第20話 凍土に流れるもの 4
同じ日、サリアスらはひたすら川沿いを上流へ、上流へと辿り、森の中を歩いていた。魔王の城のある山脈までは大体、十日程度を見込んでいる。まだ二日目、先は長いが、景色にさほど変化がないせいか、セイリア海峡までの旅よりも数段長くこの森に居るようにサリアスは感じていた。
昨日の戦闘のこともあり、始めは辺りの気配に警戒しながら進んでいた。しかし、あれから全く魔物は出没せず、既に辺りは暗くなり始めている。
「今日はそろそろ休まないか」
振り返ってルチルナとフィラーシャに言う。二人が頷くのを確認して、木々に間に見える河原を覗いてみると、かなり広く乾いた砂地が広がっていた。今日は午後からどんよりと曇っているが、幸いにして雨は降っていない。雨季に雨が少ないのは良い事ではないのかもしれないが、野宿をする上で乾いた地面があるのは有り難いことだった。
「あちらの河原がよさそうだが、どうだろう?」
そう尋ねると、ルチルナがサリアスのところまでやって来て同じように河原を見る。
「ああ、いいんじゃないかしら。森の中じゃ、今回はちょっと火を焚く場所がないわよね」
ルチルナの言うとおり、このあたりは火を起こしにくい。何故ならこのあたりは既に、地面は凍土なのである。更には、火を囲んでどうこうできるほど空いた空間がないのだ。
「では……斜面になっているな。先に私が下りるから、荷物を渡してくれ」
荷物を背負って下りるにはいささか足場が悪い。サリアスは自分の荷物を地面に降ろすと、自分の背丈より少し高い程度の斜面を滑り降りた。
「ルチルナ、三人分の荷物を」
頷いてルチルナが、順に荷物を滑らせてくる。全て下ろすと自分も滑り降りてきた。
「フィラーシャ、大丈夫か?」
先の二人は中腰に平衡をとって滑り降りることができたが、最後のフィラーシャは引きつった顔で斜面を見下ろしている。
「杖を先に渡しなさい。怖かったらお尻で下りてくんのよ!」
多少汚れるかもしれないが、それが一番安全そうである。本人もそう思ったのか、意を決した様子で滑り降りてきた。無論、お尻をつけてである。
***
一通り野宿の支度を済ませ、鍋をかけた火にあたりながらフィラーシャが言った。
「それにしても、なんか魔物に襲われる前に熊が出そうだよね」
豊かな清流には多くの魚が泳いでいる。森は生命の気配に満ち溢れ、サリアスたちを圧倒していた。物心ついた頃には、自然界は衰弱をし始めていた若年者二人などが戸惑ってしまうほど、その森は濃密な命の息吹を擁している。
「ま、熊だって襲ってくりゃ魔物と一緒でしょ。狼も出てもおかしくないわね」
さも当然、といわんばかりにルチルナが返す。実際には動物は人間と同じ光の恩恵をうけて生きる昼の民であり、魔物は闇を力の源とする夜の民である。しかし、そういった概念はとりあえず、ルチルナは気にしていないようだ。彼女にとっては凶暴な動物と魔物は一括りに、彼女に害をなすものであるらしい。実際、下等な魔物と野生動物は似たようなものではあるのだが。とりあえず昨晩と同じように光の結界を張って、その晩も休むことにした。
夜半を過ぎたあたりであろうか。腐臭を孕んだ強い殺気に、サリアスは目覚めた。火の番をしていたルチルナも立ち上がっている。案の定、フィラーシャは蓑虫になったまま動かない。
「起こすべきだろうか」
声を潜めて尋ねると、ルチルナは頷いた。
「万が一の時に寝たまんまじゃ、一発であの世行きだわ。あたしにまかせて」
言ってフィラーシャに近寄るルチルナを横目に、サリアスは相手の気配を探った。殺気は一つ、河原の上流の方から流れてくる。次第に砂利を踏む音が聞こえ始めた。慎重に、そちらに向かって歩く。火と後の二人を守るように、サリアスは前進した。
と、焚火が唐突に消える。同時にフィラーシャが跳ね起きたようだ。
「いたっ!」
フィラーシャを覗き込んでいたルチルナとぶつかったのか。背後から鈍い音と同時にどちらのものともつかない悲鳴が上がった。さすがに魔導師なだけあって、魔術の発動にはフィラーシャも敏感なようである。
「魔術か」
真っ暗闇の中、剣の使を握る手や足元の感覚に意識を集中させながらサリアスは問うた。月の無い現在、曇天の下では火の明かりが消えれば、辺りは己の指先すら見えない漆黒の闇と化す。
「うん。水の魔術だね……って、風よ、我等が衣となれ!」
背後からそよ風を感じるのと前後して、腕や足、顔に鋭い痛みを感じる。暗闇の中、何が自分を切り裂いて行ったのか分からなかった。
「フィラーシャ、灯りを頼む」
「うん、光よ集い珠となり、我が前を照らして夜闇を払い、我にその恩恵をもたらし給え……っきゃあっ!」
悲鳴が上がり、砂を蹴る音と、何か重いものが落ちたような音が響いた。詠唱と共に後ろで増していた明かりが霧散する。
「どうしたのっ? つっ!」
続けてルチルナが声を上げる。
何事かと振り返って走り寄ろうとした時、右に気配を感じた。反射的に剣をふるって叩き落す。
次の瞬間、背後から強烈な腐臭と殺気が覆いかぶさってきた。
暗闇の中、鋭敏になっている感覚全てが警鐘を鳴らす。触覚ですら反応したのではないかというほど、密度の濃い殺気がサリアスを襲う。
振り向きざまに、体の回転の力を殺さず剣を振り抜いた。全身全霊、渾身の一撃というやつである。
余程の至近距離にいたのか、ひどく強い手応えがあった。フィラーシャの灯りが消えるまで、姿をはっきりと見える位置にはいなかったはずであるのに、まるで一足飛びに跳んできたようだ。
「フィラーシャ、ルチルナ、無事か!」
どさり、と何かがくずおれる音が至近でして、殺気が消える。熱い体液を浴びたようだったが、今はそのことを気にしている場合ではなかった。
「な、何かに刺されたみたいなんだけど……力が入らないのよ、体に……」
精一杯振り絞ったような声でルチルナが告げる。フィラーシャは既に意識を失っているのか、ルチルナとサリアス以外に動く気配はなかった。
「刺された、とはどこをだ? 出血は……!」
「せいぜい、軽く突かれた程度、よ。私は手の、甲。血、が、流れてる感じは、しないわ」
息が荒くなるわけでもなく、ルチルナの声は途切れ途切れになってゆく。不可解なその現象に、剣を横に突き立て、手探りでルチルナを探し、その腕をつかんだ。
「なっ……、冷たい!」
恐ろしく体温が下がっている。慌ててフィラーシャを、同じく手探りで抱き起こし、呼吸を確かめた。穏やかで深い、安定したそれに安堵する。
「ちょっと、楽になってきたわ」
「今晩はこのまま休もう。全ては夜が明けてからだ」
ルチルナにそう言って、ぐったりと力の入らないらしい彼女の身体を仰向けに横たえる。もはや方向感覚を失って、焚火の位置も荷物の位置も判然としない。魔術の使えないサリアスだけでは、もう一度火をつけるのは難しそうだった。夜明けまでどれくらい時間があるのか分からないが、視界が開けてから動くしかないだろう。
やたらと生臭い臭いに顔をしかめながら、サリアスは夜明けを待った。
***
フィラーシャはそのひどい臭いで、目を覚ました。腐臭と、血の臭い。
おまけにやたらと体が重く、寝惚けた頭で昨日の出来事を反芻する。夜襲を受けたことを思い出した時点で、一気に眠気が吹っ飛んだ。敵は魔術師だった。昨晩の攻撃は恐らく、水の魔獣を操ってのものである。
砂地の上で勢いよく体を起こし、辺りを見回す。すぐ近くに、同じく砂の上に直に横たわり眠るルチルナの姿。その向こうで、サリアスが座り、地面に突き刺した剣を抱くようにして眠っている。
「――――っ!」
そのサリアスの色に驚く。顔から上半身にかけて、赤黒い、どう見ても血を大量に浴びていた。立ててある剣も血に濡れている。魔物の血の色は赤ではない。昨日襲ってきたのは魔物ではなかったのだ。だが、熊や狼が魔術を使うのか。答えは、否だ。
よろけながら立ち上がり、転ぶように駆け出す。胸が早鐘を打ち、息が詰まりそうに焦っていた。
サリアスの向こう、十数歩の距離に男性が倒れていた。いや、男性だったもの、というべきか。その体はほぼ半分に引きちぎられ、周囲の砂に血と、その男の肉片が飛び散っている。
悲鳴すら上げず、フィラーシャはその場に座りこんだ。
「あ……、うっ!」
喉の奥が引きつれた様になり、喉を灼く液が逆流してくる。逆流した昨日の夕食を砂の上にぶちまげ、フィラーシャは激しくむせた。
赤黒く、おぞましい光景の向こうに、清らかな清流が流れる。朝の澄んだ空気と、さやさやと軽やかなその音の前に、奇妙にそぐわない死体が投げ出されているのだ。
闇の凍土に流れるもの。それは、清流と、そして、鮮血……。
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