげた嘘をついてしまった自分がとても情けなかった。

 マリアはポケットの中にひそませていたカフスボタンを取り出して、すがるような目で見つめていた。シュルツの髪と同色の、あの美しいカフスボタンだ。

 握りしめる手は、ふるえていた。


「わたし、ほんとにバカ」


 自嘲の笑みをこぼしたつもりだった。けれど。

 ぽた。ぽた。

 こぼれていたのは、涙だった。


 ほどなくして現れた当局捜査官により、IV-11-01-MARIAは捕捉された

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