第七章 雨と追憶

第25話 雨と追憶 1



 一角獣に蹴られた、肩や背中が痛む。


 その痛み以外、なんの感覚もない状態が続いていた。


 急に現れた黒ずくめの男に腕をとられ、そのまま意識が途切れた。そして気づけばこの状態である。まるで虚空の中に投げ出されたような状態では、状況把握のしようもない。


「っ、たたた……動けば痛いけど、床の感覚すらないなんて……。何も聞こえない。独り言でも言ってないと頭がどうにかなりそうだわ。目だって開けてるのか閉じてるのかわかんなくなってくる……」


 目の前にかざしているはずの、手すら見えない真の闇。時間の感覚すら麻痺したままだ。


 その刺激のなさに、夢とうつつの境界を見失いながら、ルチルナは思考を漂わせていた。


 ――今更思い知らされた。


 これまで考えなかったことを今更考えるのは、他にすることがないからである。


 セイレンの言葉を思い出す。父と母、兄のことを思い出す。


 何故自分が狙われる。何故家族は殺された。


 自分のために、家族は殺されたのだろうか。


 何故自分に、こんな反則のような能力があるのか。家族にも、あったのだろうか。


 ひどく嫌な予感が、胸の奥で蠢く。


 これ以上、考えたくはない。


 これ以上考えると自分の足元が崩れていきそうな恐怖に、ルチルナは固く目を閉じた。



***



 ぼと、ぼと、と雨の雫が地面を打つ音が響いている。おそらく小屋の軒から落ちる、大きな雫の音だろう。毛布に包まって、フィラーシャは身を竦めた。


 降り続く雨は、夜になっても止む気配を見せない。フィラーシャたちはデュクシスの案内で、彼が時々使っているという小屋まで来ていた。多少遠回りになるらしいが、他に雨をしのげる場所がないそうだ。


 サリアスはあれから意識を失ったままで、ずっとデュクシスに背負われていた。しかし熱をだしたりすることもなく、夕方、小屋で目を覚ました。まだ疲労が残っているようで、食事を食べるとすぐまた眠ってしまったのだが。


 とりあえず、サリアスが無事なことに安堵する。


 しかし、フィラーシャは不安と後悔に震えていた。促されるまま、デュクシスという名の青年と行動を共にしているが、彼は果たして味方なのか。衝撃に霞んだ記憶の中で、彼は、ルチルナを攫った魔物と仲間のように言葉を交わしていなかっただろうか。

 しかし、警戒できるほどの気力が今のフィラーシャにはない。


 このままの気持ちでは、危険なことは分かっている。しかし心の端から、もうどうしようもない、という絶望感が確実にフィラーシャを蝕みつつあった。彼女はまるで現実から逃げるように、眠りへと落ちていく。


 ――四歳のフィラーシャは泣きじゃくっていた。


 それまでずっと一緒だった仲間と、突然引き離されたのだ。彼女は魔導師としての資質を認められ、孤児院から魔導協会のウシュル支部に引き渡された。孤児院でも簡単な魔術を教わることはできるが、資質の顕著なフィラーシャは本格的に魔術を学ばせ、魔導師として育てるべきだ、と孤児院側が判断したのだ。


 たった四歳でそれと分かるほど、フィラーシャの潜在能力は高かったといえる。しかしそんなことは、当のフィラーシャにはどうでもいい話だった。慣れ親しんだ孤児院と、友達や尼僧たちから引き離される恐怖のほうが、ずっと上だったのだ。


 派手に駄々をこねて、半ば指導員達に運ばれるように案内された住居棟の一室に、赤いくせ毛の少女が待っていた。


「はじめまして、フィラーシャよね? 私はアルベニーナ。今日から一緒の部屋よ。よろしくね」


 当時九歳だったアルベニーナはそう自己紹介すると、視線を合わせるようにしゃがみ、フィラーシャに尋ねた。


「好きなものはなに?」


 突然の問いに驚いて返答に詰まるフィラーシャを、アルベニーナは辛抱強く待った。


「お人形? おはなし? おままごと? 他に何かあるかしら……」


 すきなもの、とフィラーシャは口の中で復唱する。フィラーシャは、人形遊びやごっこ遊びより、伝説や童話を語り聞かせてもらうのが好きだった。孤児院では、華やかな物語を暗唱できるようになるまで、繰り返し施設の尼僧にせがんでいた。


「……おはなし」


 おずおずと答えるフィラーシャを、にこりと笑ったアルベニーナは寝台へ座らせた。


「むかしむかしのおはなしです……」


 そしてその前で、身振り手振りを交えながら、古代の魔導師が活躍する物語を暗誦してみせた。最初は泣き腫らした目でぼんやり見ていたフィラーシャも、だんだんとのめり込んでゆく。


 空を飛ぶ魔術。空中戦。魔術師が杖を空へ掲げると、雷が舞い降りて悪魔を滅ぼす。


 九歳の子供が覚えるには、いささか長い物語が終る頃には、フィラーシャはその丸い目をきらきらと輝かせていた。


「ここではね、こういうお話を沢山読めるのよ」


「ほんと?」


「ええ、そのために字を覚えるの。明日から通う学校の図書館には、この続きの本もあるわ」


 フィラーシャの頬が紅潮する。


「そして、このお話に出てくるような魔術を学ぶの」


 それは、物語が大好きなフィラーシャを魅了するのに十分な事実だった。


「じゃあ、ほんとうに妖精さんとお話しできるようになるの?」


「……うーん、かなぁ? 私はまだ習ったことないけど。今日からここで、私と一緒にがんばろうね!」


「うんっ」


 後に聞いた話では、アルベニーナはフィラーシャのために、物語を暗記し、お菓子を用意し、友人達を回って、万華鏡や人形など、色々なおもちゃを借りてきていたそうだ。新しい妹分のために、喜んでくれそうなものを精一杯用意していたのが分かる。


 懐かしい人との幸福な思い出に身を沈め、フィラーシャは夢の中でひと時の休息を味わっていた。



***  



 フィラーシャが幼い頃の夢を見ていた頃。


 夜にもかかわらず、突然支部長に呼び出されたアルベニーナは、協会支部の廊下へと出てきた。一礼して閉める扉は支部長室のもので、その手には、一通の令状を握っている。


「アルちゃん、やっぱり……」


 薄暗い廊下で待っていた、彼女の親友が尋ねる。それにゆっくりと頷いて、アルベニーナははっきりと口にした。


「ええ。次の『勇者』に選ばれたわ」


 親友、チェルセミンが息を呑む。


「そんな、じゃあフィーラちゃんは……」


 神殿に見切りをつけられたとでもいうのか。


 フィラーシャが選ばれ、ウシュルを出てから一月経っている。もしも聖都ですぐ、支度金を返して帰って来たなら、五日とかからないはずであった。これだけの間帰ってこないということは、本当に北へ旅をしているか、それともこちらには戻らず、どこか別の国に仕えるつもりなのか。あるいは、最悪の事態も考えられた。


「私は信じているわ、チェル。フィラーシャは北を目指している。だから、私もあの子を助けに行かなくては」


 はしばみ色の眼を光らせ、アルベニーナは令状を握り込んだ。それを不安げに見つめ、チェルセミンが目を伏せる。


「私は、祈っているわ。貴女と、フィーラちゃんが無事帰ってこられることを」


「ええ、そうして。私は明後日、聖都へ発つ。あの子と必ず合流して、魔王を倒す」


 言い切るアルベニーナは、親友の顔に絶望の色が浮んでいることに、気付いてはいないようだった。



***



 虚空に横たわるルチルナもまた、過去の夢を見ていた。


 薄暗い厩舎の奥。火鉢に灯る、炭火の緋色だけが彼女の見る色彩の全てだった。


 彼女は約五年間に渡り、まるで猫の仔のように、村人達に飼われていた。


 服を血で汚し、裸足で村に突然現れた幼女を、その村の女達は哀れんだ。盗賊か戦乱に家族を奪われたのだろうと考え、養ってやりたいと思ったのだ。しかし、その村は独立したばかりの弱小国家の辺境。寒い地域で土地も痩せている。到底、娘を一人余計に養えるような、裕福な家はなかった。


 ほんの十数件しかない家々が寄り集まり、彼女をとある家の厩に住まわせ、各家が一日交代で、一食ずつ彼女に食事を与えることになった。粗末な食事を日に一食与えられるだけで、それ以上ルチルナに構う余裕は村人にはない。するべきこともなく、その気力もなく、ルチルナはただ、うずくまっていた。


 家族を奪われたあの日から、ルチルナと世界は膜一枚分隔てられている。全ての物事に、興味も関心も持てなくなっていた。誰の顔も区別がつかず時間もあやふやで、まるでいつも夢の中を漂っているようだ。ほとんど口もきかず、一向に何を覚える事もない白痴のようなルチルナに、村人たちの関心も次第に失せていく。


「あか……」


 彼女は、火鉢の炎を見つめていた。



***



 その年の夏、村を大冷害が襲った。例年よりも多く、長く降り続けた雨は作物を腐らせ、緩んだ地盤が畑を押し流した。


 その年は大凶作に終わり、冬が始まる頃にはすでに蓄えが底を尽き始めていた。荒れた国は大して機能せず、貧しい寒村には何の援助も届かない。当然、ルチルナを養っていられるような家はなくなり、最後は彼女を最初に見つけた女が、三日に一度薄い雑穀粥を持ってくる程度になった。


 翌春の作付けに使う種まで食べては、来年がない。


 頭を抱える村人達の前に、人買いが現れる。国はスピニアの侵攻にあっていよいよ乱れ、盗賊、人買い、人攫いの類が跋扈し始めていた。


 身を裂かれる思いで、それでも家族が食いつなぐために、村人達はこぞって娘を売った。


「何故うちの娘を売らねばならんのに、この薄汚い小娘を飼わねばならん!」


 そんな声が誰からともなく上がる。ルチルナを睨み据える彼らの目は、獣よりも獣じみていた。代金の取り分を争いながらも、誰もルチルナを売ることに反対するものはいない。そしてルチルナは、他の村娘達と同じ、人買いの馬車に押し込められた。


 十一歳のルチルナは抵抗しなかった。己の行く末に興味などなかったのだ。家族を失った日から彼女は、ずっと心を閉ざしたままだ。ただ耳飾りが見つからぬよう、髪に顔を埋めて俯くばかりだった。



***



 スピニアの首都、レルムへと向かう森の途中、人買いの馬車は追い剥ぎに遭遇した。ざっと十人はいる人相の悪い男達に囲まれ、いともあっさりと全員が馬車の外に並ばされる。一応いたはずの用心棒はすでに息絶えていた。追い剥ぎたちは、一人が荷物を物色し、一人が人買いの所持品や娘達を検分している。他には辺りを警戒する者がおり、残りは頭領らしき大柄な男を取り巻いていた。


 恐怖に震える村娘達の横で、ぼんやりとルチルナは立っている。


 どこに行くのかなど関心がなかった。どこでも一緒だと思っていたのだ。


 と、人買いの一人が、持っていた短剣を検分役の男に振りかぶった。


「うああああっ!」


 奇声を上げて男に突き立てる。しかし躱されて、大きく前によろめいた。


「てめえっ」


 二の腕を浅く切りつけられた検分役が、いきり立って己の曲刀を引き抜く。切れ味の鋭い曲刀が、人買いの首をチーズでも切る様に刎ねた。


「……っ!」


 村娘達が、無言の悲鳴を上げて萎縮する。大声を上げれば殺されるとこらえたのか、それともあまりのことに声も出ないのか。同じ村にいたにもかかわらず、全く名前も知らない――あるいは名乗られたのかもしれないが、興味がなかったので覚えてもいない――少女達の背後で、鮮血が舞った。


 瞬間が、兄が殺されたそれと重なる。


 眼の底に焼き付いた、鮮血の赤。ルチルナのこめかみを、殴るかのような鼓動が襲う。


「あ……か……」


 赤、紅、緋色、朱。


 それは血の色。炎の色。兄が、両親が流した命の色。ルチルナが村で見た、唯一の色彩。


「あか……あかあかあかあかあか――!」


 どんっ、という爆発音と同時に、馬車が突然炎を吹いた。馬車の荷物を物色していた一人が火達磨になって転がり出てくる。


「な……! 誰だ!」


「きゃあああああっ」


 一瞬で辺りは混乱する。村娘たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。


 村娘を取り押さえる盗賊、この機を狙って逃げようとする人買い、狂乱して悲鳴を上げる娘たち。混乱を極めたその場を、煌々と馬車を薪にした炎が照らすなか、頭領と思われる男がゆっくりとルチルナに近づいてきた。相変わらずぼんやりとその場に立っていたルチルナに、低い声が尋ねる。


「お前がやったのか?」


 多分そうなのだろう、とルチルナは頷いた。


「何故、他の娘達と違う。その汚いなりは何だ」


「……うまやで、飼われてた。村のこどもじゃないから」


 燃え続ける馬車を見遣った頭領は、仲間に指示を出してからルチルナに向き直った。


「お前は、鬼子か」


「おにご……?」


「魔導協会に拾われずに、能力が現れてしまった者のことだ。あの炎をお前がやったのなら、お前は魔術を使ったことになる」


 その説明を聞きながら、ルチルナはぼんやりと頭領を見ていた。殺されるのだろうか、という考えが浮ぶ。


「私を、殺すの?」


 背後では燃え盛る馬車から枯葉や木の枝を遠ざける者、馬車に土をかける者、獲物が逃げないよう捕える者など、追い剥ぎたちが手際よく作業をこなしている。


「俺たちは皆、お前のように村からつまはじきにされた者だ。俺と来い。仲間に妖術使いのじいさんがいる。じいさんから魔術を習うといい。いい戦力になる」


 ルチルナは考えた。首を横に振れば、殺されるのだろうか。


「うん」


 殺されるのが嫌かどうかは分からなかった。しかし、自分と同じだという人々に、少しだけ興味があった。


 こうしてルチルナは、当時レルム周辺で恐れられていた追い剥ぎ団に加わった。他の娘達は追い剥ぎたちの手から売られていった。どうせ元から売られる運命だったのだ、と頭領はこともなげに言った。


 新入り歓迎の宴が催され、「ルチルナ」という名が「赤」という意味だと、ある仲間が言った。それに頷いた頭領がルチルナに、「ガーネットウィッチ」の字を与える。それは、頭領の出身地で「深紅の魔女」という意味だった。


「お前は炎と相性がいいようだから、炎を操る深紅の魔女になるんだ」


 そうしてルチルナは、紅蓮の炎をまとう、深紅の魔女へと成長していった。

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