第六章 望みの綾
第21話 望みの綾 1
時は一日遡る。
フォートを抱えたアルボルンは彼に何の危害を加える様子もなく黙々と木々の間を跳び続け、島の北東、山脈の麓の辺りまでフォートを運んだ。フォートの住む村は大陸の北東に位置するかなり大きな島にあり、大陸とはセイリア海峡で隔たっている。以前は隔絶されている、といって差し支えなかったが、ここ数年にスピニアが島の南西の端に港を開いてしまったため、そうではなくなってしまった。
スピニアはセイリア海峡を挟んだ大陸北東端の軍事大国で、山脈に眠る水晶を採掘するために島の南、東海岸に沿ってそびえるダロス山脈の南端を開発している。だが実際の山脈はほぼ島の北端まで連なっており、水晶の埋蔵量は北上するにつれ多くなる。フォートたちの村はその山脈のほぼ中央に位置し、南北に弧を描く山脈に、正に抱かれていると言っていい。彼らの村の真後ろ、一際高くそびえる山岳が闇の王の城なのだが、その村からも随分北寄りの山麓に、フォートは放り出されてしまった。
森の奥深く、身の丈程度の低い崖となった場所の付け根部分に、岩盤を穿ち黒々と洞窟が口を開けていた。大人一人が入れるか否か程度の、地下へと続くらしいその穴ぐらの前にフォートを置くと、アルボルンは慌てたように辺りを見回す。
「……何故俺はここにいる?」
困惑した様子でフォートに向かって尋ねてくる。攫った相手に尋ねたところで無駄であるのだが、当人は自分がフォートを攫ったことすら自覚していないらしい。だがそれ以外は全く、何の異常もない。どうやらやはり、光に侵されていたわけではないようだ。
人間であるフォートと、全く別の姿を持つアルボルンは当然言葉も異なる。しかし、もしこのアルボルンの青年も闇の魔力を使えるであれば、闇の魔力を介して会話が可能である。闇の魔力を扱える者は、その力を使って相手の思念を読み取ることができるためだ。
結果として夜の民の場合、魔術の心得がある者同士ならば大抵会話は交わせる。夜の民は大抵闇の資質を持っている上、この「読意」の魔術は闇の魔術の中でも、殆ど意識せずに行える極々初歩的なものだからだ。相手がただ内部で思考しているだけの状態で、勝手に相手の思考を読む事はある程度力がないと出来ないのだが、伝える意思がある場合は意識しなくとも、自然に相手の「言葉」として入ってくる。これは強く精神を司る闇の魔力の特性だった。
その高次技術として、ある種の魔術に長けた者であれば自分の意思を、言葉も通じず闇も扱えない者に伝えることもできた。セイレン姉妹やノクスペンナなど、ただの人間であるフィラーシャやデュクシスらと会話できる者たちがそれだ。しかし残念ながらフォートにはノクスペンナたちのような、自分の言葉を相手に理解させる能力はない。
「君の名は? 僕はフォルティセッドという」
「テネルだ。フォルティセッド……知っている。人の村に生まれた闇使いだな? 私も一族の中で一番若い闇使いだ」
とすると、闇使いとしては一族の中で最も未熟な彼に、何者かが憑依して操っていた可能性がでてくる。それならば闇を注いでも正気に戻らなかった説明もついた。闇の資質を持つ者は他人の精神に干渉する能力を持つ。そして逆に、干渉されやすくもあるのだ。頷き、フォートは更に尋ねた。
「君は、何者かに操作されていたようだけど?」
そういった真似をする者の心当たりは一つあった。テネブラウィスだ。しかし彼には今、フォートを攫うような理由はない。
「……そのようだな。だが入られたことも分からなかった」
大抵、干渉を受ける時はその最初に、相手の意識との接触がある。入られたことすら分からない、という事態は子供の頃ならいざ知らず、ある程度闇使いとして修養を積んだ者ではまずあり得ない。
「それは……よほどの存在が操ったのか……? 君を」
「かもしれないな。とりあえず、お前をあの中に入れたかったのではないか? その存在は。そんな気がする」
己に残った、操り人の残滓を追うように目を細めながら、テネルが言を継ぐ。その視線を追って裂け目へと目を向けたフォートは、悪寒が背筋を這い上がるのを感じた。
「あの、中へか」
言葉が堅くなったのに気付いたのか、隣に立つテネルが頭二つ分上からフォートを見下ろす。
「お前もか。あの中から恐ろしいほどの闇が溢れ出しているな」
暗緑色の毛並みを逆立てるように、テネルも身震いする。夜の民でもあまりに濃い闇は恐ろしい。人間もあまりに強い光には、灼き尽くされる恐怖を覚えるのと同じだ。
「さて、どうしたものかな……」
腕を組んで呟く。まだ剣を握っていたことに気付いて、鞘に納めた。相手の正体も真意も全く分からぬまま、あれだけの魔力が渦巻く中へ入るのは気が引ける。そう、もう一度穴に視線を戻したところで、視界が暗転した。
フォートの精神を一瞬にして、深い闇が覆う。その底に、かすかに銀の輝きが見えた。
この世の全てを覆い尽くす、圧倒的な悲しみ。紺青の闇。銀。去ってゆく足音が、漆黒の大理石を通じて直接体に伝わってくる。
――この、感覚は――!
混濁した意識は現実を離れ、自分のものでない記憶が五感全てで甦る。
あり得ない可能性に、フォートは行き着いた。かの王は、フォートたちの村を見下ろす場所で眠っているはずだ。このような場所にあるはずがない。そう強く否定しようとするフォートに、銀の瞬きと共に幽かな声が届く。
『ここへ……誰か、…………て……』
儚い少年の声。それを塗り潰すように深い深い哀しみと憐れみがフォートを闇の底へと誘う。苦しみも痛みもない、安寧の虚無の中へ。
だが、与えられる無条件の安らぎを、闇への恐怖心が跳ね返した。――そう、闇使いでありながら、フォートは闇が嫌いなのだ。
夜眠ると、フォルティセッドは彼自身ではなくなることがある。他人の夢の中、無論彼自身はどこにも存在しない。感情や思考すら、彼のものではない。そのことは幼い頃から彼を怯えさせた。さらに、自分の記憶と溶け合ってしまった他人の夢を口にしてしまうと、彼自身が気味悪がられることになる。また、起きている間でも大人たち――主に闇の者たち――の都合で、彼は彼自身を奪われることがあった。
自分のものであって、自分のものでない精神と肉体。
自分がどこの誰なのか、存在の輪郭が曖昧なことへの恐れ。
望まれた能力であり、ある意味、己の存在意義であったとしても、拭い去れない不快感。
それは、フォートの中で「闇」そのものへの恐怖でもあった。
漆黒の悪夢から逃れようとするフォートに応えるように、銀の瞬きが強まる。そちらへ縋るように手を伸ばすと、ひときわ大きな瞬きと共に視界が白一色に染まった。
***
フォートは、はっと目を開けた。頭の芯がぼやけて、一瞬自分が立っている場所を完全に見失う。暗くかび臭い、湿った狭い場所。思わずついた溜息に、忌々しさが多分に溶け込んだ。
直前の記憶は、この穴ぐらの外だ。なにか面白くない事を考えていたような感覚があったが、ふと目を上げた先の、光景の異常さにそれも消し飛んだ。
腹の底から、冷たいものがせり上がる。思わず跳ねるようにあとずさって、周囲を見回した。眠っていたように感じていたが、体は立ったままだったらしい。何をされたかは明白だった。身体を乗っ取られたのだ。
彼に憑依した者は、彼の目の前に端座していた。
否。彼の目の前にあるそれは蝕まれ、もはや「物」と化していた。
薄青い光をまとう、十を越えるか否かの少年。幼さの残る頬に、無残に突き出した黒い六角柱の結晶。静かに座るその体からも無数の、剣のような闇色の水晶が服を食い破って、数本突き出している。
肌の露出した部分は、まるで染みのように闇色が斑に白い肌を侵し、それでも溢れた闇が肌から滲み出て、結晶化しつつあった。半ばに開かれた氷蒼の眼は虚ろで、もはや本来のその体の主に、そこに映る物を届けてはいないようだ。
「これは……」
一体誰なのか。思わず呟いた声が、無様に震えていた。
――疲れたろう、辛かったろう。
――目を閉じて、耳を塞いで。
――苦しまなくてもいいんだよ……。
――共に、眠ろう。
突然、意識の端が全く別の言葉を紡ぐ。
以前からよく、夢の中で聞いた声だった。永劫の眠りに誘うそれは、まるで子守唄のようだ。一つ大きく頭を振って、フォートはそれを払いのける。握った拳を額に押し当て、絞り出すように呟いた。
「違う。まだ僕は――」
永劫の眠りなど、望んではいない。目を閉じるつもりも、耳を塞ぐつもりも、ない。
必死にそう念じる。いつの頃からか時折夢で歌うこの声に、いつか絡め取られる日がくるのか。そんな恐怖をずっと抱いてきた。今目の前にあるのは、その根源か。
「……こに……か、居、ので……か?」
子守唄とはまた別の、幽かな少年の声が混じり込む。はっと顔を上げたフォートは、目の前に無残な姿を晒す、夜の民の少年を凝視した。
「は、い――人間の闇使い、フォルティセッドです……」
恐る恐る返事をする。すると、虚ろだった少年の氷蒼の眼がふと焦点を結んでこちらを見た。
「……たし、は、グ、キエラ。……こに、る、は、銀……下の、魂で……」
その少年が名乗ったのは、十年来姿を消しているという銀の族長の名グラキエラ。そして彼は言った。――ここに眠るのは、闇の王の魂だと。
***
その日デュクシスが村に戻ったのは、既に気温は峠を越して、ゆるやかな下降をしている頃だった。それでも、他の者達は半日で歩く距離を約二刻で踏破したのだからたいしたものである。
「それで、どうするつもりだ、デュクシス」
ことの成り行きを聞いた彼の父親は、静かにそう尋ねた。
「どうするのが一番だろうな……どう思う、親父」
乱れた様子なく、デュクシスが肩をすくめた。彼は急いで帰ってきた疲労も、そこまでさせた焦燥も一切感じさせない、飄々とした様子で応接室の長椅子に座っている。
「……理由が分からぬ間は動きようがない」
「じゃあ、どうすれば一番早くその理由が分かるか、って話だが……」
ふむ、と顎に手を当て冷静に考え込む息子に、村長アクイラは軽く息をついた。
反抗的、というよりもむしろ挑戦的なまでに、村の政に必要な勉学を拒んできた長男は、何故だか兄弟のうちで最も、冷静に物事に対処する能力が高い。恐らくは野山を歩き回りながら経験を積んだ成果であろう。普段、父親の補佐などは全く見向きもしないが、その能力をアクイラは高く評価していた。
「攫って行ったのはアルボルンだった。連中がフォートを攫う理由はありそうにないが……」
顎をさすりながらデュクシスが言を継ぐ。思考に沈むその視線が、鋭く横に流れた。
「……こっちに引き返してくる時には、あいつが攫われた理由は二つ可能性があると考えていた。一つ目は村自体に悪意を持つ者が、村の戦力を削ぐため、あるいは脅迫の切り札としてフォートを使うため。二つ目は、あいつ自身の能力、立場を利用するためだ」
本人に対して害意があったのならば、わざわざ攫うなどという回りくどいことをする必要はない。ならば彼を手中にすること、あるいはデュクシスらと隔離することに価値があった、と考えるのが順当であろう。
アクイラの村は古代より、光の女王と闇の王の交わした取り決めに基づいて存在する。彼らの存在は正当なものであり、由緒もある。しかし、夜の民にも様々な主義の者がおり、その内に、彼ら「闇の魔力を使える人間」を疎んじる者がいてもおかしくはないのだ。
「村に異変はない。そのような報告は受けていないし、現に静かなものだ」
父、アクイラの言葉にデュクシスも頷く。では、「人間の闇使い」としてのフォートに、なんらかの利用価値を見い出した者の仕業である可能性が高い。
「次にアルボルンだな。彼らと不和になったことはない。元来温和な種族だし、たとえ何かあったとしても、こんな乱暴な手段に出る連中じゃあないだろう」
アルボルンが現れたときの記憶を手繰るように視線を上げて、デュクシスが考察を続ける。実際にアルボルンの集落へ行って、事情をきくべきか。しかし、それは恐らく不可能であった。何故ならまず、彼らの集落は高い樹木の上である。ほとんど多種族と関わりを持たずに暮らしている為、その樹上集落まで登らなければ、彼らに会うことは無理だ。しかも、闇使いのフォートがいないことで、彼らとの会話は十中八九できない。
恐らく相手の中に闇の魔力を使える者は多くいるだろう。しかしこちらはフォート一人。そしてそのフォートが今回いないのだから、相手にこちらの言葉を伝えることはできても、相手の返答をこちらが理解するのは無理なのだ。
「もう一つ考えなきゃならんのが、襲ってきたアルボルンが、他の何者かに憑依されてた可能性だよな」
フォートもそうだが、闇の資質を持つ者――特にまだ若く、術者として未熟な者――は、より高位の術者にとって操りやすい存在である。現在の状況を鑑みると、この可能性が一番高いように思えた。
夜の民は大きく六つに分かれる。
それぞれの魔力比率の高い高次亜世界に住む、水棲の一族、地中の一族、暗闇の一族。そして現物質世界に住む、黒の一族、灰の一族、銀の一族であった。
おのおのが族長を頂点とした独立の組織であり、五人の族長――暗闇の一族は闇の王が直接支配しているため除く――の上に、闇の王が立っている。フォートと接触していたのは灰の一族で、銀、黒の一族は現在、全く別行動をとっていると言っていいようだ。
黒の一族は別名「森林の一族」と呼ばれ、深い森に棲まう種族で構成される。闇の王第一の側近であったシルヴァという黒豹族の女性を族長に頂き、闇の王やその城などを守護する役割を担っていた。
灰の一族はテネブラウィスという名の竜族を族長に頂く別名「岩陰の一族」で、闇の王の命令を武力を以って遂行する軍隊である。竜族の他、蝙蝠族など峻険な岩場や洞窟を棲家とする種族の集まりだ。
銀の一族の別名は「氷雪の一族」、極寒の平原や氷河などに住む種族で構成される。雪狼族のグラキエラを族長とする彼らは知識や教養に富み、闇の王城における記録の管理や、執政についての相談役などを担っていた。
フォートの口振りでは、どうも灰の一族の独断で、大陸の人間を何かに利用しようとしている様子である。フォートは灰の一族とのやりとりの全てをこちらに話していたわけではないが、その程度のことと、そしてフォートがそれに協力していることくらいは分かっていた。
ならば、彼を攫ったのが灰の一族の者である可能性より――個人的な事情でない限りにおいてであるが――他の二族によってなされた可能性が大きい。亜世界に住む者たちの話は、実は全く聞いたことがなく、現在彼らと接触することが可能かどうかも怪しいのだ。
「黒か、銀の者の為したことかも知れん。『勇者』を呼び寄せることを良く思っていない者も多いだろう。あれがいなければ、実質的な橋渡しを灰の一族は失うのだからな」
「だが、あの蝙蝠のおっさんがいれば、俺達でもなんとでもなるだろう」
ノクスペンナを間に立てれば、村の人間での代役も不可能ではない。常であれば闇の資質を持たない村人は夜の民の言葉を理解できないが、ノクスペンナはそういった魔術の才がないただ人にも己の意思を伝える能力を有している。現状で、フォートを押さえる事が「勇者」計画とやらの阻止に有効とも思えなかった。
思案を巡らせるよう屈み込んでいたデュクシスが、ああ、ともうう、ともつかない唸り声と共に天井を仰いで溜息をついた。
「……アルボルンの所に行っても、事情が聞けるとは思えないな。王城に行ってみる手もあるが、この時間からじゃ無理だ。どっちにしろ明日以降だな、これは」
闇の王城まではゆうに半日以上の登山する必要がある。既に日は傾き、黄金色の光を厚い雲の途切れ目から差し込ませている。さらに易々と中に入れてももらえなければ、事情を知っていて言葉が分かる、高位の者に会わせてもらえるかも分からない。
「ああ。どんな事情にせよ、すぐさまフォートに身の危険があるわけではないだろう。急いて判断を誤らないことが第一だ」
アクイラたちに、夜の民の詳しい内部事情は分からない。たとえ分かっていたとして、彼らからの働きかけでどうこうできるほど、村と夜の民たちの関係は対等ではない。限られた情報と選択肢の中で、村を守るために最善の行動をとる必要があった。
古い契約の元、存在を保証されている彼らの村だが、その契約を交わした庇護主不在の今、彼らの立場は微妙で不安定ともいえる。黒、銀、灰、どの一族にしろ、その族長級の相手がこの村を潰そうと思えば、一刻を待たずに更地に出来るのだ。
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