第10話 セイリア航海 2
翌日は朝から曇り、雨がぱらついていた。案の定フィラーシャはルチルナに叩き起こされる。
「こらあ! なんって往生際の悪い! 起きなさーいっ!」
容赦情けなく布団を剥ぎ取られ、寝台から引きずりおろされた。
「すごい……」
横ではこれまで手こずってきたサリアスが感心している。
「うん……あともうちょっと……」
「ナニを寝惚けとるか、この甘ちゃんがっ! さっさと起きないと置き去りにするわよ!」
このルチルナの一言にフィラーシャが飛び起きる。
「わわわ、待って、待って!」
その様子に、ルチルナが満足げに頷いた。
「いい子だからさっさと着替えな」
「あ、ああ、フィラーシャ、本当に置いて行ったりはしないから……」
置いて行かれる悪夢でも見たのか、立ち上がって着替えようとするフィラーシャの慌てぶりに、サリアスが宥めにかかる。
その日は朝から、非常ににぎやかであった。
朝食をとって馬を買いに出る。三人とも騎馬の経験があるということで、馬具も買って騎馬でラピスを目指すことにした。
「フィラーシャ、その裾は馬にまたがっても大丈夫なのか?」
そのことが決まったとき、サリアスが心配そうに尋ねた。フィラーシャは裾の長い前合わせの上衣を腰帯で留めた、伝統的な西の魔導師服姿だ。ただ歩くのでも、足場が悪いと辛苦しているフィラーシャの長い裾は、どう見ても馬にまたがるのには向いていない。
「あ、大丈夫、これめくれ上がっても困らないし」
フィラーシャが裾を持ち上げると、下には足首までの綿の下穿きをはいている。前合わせの上衣がくずれたり、裾がめくれない程度には、彼女はしとやかに振舞っていたのだ。
「気づかなかった……」
驚くサリアスにルチルナが返す。
「普通そうでないと、これからどこに行くと思ってんのよ?」
古都の観光ではないのだ、とその顔には書いてあった。
「いや、それはそうだが、ならばなぜそんな邪魔な物を?」
素朴な疑問と言えば聞こえは良いが、例によって身も蓋もない質問をサリアスがする。
「あ、あはは、これは協会の服だから……」
協会所属の魔導師には、それにふさわしい衣服が支給される。彼らの大半が協会の施設で暮らし、衣食住のほぼ全てを協会にまかなって貰いながら生活しているため、特別な制服というよりは支給された普段着という感覚ではあるが。
洒落っ気のある者は給金や小遣いを衣服に充てたりもするようだが、フィラーシャは何の不自由もなく支給品ですませていた。
「さ、んなことはいいからさっさと行くわよ」
すっかり引率者気分な様子でルチルナが促す。朝食と買い物を済ませ、一行はペルダットを後にした。
***
ペルダットからラピスまでの道のりは馬車で二日だが、騎馬でならば、多少急げば一日で移動できる。
「まあ、多少遅くなるかもしれないけど、閉門までには着く筈だわさ」
ということで必要物資だけ買い揃え、その日じゅうにはラピスに到着することを目標に、一路東へと三人は向かう。途中雨あしが強まることもあり、人馬ともども濡れどおしの旅になった。しかしペルダットのある一帯は夏は雨の季節、降らない日を待って出発したのでは冬が来てしまう。撥水加工の外套を、サリアスを説き伏せて購入していたルチルナが、移動しながら得意げにそれを自慢した。
昼をまわった頃から、遠景に山岳が、近くにも森や林がちらほらと見え始める。海岸が近づいた証拠であった。
ここ最近、急速に砂漠が広がり、草原を侵している。三人も道中、高い柵などを設けて砂の侵入を防いでいる場所を目にした。
「予想以上だな。たしか砂漠は大陸の南東だろう?なぜこんな所まで……」
「もう南東っていうより東半分がほぼ砂漠状態なんじゃないかしら? とりあえず、今年はまずまず雨が降ってるけど、もう大地のほうに水を蓄えておく力がないのよ。これからどんどん広がるでしょうね」
大陸南部と北部の境界として大山脈が連なっており、以前からあった南の砂漠に対しては、この山脈が堤防となっていた。しかし今や、その山脈北部が砂の大地へと変わりつつある。
「これも、災厄の一形態ということか」
「でもスピニアは、ほんとに魔物が出ないね」
厚い雲に天を塞がれて薄暗い中、馬を歩かせながら会話する。アイオロードからこちら、全く魔物の気配を感じない。西や、聖都ですら街中に魔物が出没することは日常茶飯事であるのに、だ。
「元同業者どもは多いけどね」
夜盗、追い剥ぎの類である。
「回り道すれば隊商とかが泊まる小さい宿場があったわよ。昨日の商人に会えたかもね」
危険な野宿を避けるために、隊商などの一日の移動距離に合わせて宿場が設けられている。もしも二日かけてラピスに行こうとすれば、まず間違いなくそこで昨日の商人と会えただろう。
「しかしそれも夜盗よけだろう、本当に魔物は出ないのか?」
「さあ、北の森まで行けば出るんじゃない? それから、セイリア海峡まで行けば絶対お目にかかれるわよ」
「……セイリア海峡ってことは、セイレン? ほんとに出るの?」
岩礁や氷山がそこかしこにあるセイリア海峡は、月並みな呼称だが魔の海域と呼ばれる。しかしセイリア海峡で何より恐ろしいのは、その歌声で船乗りを惑わし、船を沈めて人間の魂を食らう女頭鳥身の魔物、セイレンであると言われていた。
「出るんでしょ、そう聞くわよ」
そう言ってルチルナが、視線を横から前へ戻すと、手前の低い丘陵の陰から、豆粒大の集落と、その向こうに黒い水平な筋が見えた。
港町ラピスと、セイリア海峡である。
***
太陽が灰色の雲の向こうに沈む。街の門が閉ざされる四半刻前くらいに三人は、ラピスに入ることができた。サリアスとフィラーシャは宿を探し、ルチルナはそのまま港へと走る。セイリアを渡航する船がいつ出港するかを調べるためだ。魔の大地などと呼んでいる場所に定期船が出ているというのは奇妙な話だが、どうやらその南端辺りに鉱脈があるらしい。それを知ったスピニアは、国費を使って元々は小さな漁師町だったラピスの港を整備し、大型船を手配して大量の坑夫を向こうに送り込んでいるようだった。
「とりあえず調べとかないと、そう毎日毎日出るもんじゃないもの」
という彼女の主張に、あとの二人は素直に従う。
「なんか、頼りがいあるね、ルーちゃんって」
宿探しのためにサリアスと並んで歩きながら、フィラーシャがしみじみと言った。町の表通りには真新しい石畳が敷かれ、国や船、鉱山の関係者が利用するらしい宿や店がまだ新しげな軒を連ねている。豊かに栄えていると言えるほどの華やぎは無いが、魔の海域を挟んで魔王の大地と接する、世界の果てのような場所とは到底思えない清潔さと豊かさがその港町にはあった。
「……、ルーちゃん? ルチルナのことか」
本人がこの呼び方を了承するだろうか。甚だ怪しいと考えるサリアスである。
「うん、何か、お姉さんって感じだね」
昨日の夕方何かあったのか、随分とルチルナを警戒していたように見えたフィラーシャは、うって変わってルチルナを慕うようになっていた。何があったのか気にはなっても、結果がよいのだから蒸し返して詮索するのも良くないだろうと考え、サリアスは問いを飲み込む。代わりに別のことを尋ねた。
「フィラーシャには姉君がいらっしゃるのだったな。どのような方なのだ?」
「え、うん、血は繋がってなくて、協会の施設で一緒に育ったってことなんだけどね。アルベニーナっていって、私より五つ上なんだ。真面目で、几帳面で、優しくてしっかり者、かなあ」
宙にその姿を思い描くフィラーシャの顔は懐かしげで、その姉に全幅の信頼を置いているのが良く分かる。
「立派な方なのだな。――施設で育ったということは、フィラーシャのご両親は……」
おそらくはいないのだろう。サリアス自身も母親はサリアスが生まれてまもなく亡くなっていた。別段珍しいことではなく、世間一般ではむしろ二親が揃っている方が珍しいといえる。
「うん、流行り病だか、内乱だか、とりあえず物心ついたときにはいなかったから。協会はそういう人ばっかりなんだけどね」
おそらく彼女にとって、そのアルベニーナという人物が母親代わりでもあるのだろう。
「サーちゃんは? ご両親と暮らしてたの? お父さんは鍛冶屋さんだっけ」
「いや、父は鍛冶屋を営んでいるが、私は四年間訓練施設に居たからな。たまの休暇に顔を見たりはしていたが。母は私を産んだ時の産後の肥立ちが悪かったそうだ」
いくら聖都が、地上で最も神の恩恵を授かる都市だと言っても、流行り病や産褥病による死は起こる。だが物が豊かで清潔な聖都は、そういった病も他の地域に比べれば格段に少ないと、別の地域出身の同期生からサリアスはきいていた。
「母は笛の名手だったらしくてな。祭典の時に神殿に召されて献奏したこともあるらしい」
それは母との思い出を持たないサリアスにとって、唯一語れる母の寸話だった。それを聞いたフィラーシャがおお、と感嘆の声を上げる。実はサリアスも、母の友人だったという人物から、形見の笛を吹けるよう手ほどきを受けていた。荷物になるかとは思ったが、今回も御守りのつもりで持ってきている。そんな他愛のない話をしながらしばらく表通りを歩いていると、質素だが象牙色の塗り壁が清潔な宿が程なくして目に入った。
「――ああ、ここはどうだろう」
「うん、中に入ってみよっか」
『帆とかもめ亭』という名のその宿は、内装も派手ではないがきれいに整えられた、感じのいいところだ。港に面した宿の角部屋をとり、二人はルチルナとの待ち合わせ場所へと向かった。
***
出航は七日後。朝刻一の鐘よりも更に約一刻早くだと、ルチルナは乗船券――と言っても元より乗る船は、国が鉱山のために直接雇い入れているものだ。一般乗船券など販売していなかったため、応対した船員に無理矢理一筆書かせたらしい――を手にして言った。場所は町に入ってすぐの馬車待合いを兼ねた広場である。待合い小屋の前には灯りがともされ、辺りは既に薄暗い。
「どうやら坑夫を乗せる船みたいね。一応ちゃんと一等船室をふんだくってきたけど、あたしたち以外は荒っぽい野郎ばっかりみたいだから気をつけなさいよ」
まるで引率教師のような口調でルチルナが注意する。それらを聞き、フィラーシャの表情が曇天の黄昏時でも傍目に分かるほど沈んだ。
「どうしたのだ」
「大丈夫、杖だけ離さずにいれば、いざって時は魔術が使えるじゃない」
その深刻そうな表情に驚いた二人がそう口々に言ってもフィラーシャは浮かない顔のまま、なにやら考え込んでいる。
「何か他に、不安なことでもあるのか?」
心配になってサリアスが尋ねると、彼女は深刻な表情をして言った。
「……起きられるかなあ……?」
「だめそうなら前日は昼から寝てなさい」
ルチルナにぴしゃりと速攻で返されて、フィラーシャはがっくりとうなだれた。
「……はいぃ」
もしかしたらフィラーシャは人知れず、その体質に悩んでいるのではないかと、サリアスは心配になった。
***
それからしばらくの間、三人はラピスで過ごした。海を渡りきってしまえば、いよいよ魔の大地、魔王の根城である。無論そこには人の住む集落などなく、魔物が出るばかりで補給は不可能であろう。砂漠に行くのではないため水を抱えて歩く必要はないであろうが、それでも多くの物資を調達しておく必要があった。
必要と思われるものを買い揃え、地元の人々からできるだけ情報を集めておく。
「坑夫といっても、何を採掘するのだろうな」
わざわざ魔王のいるところに行くなど、一体何を考えているのか。理解しがたいと思いながらサリアスは誰にともなく言った。
「あ、水晶がとれるらしいよ。すごく純度の高い大っきな結晶が。すごいんだって」
「どうやらスピニアの軍資金みたいね、それが」
魔の大地の物ですら戦争のためとあらば採掘しに出かける。そのしたたかさにサリアスは呆れかえった。
「なんなんだ、それは」
勇者として魔王を倒しに行けば不帰の大地。しかし水晶の採掘ならばいくらでも行って帰って来られるらしい。
「セイレンは出ないのかな」
「さあ、出会ったものは帰ってこないんだものねえ。でも出港した船で無事に港に戻ってくるのは五隻に一隻みたいね。ま、それでも性懲りもなく船を出す程度には利益があるんでしょ」
「その一隻だったらいいなあ、あたしたちの乗る船」
「ま、その辺はそれこそお祈りでもするしかないわねえ」
大して効果を期待する様子もなく、ルチルナがあくびをかみ殺しながら言った。
物資も大方揃い、朝から土砂降りで外に出る気も起きない、退屈な午後の会話である。
***
彼の世界は、悲鳴を上げていた。
彼の庇護を失い、一切の流れは途切れ、滞り、
すべては蹂躙され、滅びへと向かう。
彼は悲しみに暮れ、逢うこと叶わぬ人を思い、己の無力さに打ちひしがれる。
波の底から空を見上げるかのように、まどろみのなかで世界を眺めながら、
ただ、彼の世界の悲鳴に心の中で慰めの言葉を返し続けた。
おやすみ、おやすみ。
疲れたろう、辛かったろう。
さあ、目を閉じて、耳を塞いで。
もう、苦しまなくてもいいんだよ……。
共に、眠ろう。
***
フォルティセッドはゆっくりと目を開けた。まぶしい。朝がやってきたのだ。もう一度目を閉じると、涙が目じりを伝って枕へと吸い込まれた。
「……あの夢か……。最近多いなあ……」
ゆっくりと起き上がり、のびをする。寝台から抜け出して朝日を体一杯に浴びた。
そこは、自分の家、自分の部屋。毎日フォートという男はここで暮らし、毎日ここで眠るのはフォートという男のはずだった。
「大丈夫、目を開いて動き回ってる間は、僕は僕だ」
自分に言い聞かせるように呟く。
「僕は、自分の意思で自分の正しいと思うことをやる。それだけだ」
そろそろ母親が朝食を用意して彼を起こしに来るはずだ。その前に自分から下階の食堂に降りようと、彼は扉に手をかけた。部屋から出際に、心の中で呟く。
ただ目を閉じているだけでは何も解決しない、と。
***
その日フィラーシャは、サリアスが比較的穏やかに揺すっただけでぱっちりと目を覚ました。
「おはよう、サーちゃん」
「ああ、やはり今日はちゃんと起きられたな」
嬉しそうにフィラーシャが頷く。それを見てルチルナが呆れたようにもらした。
「ま、昨日の朝から寝てりゃあね」
そう、彼女は今朝しっかり目を覚ますべく、前日をほとんど寝てすごしたのだ。
「ほんとにそれで起きられるのがすごいと思うのは私だけ? 普通朝から寝てりゃあ、夜寝られなくて結局寝坊するもんだと思うんだけど」
「まあ、本人の体質にあった対策だったのだからいいじゃないか」
何の他意もなく喜んでいる様子でサリアスに返され、ルチルナは深い溜息をついた。
「ま、いいんだけどね……」
昨日のうちに買っておいたパンで簡単に腹ごしらえをすると、三人は港へ向かった。空はそろそろ白み始め、暁の星々が薄藍の水平線にその光をとかしている。
「めでたく、いい天気になりそうね」
今のところ雲は見当たらず、風も波も穏やかだ。港の埠頭に立って、サリアスは自分たちが乗る帆船を見上げる。東の地平から漏れる払暁の曙光を受けて僅かに光るさざ波の中、高い帆柱を中心に幾つもの太縄を巡らせた、大きな木造帆船が帆を畳んで静かに浮いていた。
「いよいよだな……」
目を閉じ、彼女は心から、神帝に加護を祈った。露を含んだような朝凪の空気が、一瞬だけそよりと頬を撫ぜる。それに励まされたように、サリアスは琥珀に光る両の眼をしっかりと見開いた。
「行こう」
そう言って振り返ると、二人も表情を引き締めて頷く。
神帝の庇護を受けた大地を離れる。ここからが、本当の戦いの旅の始まりなのだ。
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