第22話 望みの綾 2



 銀彩は自らが放った、狂者と化した氷獣使いの男が三人の招かれざる客達と対峙するのを見届けて、女主人の元へ向かった。彼の主は自室で、安楽椅子に身を沈めている。


「そうか。ご苦労だった。小癪にも監視者たちを全て倒した様子、あの狂者に仕留められるかは分からぬが……まあよい。明日にでも様子を見て、もしまだ性懲りもなく進んでいるようなら銀彩、お前が始末して来い」


 女主人はそう言って、気だるげに安楽椅子から立ち上がった。纏う銀糸を縫取った黒絹が、さやさやと涼しげな音を立てる。


「どちらへ?」


「灰の老竜が来る。出迎えてやらねばなるまいよ」


 滑るような足取りで女が扉の前に立つと、ひとりでに扉が開いた。その向こうの薄闇に人影が立っている。


「お久しぶりですな、シルヴァ殿。それとも、湖影殿と呼ぶべきですかな?」


 深い皺の刻まれた土気色の肌、きっちりと撫で付けられ、後ろで一つに纏められた髪は灰色。老体ながら背筋の通った長身の上で、厳しさが全面に出た顔が女を見下ろしている。灰の族長、竜族のテネブラウィスだった。


「……これはテネブラウィス殿。お早いご到着だな。わざわざ私室までご足労いただき、恐縮の極みだ」


 家人も通さず、勝手に屋敷の中へ入ってきたと見える無礼な老竜に、厳しい声音でシルヴァが返した。竜族は夜の民の中でも老いるのが早い種族だ。シルヴァよりも年老いた姿をしているが、テネブラウィスは最も創設の新しい灰の一族の族長であり、世界創生以来、闇の王第一の側近として仕える黒の族長シルヴァより、遥かに年下だった。


「相変わらず屋敷に人を置かぬご主義のようだな。勝手ながら失礼させて頂いた」


 言って平然と室内へ入ってくる。跪いた体勢のまま、不快な思いでそれを見ていた銀彩を、至近で老竜が見下ろし、言った。


「お前がシルヴァ殿のお気に入りか。見ぬ顔だな」


「銀彩……アルジェントと申します。大戦後に召抱えていただいた者ですので」


 頭を垂れて答えると、上で頷く気配があった。それきり興味を失ったのか、五大族長の纏う衣の、長い裾が遠ざかっていく。黒の一族は、慣例として名を二つ持つ。真の名と、それぞれの立場や真の名の意味からつける通り名だ。銀彩の場合、アルジェントが真の名で、銀彩がその意味からつけられた通り名である。シルヴァも湖影という通り名があり、こちらは闇の王の第一の側近であったことから付けられたものであった。


「なんでもシルヴァ殿、貴殿が例の者達に刺客を放ったとか」


 老竜は部屋の北にある窓の外、夜闇に沈む深林へ話しかける。安楽椅子まで戻ったシルヴァが、ついと形の良い眉を上げて答えた。


「いかにも」


「互いに邪魔はせぬという約定、お忘れになられたと見える。あれらは我が持ち札、勝手に殺されるのは迷惑だ」


「何を言いにおいでかと思えば……」


 白い喉を鳴らしてシルヴァが哂う。もう一度安楽椅子に腰掛け、彼女は言を継いだ。


「何か忘れておいでのようだ。我ら黒の一族は主と、主の城を守るが役目。私はただその役目を忠実に果たしているに過ぎん。灰の族長殿こそ、わざわざ我等が仕事を増やさぬよういただきたいものだな」


「貴殿は少々、職務に忠実すぎるようだな。何度も言ってきたはず、主の復活には昼の民を利用するのが一番良い方法だ。貴殿ほどもあろう者が、大戦以後、少々頑なになりすぎてはおらぬか? そのようでは陛下の復活もなしえぬぞ」


 不快げにシルヴァが脚を組むと、黒衣の深い切れ込みから白亜の膝があらわになる。滑らかでありながら美しく引き締まった、絶妙の曲線を描く脚を惜しげもなく晒し、膝の上で指を組んだシルヴァが言った。


「御身こそ、人間どもを使った遊びにうつつを抜かし、為すべき事をお忘れにならぬようお願いしたいものだな。一刻も早く宝珠を見つけ出し、取り戻す事こそ陛下の御意思だ。……構わぬ。銀彩、明日には必ずあの者達を始末してこい。もう下がってもよいぞ」


「御意」


 傲然と言い切ってひらりと手を振ったシルヴァに一礼し、退出しようとする銀彩をちらりと老竜が振り返った。


「仕方あるまい、貴殿らにあの者達の力を試していただくとしよう」



***



 シルヴァの屋敷から戻ったテネブラウィスは、己の配下であるノクスペンナを呼び出した。


「銀彩にあの者達を殺されるわけにもゆくまい。さすがに黒の族長の腹心ともなれば、人間の娘どもにかなう相手ではないだろう。お前が……いや、村の闇使いにも行かせて、適当なところで間に入れ」


「では、銀彩殿はいかが致しますか。止めだてしたところで納得はしますまい」


 ノクスペンナの言葉に頷き、テネブラウィスは漆黒の眼を細めた。縦に裂けた金の瞳孔が同時に、糸のように細まる。


「さすがに殺すわけにはゆかぬ。闇使いを使ってうまく人間を逃がせ。それでもなお追うようであれば、お前の力でならば眠らせることもできるだろう」


「かしこまりました。では」


 退出しようとするノクスペンナを、ふとテネブラウィスは呼び止めた。


「……闇使いの様子はどうだ。黒より交渉を引き受けてしばらく経つが」


 その闇使いは、目の前で頭を垂れる蝙蝠族の男がテネブラウィスに仕えるきっかけを作った者だ。ノクスペンナがテネブラウィスに近しく仕えるようになってから、まだ年月はごく浅い。訊ねたテネブラウィスに、折り目正しく頭を下げたままノクスペンナが答える。


「は、つつがなく。我々の計画に賛同し、よく動いております」


「ふん、こたびの計画が完遂したのちは、闇使いとの交渉役を黒の一族に返すとしよう。黒の族長殿は随分と気が立っておいでのようだからな」


 古来、人間の闇使いとの交渉は黒の一族の者が担ってきた。灰の一族であるノクスペンナが人間の闇使いとの連絡役をしているのは異例の事で、それが誇り高い黒の族長の不興を買っている部分はあるのだろう。年功は違えど同じ五大族長という地位にある以上わざわざ媚びるつもりもないが、無駄な事で争う必要もない。テネブラウィスはただ、無駄な拘りで時間を浪費する事を良しとしないだけだ。


「承知いたしました」


 常と変らぬ平坦な声音でそう答えたノクスペンナは、フォルティセッドがいるはずの村長の館へ飛び立って行った。



***



 深夜、二階の自室で眠っていたベルルサージュは、隣室からの物音で目を覚ました。隣は次兄の部屋、次兄フォルティセッドは、今はいないはずである。まさか自宅に帰るのに、わざわざ二階の窓を使用する性格の兄でもあるまい、と上掛けをはいで半身を起こす。


 灯りの芯が焦げる音しかしないような夜に、隣室の物音はよく響いた。


 少し緊張しながら、物音を立てないように立ち上がり、小さく開けた扉をすり抜けて階段を降りる。そのまま長兄デュクシスの部屋へ行き、扉を叩いた。


「どうぞ」


 普段と変わらないように見える長兄だが、今日昼間に帰ってきてからこちら、何となく雰囲気が怖い。もう明け方も近い時間だというのに、まるでまだ起きていたかのような反応だった。きっとロクに眠れていないのだろう。


 自分の倍生きている兄とは、普通なら接点などそうないものだろうが、ベルはデュクシスに弓を習った。


 村の女は滅多に村の外には出ないので、武術を習う者などベルくらいである。しかし、デュクシスはベルに対して「女の子だから」などという容赦はせず、本気で弓を教えた。おかげで、弓も村で五指に入る腕前だが、同時に、よく分からないことで評判の長兄の雰囲気も、人よりは読める。


 あれは絶対に怒っているのだ、と昼間の一件を聞いたベルは確信していた。


「デュクシス兄、あたし。ちょっといい?」


 戸を開けながら声をかける。顔を覗かせると、長兄は寝台に腰かけ手燭に灯りをつけているところだった。


「どうしたんだ? 珍しい」


 確かにあまり、わざわざ互いの部屋を行き来することはない。居間で一緒に転がっていることはあるが。


「あのね、フォート兄の部屋から……」


 経緯を話すと、長兄はゆっくりと立ち上がって言った。


「――飛んで屋に入る夏の蝙蝠……だと嬉しいがな」


 灯りの具合か、その笑みは、とても恐ろしいものに見える。


 ――やっぱり、怒ってる。


 こっそりと肩を竦めたベルルサージュであった。


 実は、恐らく他の誰よりもデュクシスとフォートの関係を正確に把握しているのは彼女である。



***



 ベルルサージュから話を聞いたデュクシスはすぐさま灯りを持って、上階のフォートの私室へ向かった。後ろをひょいひょいと元気者の妹がついて来るのを、階段を登った所で彼女の自室に押し込む。


 ことさら何気なくフォートの部屋の扉を開くと、果たして、その窓際に漆黒の人影は立っていた。


「生憎だが弟は不在だ。俺で良ければ伝言くらいことづかるぜ?」


 真っ暗な室内に灯りを掲げて目を細め、相手の表情を窺おうとする。暗闇で見える目など持っていないので、さっさと部屋の燭台に火をつけてしまうことにした。


「何故だ」


「それはあんたの方が詳しいんじゃないのか。生憎俺は、あいつが今どこにいるかも知らないね」


 鉄面皮の蝙蝠男に、冷たい一瞥を投げる。今回のことは灰の族長が仕組んだことではないようだ。


「……、闇の者が彼を?」


 その問いに肯定も否定もせず、デュクシスはノクスペンナの方へと向き直った。


「あんたの要件は何だ。先に言っておいて貰わないと、こっちの要件は少々長い」


 少し眉根を寄せ、間をおいてノクスペンナは答えた。


「森まで来ている戦士たちのことだ。フォルティセッドがいないのならばお前でも構わん」


 なるほど、と呟いてデュクシスは、窓辺に近い机の椅子に腰掛ける。


「お望みならそりゃあ付き合うがね。だがこっちもあんたに頼みたいことがある。そっちだって、ずっと俺をフォートの代理にしとくわけにはいかんだろう」


「彼を探せ、と?」


「あんたが居場所を知らないならな。犯人の目星もつけてくれると嬉しいがね」


 しん、とした空間。静かな二人の会話のみが漆喰の壁に響く。細く張りつめた夜の冷気が、室内を漂っていた。


「我々はそのことを把握していない。もし黒の一族のしたことならば、こちらも彼らには用がある」


 黒の一族。デュクシスは、その言葉を喉の奥で反復する。


「俺たち村に対する敵意によるものでないなら、まず、あんたら絡みのことだろう。黒の一族と対立しているのか?」


 フォートが捲き込まれている事態の見当を、ノクスペンナは大よそつけているようである。デュクシスに説明するつもりもない様子だが。


「ああ。こちらは明日の朝に間に合えばいい。夜が明けた頃に来よう」


 言うとノクスペンナは身を翻し、窓枠に手をかけた。それを制するようにデュクシスは尋ねる。


「待て。その前に、あんたに確認しておきたい。灰の一族は、この村をどう捉えている? 利用するだけの駒か、庇護に値するものか、それとも……」


 ゆっくりとデュクシスはノクスペンナに近寄り、様子を窺う。


 これまでこの村は、ほぼ全面的に夜の民を信頼してきた。今回のことで、その信頼は揺らいでいる。夜の民に対して彼ら村人は余りに非力だが、これまでどおりの関係を続けられないのなら、それなりの覚悟をしなければならない。


 それほど、村にとって夜の民は脅威になりうる存在であり、闇使いの存在は村の中で大きいということだ。


「お前達の存在は我等が主の契約。我等が主に忠誠を尽くす限り庇護すべき存在だ」


 そう簡潔に答えたノクスペンナは、少し口許を綻ばせて続ける。


「存外弟よりも、荒い気性をしているようだな」


 そして闇に消えた。


 最後の言葉に目を見張ったデュクシスは、それを見届けて、やれやれと窓を閉めた。殺気が隠しきれていなかったのか。それとも魔力を感知されてしまったのか。どちらにしろ、感覚の鋭敏なあの蝙蝠を欺くことは、自分では不可能らしい。そう結論付けて、腰に忍ばせていた、光の魔力をこめてある短剣を取り出した。


 この短剣は以前、デュクシスが大陸に渡る機会があった際、独断で作った物だ。滅多な相手ではその存在に気づけない代わり、これの一太刀程度ではノクスペンナどころか、アルボルンにもかすり傷程度しか負わせることはできない。だが、光の魔力がこめられている分、その一太刀で、相手を狂化させることはできる。最悪、そのことを脅迫として使う気でいたのだ。


「……へいへい、明け方ね。今からでも寝ないよりはマシかねぇ」


 修行不足に頭を掻きながら、デュクシスは自室へ引き返した。


 サリアスが真っ暗闇の中で襲撃者を倒し、己の指先すら見えぬ真闇の中眠りについた、丁度その頃である。

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