第11話 セイリア航海 3



 フィラーシャは甲板に出て潮風になぶられながら、初めての航海を満喫していた。本当は楽しんでいるような場合ではないのかもしれない。これから先に待ち受けるものはとんでもない恐怖と死の危険だ。


 しかし、とりあえず今のところ先のことを心配してもやるべきことなどない。ならば生まれて初めての船というものを楽しんだところでばちは当たらないだろう。――もしかしたら一生一度のものになるかもしれない。そのことは、彼女は故意に心の奥に沈めておいた。サリアスは舳先の方で、同様に海を眺めているはずだった。先ほど見たときには眺めているというより、遠い目をして船首像よろしく何かに祈りを捧げていたが。


 そしてルチルナは……、フィラーシャの横で半死半生になっていた。


 船が出港して約二刻。その間にルチルナは重度の船酔いに陥っていたのだ。


「中で休んでればいいのに」


 船は初めてながら全く平気なフィラーシャが、横でかろうじて、甲板の手摺に引っかかるようにすがりついているルチルナに声をかける。


「うっさいわね、話しかけないで。頭に響くわさ。あー、なんでこんなに晴れてんのよ、これじゃ目を瞑ってても光が頭にくる……」


 天候が悪ければもっと悲惨なことになる気もしたが、フィラーシャは黙っておくことにする。三人に割り当てられた船室は、一等船室とはいっても窓のない、狭く暗い部屋で、おまけに非常に臭い。足を折り曲げて寝るしかない狭い寝台は硬く、しかも少し動くたびにぎしぎしと音を立ててうるさいことこの上なかった。たしかにあれでは、中にいると余計に具合が悪くなるだろう。さすがのフィラーシャですらぐっすり眠れる自信がない。


「フィラーシャ、ちょっと頼みたいことがあるんだけど」


「ん、何? ルーちゃん」


「……その、ルーちゃんっていうの、やめない?」


 一拍おいてルチルナが力なく言う。ペルダット以降今まで、何度となく繰り返された会話である。


「とにかく、ちょっと持ってきて欲しい物があるの。ひとっ走り食堂まで行って、きっつい蒸留酒を一本かっぱらってきてくれる?」


「え……、かっぱらうって……」


 それは犯罪では、と顔に書いてフィラーシャはルチルナを見返す。


「いいから、いいから。ね? 辛くて死にそうなの。サリアスには絶対こういうこと頼めないし、あんたしかいないのよ」


 そこまで言われては、としかたなくフィラーシャは甲板から船倉に降りていった。本当に盗むだろうか、それとも誰かに頼んでみようか……。そんなことを考えながら進む。船倉の奥にはかまどがある。多分その近くに食料などを積んだ倉庫があるはずだ。


 薄暗い中、軋む木造の急な階段をえっちらおっちら降りる。梯子よりも幾分マシという程度のそれは、当然船上なのでふわりふわりと揺れていた。手をついて降りたいところだが、杖が邪魔でそうもいかない。おまけに裾も注意しなければ、踏んで転べばまっ逆さまだ。


「うう、なんでこんなことしてるんだろ、私」


 言いながらも更に進む。ようやくそれらしき倉庫の前に辿り着いた時、後ろから声がかかった。


「おまえ、なにやっとるんだそんな所で」


 体中の毛が逆立つのをフィラーシャは感じた。思わず肩を竦めて縮こまる。


「……、なんか欲しいのか?」


 いかにもな怯えように、相手が呆れたように問う。


「あ、う、あの、お酒ありませんか……?」


 やってきたのは、船員らしき壮年の男である。前掛けを着けているところを見ると、厨房の人間か。杖を抱いて怯えているフィラーシャを見下ろし、溜息をつく。


「ここにはないぜ、あんたみたいな嬢ちゃんが盗むほどの酒の飲みたあ、また……」


「あ、違います、あたしじゃなくて、えと、ルーちゃん、ルチルナが……」


 男はたいして怒った様子もなく、小さくなっているフィラーシャを眺める。その目には珍しいものを見るような、好奇心の光があった。


「あの綺麗な魔女の姐さんか。おまえさん、あの姐さんの使いっ走りか? いや、あんたも魔術が使えるのか、弟子かなんかか?」


 おそらくは杖を見て、男はそう言ったのだろう。基本的に杖を持っている魔術師が魔女の弟子であることはないのだが、そんなことは一般人にとって常識的な知識などではない。


「ええと、仲間、ですけど」


 一応は、と心の中で付け加える。別に心情的には弟子や使いっ走りと大差ない気もするフィラーシャだ。実は彼女たちがこの船に乗るにあたって一騒動あった。なんと言っても粗野な男の多い船、女性は彼女たち三人だけである。しかも船に女を乗せると沈むという考えがこの辺りにはあったため、最初船長が乗船を拒んだのである。


「冗談じゃないわさ、この乗船券が目に入らないのかしらっ! 金ならキッチリ払うつってんでしょ!!」


 いやそうな顔をする強面の船長相手に、派手に啖呵を切ったのはもちろんルチルナであった。鉱山や港の関係者らしき他の乗客や船員が何事かと見守る中、とうとうルチルナが押し切って、めでたく乗船とあいなったのである。彼女の最後の決め台詞は、


「船に女がいたら沈むって、どうせ野郎ばっかでもセイレンが来りゃ沈むんじゃないさ。あたしらを乗せてってみな! どんな美女だろうと怖かあない、首をはねて焼き鳥にしてやるよ!」


 である。なかなかに格好良かったが、本気だったら少し嫌だともフィラーシャは思った。何よりもセイレンなどと出くわしたくなどないものである。


 なにはともあれそういった事情で、彼女たちは現在『勇者さまご一行』というよりも『魔女さまご一行』である。例のごとく「魔王討伐に……!」と言いかけるサリアスの口を無理矢理ふさぎ、荒くれ男どもに姉御と一目置かれつつあるルチルナを、素直にフィラーシャは尊敬していたりする。……今はいささか情けないが。


「ははは、そうかそうか、せっかくだからセイレンを退治してもらわんにゃならんのに、あの姐さん、船酔いするタチかい。是非とも明日の夜までには回復してもらわなきゃならんな。ほれ、ついてこい。船乗り連中のとっておきを分けてやらあ」


 事情を話すと船員はそう言って手招きをした。



***



「で、貰ってきたわけね」


 手のひら大の瓶に口をつけながらルチルナが言った。こっくりとフィラーシャは頷く。


 そもそも、本当に酒を飲んで船酔いが解消するものなのだろうか。なんだか余計ひどくなりそうな気がする。悪酔いというやつだ。


「ルーちゃんは船に酔ったらいつもこうやってるの?」


 まあ、経験者の判断にとやかく言うまい。そう考え他の事を尋ねる。


「いいえ、船に乗るのなんて、生まれて初めてだもん」


「え……!」


 しーらない、と、心の中でフィラーシャは呟いた。



***



 初の航海で初の船酔い。それを本当に酒で乗り切ったルチルナは、夕飯時にはすでに全快して男たちと酒盛りを楽しんでいた。


「ルチルナの具合も良くなったようだな」


 サリアスは横でのんびりと夕飯を食べているフィラーシャに話しかけた。


「うん、そーだねえ……」


 答えるフィラーシャの声音は、何か釈然としないといった風情だ。


「どうかしたのか?」


「うん、信じられないなー、と思って」


 尋ねてみると、どうやら船酔いを酒酔いで克服したらしい。


「――できるものなのかっ?」


「……できたんじゃない?」


 大人って不思議だ。その時二人ともそう顔に書いていたに違いない。


 船での生活は、どこにいてもふわりふわりと足元が浮いたようで、何度経験してもあまり落ち着ける物ではない。住んでいる場所の都合、聖海を何度も船で行き来した経験のあるサリアスにとっても、外海の航海は初めての経験である。正確には海峡なので外海とは呼ばないのかもしれないが、船の揺れは聖海の比ではない。神帝の加護が薄いということを嫌が上にも実感させられた。


 船旅は約五日。天候にもよるがその程度だそうだ。そのうちで最も危険なのが二日目あたり、明日である。明日さしかかる海域が、最も潮の流れが速く暗礁も多い。おまけにこの季節はまだ、溶けかかった氷山が北からの海流に乗ってこのあたり一帯を移動しているという。ただでさえ非常に危険なこの二日目の海域に、さらに恐ろしいことにはセイレンが出没するのだ。セイリア海峡のセイレン。海峡の名と、セイレンの名、どちらが先かは分からないが、セイレンは北の海における古くからの伝説のようだった。


 サリアスは昼間、船員たちと話をした際にそういったことを聞いたのだが、あまり詳しく聞こうとすると「セイレンの話は海の魔物を呼ぶ」と言って避けられた。ただ一つ、この辺りでセイレンが頻繁に現れ始めたのはここ五、六年。月が消失するのとほぼ同時だったという。


「やはり、魔王の復活となにか関わりがあるのだろうな……」


 あてがわれた船室で、汚い眼前の天井に向かって呟く。寝台は二段になっており、彼女はその上段に寝転がっているのだ。下にはフィラーシャがおり、向かいの下段ではルチルナが酔いに任せて熟睡している。


 サリアスも目を閉じ、船の揺れに身を任せた。



***



 航海二日目、日中は何事もなく過ぎていった。危険な海域のため船はゆっくりと進む。


 氷山の白い角が船の近くを漂うのを、フィラーシャが飽きもせずに眺めていた。実際の氷山本体は船の横腹すれすれの位置にあるのだという。近くに見えるとはいえ、船とその角の距離を見て、ルチルナを含め三人は信じられないと足元の海面を覗き込んだ。氷山は白いその姿を深い群青の海の中に浸し、海の深度ごとに深くなる透明な紺青をその肌にのせている。


「この水、透明だよねえ?」


 眺めていたフィラーシャが思わず隣にきいたほど、その色は鮮やかだった。


「色水じゃあないでしょ」


 あまりそうとは思えない、といった風にルチルナが答える。


 溶けかかって奇形を呈している白い角の先に、海鳥がとまっていた。



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