第24話 望みの綾 4



 フォートは雨の森をひたすら歩き続けていた。不休不眠とまではいかずとも、ほぼ丸一日こうして森の中を歩いている。その目的は、とりあえず村に帰ることだ。雨具など持っていないため、頭からぐっしょりと濡れて黙々と歩く。


 その前方を睨み据える目には、追い詰められた光があった。



***



『――そ、れは……それは余りに……あまりに酷な、お話です……』


 昨日の午後。あまりに壮絶な姿のグラキエラと対面したフォルティセッドは、その銀の族長の話にしばらく絶句した後、何とかそれだけ絞り出した。まるで坑道のような暗くてじめじめとした横穴の中、無残な姿を晒した銀の族長だけが淡い蒼光をまとってフォートの眼前にあった。その今にも潰えそうなかそけき声で懇願された内容は、フォートにとって到底受け入れ難いものだった。


『無論、承知……り、す。だが貴方、り他に……を為、る者も居、い。どうか、陛下の、を呼び……て、の器となり、深……世界、の扉を開、て……い。の……では世界、本、に……て…………』


 最後の力を振り絞るように言葉を紡ぎ、それきり少年――といっても外見だけの事で、実際は数千年もの間銀の族長を務めている実力者だが――の双眸が焦点を失ってぼやけた。恐る恐るそれを確認したフォルティセッドは、じりりと後退ってそのおぞましい姿の背後を見透かす。世界の果てへと続くというその細い隧道は、フォートの眼でも見通せない陰々とした闇に沈んでいた。それに身を投げろと、この身を、闇の王に捧げろと銀の族長は言うのか。フォートの力を以って、闇の王の眠りを覚ませと。


『無理だ……。こんな闇をこの身に受けろだなんて……』


 それが、この力を持って生まれた自分の役目だというのか。


 歴史と実力ある銀の族長ですらその闇の魔力に器を侵され、こんなにも惨い姿を晒すというのに、闇使いとはいえ人間のフォートに、闇の王の魂を受け入れ目覚めさせろとは随分と無茶な話だった。それは、フォートにとっては死を意味する。否、まともな「死」を与えて貰えるかすら怪しいものだ。闇の魔力に魂を溶かされ、消滅してしまうのではないか。そんな根拠もない恐怖に全身が粟立つ。


 フォートはそのまま、二歩、三歩と後退した。


 心の中で繰り返す。不可能だ、と。


 今までフォートはそれと知らず、何度も闇の王の夢に迷い込んだのだという。そして夢の中で、自分に言い聞かせるつもりで、何度も闇の王に語りかけた。繰り返されるそのやり取りが、闇の王の深い眠りに飲み込まれていたグラキエラの魂を揺り起したというのだ。そして、だから今度は、闇の王を目覚めさせろと。


 確かに、フォートは夢渡りの頻度が高い。それがどの程度特異な事なのかなど、人間で闇の魔力を扱える者が他に居ないため考えたこともなかった。しかし、眠る闇の王の魂と共鳴できる者は、彼の他には今まで居なかったとグラキエラは言う。


『それが出来たからって……喜ばしいとは思えないな、やっぱり……』


 元々、この能力が好きなわけですらない。知らず、乾いた笑いが漏れた。「そんな物は要らないから平穏をくれ」と嘆くのはフォート自身だ。そんな事すら、必死になって意識でなぞっていなければ分からなくなりそうな恐怖をもたらす能力が、歓迎できるはずもない。


 ――苦しまなくてもいいんだよ……。


 ――共に、眠ろう。


 意識の隅を溶かして闇の王が歌う。それに同調してしまいそうな恐怖にぎりりと拳を握り、フォートはそのまま踵を返した。



***




 結局のところ、逃げ出してきたのだ。その思いは拭えない。


 下草を蹴立てて歩きながら、フォートは眉根を寄せる。身体が強張っているのは、雨に冷えるせいだけではないだろう。


 暗澹たる気分で夕刻に翳る陰気な雨の森を歩いていると、不意に黄金色の旋律が耳に届いた。歌声に誘われふらりと向かった先、比較的大きく開けた場所にその主が立っている。彼女は優美に流れる残照色の髪に雨粒をまとい、その髪にも勝る神々しい歌声を紡いでいた。暮れなずむ森の中、雨を避けて木蔭に身を寄せた森の生き物たちが陶然と聴き入っている。


 彼女の名は「誕生」。終わりのための始まり。終焉の開始点。


 死へと向かう全ての者は、戻り得ない過去の栄光を歌う、その旋律に逆らえはしない。


 彼女の名はナースコル。「天命」「誕生」「死」の名を冠するセイレン三姉妹の次女であった。


 近づいたフォートに、ナースコルは緑柱石の眼を向ける。その視線に、正に夢から覚めたように頭の中の靄が一瞬で晴れた。いつの間にか魅了されていたのだ。


「何故、貴女がここに……?」


 フォルティセッドは問うた。頭の芯を蕩かすような金の旋律が止まる。おや、とばかりに片眉を上げてナースコルが答えた。


「族長の使いで城にね。少し回り道をと思ったところだが……」


 黄金の美女が艶然と微笑んだ。ゆるく波打つ金の髪が、黄昏の残光のようだ。彼女は今、人頭鳥身の姿ではなく、人間の女の姿をとっている。たしかにセイリア海峡から城までを彼女の翼で飛ぶのに、この場所は遠回りであろう。


「お前は確か人間の闇使いだったな。お前こそ、こんな所で何をやっているんだい? 相変わらず老竜の使いっ走りのような真似をしていると聞くが、あの娘たちを迎えに行く気はないのかい」


 呆れたような声音の問いに、知らず溜息が漏れる。


 セイレン三姉妹には、先月大陸へ渡った時の船路で挨拶していた。闇の王不在の現在、王の代理として夜の民全体をまとめる者はおらず、黒、灰、銀の一族がそれぞれに動いている。フォートのもとへやって来るのが灰の一族のノクスペンナであるため、実質フォートは灰の一族の指示に従っている状態だ。そのため銀の一族とはあまり交流がないが、セイレン族長のソアティスは快くフォートの話を聞いてくれた。


「私は……――ナースコル様たちは、銀の族長の居場所をご存じなのですか?」


 ふと思い出して聞いてみる。ソアティスは聡明であり忠実な、銀の一族の中でも古参の実力者だ。銀の族長不在のここ十年、その代理を務めているソアティスは、フォートが昨日見たものについて知りはしないか。


「グラキエラ様の……? いや、私は知らないけれど――どうかしたのかい」


 問われるまま、弱り切った心境のフォートは昨日見たもの、言われたことをナースコルに話した。その内容に驚いた様子でナースコルは目を丸くし、何かを思い出すように緑柱石の視線を流す。


「なるほどな。そういう、事だったのか……確かに、月の消失と前後してグラキエラ様は姿を消した。ソアティス姉さまも戸惑っておられたから、恐らくはグラキエラ様の独断だろう。…………それで、お前はどうするつもりだ」


 こちらに視線を戻して尋ねたナースコルに、フォートは即答できず俯いた。軽い溜息と共に、少し柔らかくなった声音がフォートに言う。


「まあ、グラキエラ様も無理強いするつもりは無いであろうよ。あの方はあの方として己の望むところを言ったまでだ。もしもお前に別の望みがあるのなら、それを責めることはない」


 ごくあっさりそう言うナースコルに、フォルティセッドは目を見張った。事は銀の族長の意志、ひいては闇の王の為そうとした事だ。この世界の行く末に関わる重大事を前に、随分と淡白な言いようである。怪訝げに見返したフォートの深緑の視線と、ナースコルの鮮やかな翡翠の視線が交わった。甘やかな美しさの中に、歳経た実力者の威厳を含む美貌の目元がふと緩む。


「お前たち昼の民と、我々の心の在りようは違う。義理や大義名分などというもので己を縛り、己が望まぬ事を己に課すことはないのさ。ゆえに、相手にそれを強いることもせん。ノクスペンナだったか。蝙蝠族の小僧が随分とお前を気にかけていると聞いた事があるが……我らに心を砕く相手がいるように、あれにとってお前は庇護すべき存在だろう。私たちはそうやって、それぞれ好きなようにやるだけだ。それより他を知らぬ」


 ノクスペンナの話は初耳だった。身に覚えのない話に戸惑う。ついでに言えば外見にして壮年、実際年齢でも二百近いというノクスペンナの小僧呼ばわりも中々に衝撃的だったが、夜の民は外見年齢と実際年齢が比例しない。黒の族長などは世界創生と同時に生まれたとも聞くから、ナースコルも数百とは言わず年上なのだろう。


「お前たちが招いた小娘どもと共に、我等の愛娘もこちらへ向かっている。我々とて、誰の命であろうともあの娘を差し出す気はない」


「彼女らと共に……? では人間の女性が……一体何者なの――っくしゅん!」


 フォートがサリアス、フィラーシャらと会った時には居なかった者が、一行に加わっているらしい。驚いて尋ねたフォートだったが、言い切る前にくしゃみが出た。立ち止まってしばらく経つ。流石に冷えたらしい。それに眉を上げたナースコルが手招きする。


「そう言えばお前、人間が雨に打たれっぱなしでは冷えて身体を壊すぞ。おいで」


 一つ身を震わせて前に出ると、こちらに手をかざしてナースコルが命令する。


「――散れ」


 その命令一つで、フォートをしとどに濡らしていた雨水は綺麗に散り、乾いた服や髪がフォートの肌をさらさらと撫でた。あまりの鮮やかさに溜息が漏れる。輝くような繊手が黄金色の髪を一筋ついと引き抜くと、それをフォートに渡した。


「それを手首にでも巻いておきな。雨粒を除けてくれる」


 言われるままに金の細い腕輪を作り、フォートは謝辞と共に深々と礼をした。セイレン族は……否、夜の民は皆情が深い。ナースコルが言ったように、彼らは皆気ままだ。その身に含む闇の魔力の性質そのままに、過去を、今手にある物を、個々の思い入れを重視する。争いを好まず、貪欲さを嫌う。その在りようは時にフォートたちを振り回しもするが、時にひどく優しい。


「精霊の、娘だよ。しかも恐ろしく力を秘めた……王族直系だろうね。一度、保護した事があるのさ。とても幼い時分だったし、本人は全く覚えていないようだけど。――まだ覚醒しきってはいないが、あの娘の力と存在は大きい。もしもその宿命に絡め取られてしまえば、二度とはただの人としての人生を歩けないだろう。我らは……我らの愛しい娘に、そのような過酷な運命を強いたくはない」


 精霊の一族とは、光の女王と闇の王の間に生まれた子の、子孫とされる者たちだ。今は神帝軍に根絶やしにされ、ほとんど生き残っていないと聞き及んでいた。実はアダマス自身が、その精霊の王族の直系であったという。それは、村で闇使いを継ぐものには必ず伝えられることの一つだった。彼は精霊の一族の中でも群を抜いた能力を持ち、光の女王、闇の王に迫る力を手に入れた。


 精霊の一族が扱う精霊の魔力は、光と闇の根源とされ、それ故彼らは光と闇の両方を操ることができる。他にも昼の民で闇使いや、夜の民で光使いを持つ種族はいるが、彼らは両方を扱うことはできないのだ。かくいうフォートも、炎まではなんとか使えても、光の魔術を使うことはできない。


「己の大切な物と世界を天秤にかけて、おのが執着を選ぶが正しいとは言わぬよ。だが、お前ではない、おまえの兄弟が人としての自分を捨てねばならぬと言われて、お前は納得できるか。足掻きもせずに受け入れるべきだと言えるか。」


 考えるまでもない。フォートは横に首を振った。村にいる限り、世界の崩壊など嘘のようだ。大陸に渡って各地を巡る中で、乾き、荒廃した風景を間近で見たはずだ。しかし、そこは所詮、フォートにとっては異国でしかない。彼の住むこの森がその危機に晒されている実感は湧かない中、家族を犠牲にしろと言われて納得できるほど、フォートは崇高にできていない。


「――あの小娘どもを待ってみろ、人間の闇使い。あの娘の事を蝙蝠の小僧や灰の老竜に漏らす事は許さん。老竜はあの娘の存在を知れば見過ごしはしないだろうからね。私たちはあの子を、ただ手駒として扱うことは許さない」


 重い雲に覆われた空の西の端に太陽がかかり、辺りは早くも夜を迎えようとしている。常人より遥かに夜目が効くとはいえ、色彩を鈍らせ始めた視界のなかで、鮮やかな緑の眼がきらりと光った。その眼光が、禁を侵せば容赦はしないと雄弁に語る。


「世界のためなどという大義名分の喰い物に差し出すことはできないが……もしもあれに、世界の行く末に関わる意思があるなら、必ず城まで辿り着くはずだ。精霊の力を以ってすれば叶う事もあるだろう」


 幾分声音を和らげて、ナースコルが希望の在り処を示すように、太陽の沈んだ場所を指差した。


「あちらが城と、お前たちの村がある方角だ。この期に及んで、二日や三日で取り返しがつかぬ程の事は起こらないだろうよ。焦らず家で結論を出すことだ」


 そう言って、ナースコルはふわりと片腕を振った。集まっていた動物達が三々五々に散っていく。なおも迷いの晴れないフォートにナースコルは微笑んだ。


「疲れたのならばお眠り、刹那の時を生きる人の子よ。瞬きする間に終わるような人生だ、徒に苦しむ時間は勿体無いだろう」


 その慈愛に満ちた微笑みと共に、柔らかな旋律がフォートを押し包む。いま誰かの魔術で「眠らされる」など御免こうむると思っていたフォートだったが、実際疲弊していた心身はセイレン族の紡ぐ旋律に全く抗う事ができず、フォートの意識は再び暗転した。


 冷たく凍えて震える心を、押し包む闇は優しく温かい。


 それが永劫の眠りでないならば。また次の朝、全き自分として目覚められるならば。


 闇の中で目を閉じることは、こんなにも心地良いものなのだ。

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