第12話 セイリア航海 4



 その夜、異変が起きたのは夜半を過ぎてからだった。


 サリアスは万一の事態に備えて部屋で瞑想しながら起きており、ルチルナはすっかり仲良くなった男連中と飲んでいた。フィラーシャに至っては前日よく眠れなかったのか、その時にはすでにぐっすりと寝入っていた。


 月明かりのない現在、夜の航海は無謀以外の何ものでもない。昼間見るには美しい氷の浮き島も、闇の中では危険極まりない代物である。かすかな星明りや船の松明で海面に現れた部分が見えたときには、おそらく船はもうぶつかっていることだろう。そのため、船は夜には無人島の近くに停泊する。潮の流れの関係上、もっとも氷山が流れてきにくい場所というのがあるのだ。しかしそこは同時に、セイレンの住処でもあるのだ。


 最初に行動を起こしたのはルチルナだった。彼女は食堂で、乗船している他の客や非番の船員と飲んでいたのだが、そのうちの一人がこう言い出したのだ。


「おう、姐さん。噂じゃあそろそろセイレンが出てくるって頃だ。野郎はみんなあの歌声に参っちまうらしい。あんたいっちょ、外に出て退治してきてくれねえかい」


 周りの酔っ払いからも賛同の声が上がる。


「なにさ、そんなもんが聞こえりゃあ、ここにいたってあたしの耳にも入るでしょ。なんだって寒い外の吹きっさらしの中に立ってなくちゃいけないんだい? それよりも、もしもほんとに聞こえてきたときのために縄でその辺の柱にでも自分の体を縛り付けときな」


 セイレンの歌声は男たちの心を惑わし、海の底へと誘い込む。一度その声に囚われれば、男たちは次々と黒い凍てつく海に身を投げ、船は岩礁へと向かって舵を切るのだ。


 なんだかんだと言い合った挙句、酔った勢いで本当に食堂にいた者たちは縄で自分たちの胴を数珠繋ぎにして帆柱に縄を括りつけ、ルチルナは甲板へと出ることになった。甲板に出る前にルチルナは、船室に戻って後の二人も一緒に連れ出すことにする。起きていたサリアスだけでなくフィラーシャまで叩き起こして、引きずってまで甲板に上げた。一応、万が一の時のためである。


「別に、おかしいことはないわねえ」


 よく晴れた星空が頭上に広がり、漆黒の海は穏やかな波でルチルナたちの船を揺らしていた。あまりきつくはないが冷たい風が、絶え間なく飴色の髪をそよがせる。


 初夏とはいえ北の海の夜は冷える。薄着をしているつもりはなくとも、吹きさらしの甲板は長時間いたいものではない。船尾にある楼甲板、要は船長室の上に登ってルチルナが辺りを見回す。


「歌が聞こえてくるのだろう? 聞こえたら分かるのではないかな」


「聞こえてきてからじゃ遅い気もするんだけど、それしかないわよねえ」


 舳先や船尾の松明の所にいる見張りの水夫たちも別段変った様子はない。サリアスも舳先の方へ、見張りに声をかけに行った。まだ半分寝ているフィラーシャだけが、甲板に出てすぐのところで杖に寄りかかって揺れている。停泊中ということもあり、水夫の大半が食堂に集っていた。敵国の捕虜や犯罪者などがほとんどの坑夫たちは、積荷と大差ない扱いで大部屋に詰め込まれている。彼らもまた鎖に繋がれているのだ。


 もしも歌が聞こえてきても、男どもが甲板に大挙してきて、集団で海に飛び込みはしないだろう。一緒に食堂で騒いでいた他の乗客や水夫たちを数珠繋ぎにした縄を、しっかりとその手で帆柱に括りつけてきたルチルナはそう踏んでいた。



***



 不意に、ルチルナの体温を奪っていた風がやんだ。船の揺れに合わせて舟を漕ぐという、器用な真似をやっていたフィラーシャがのっそりと顔を上げる。


 感覚を研ぎ澄ませたルチルナの耳に、妙なる旋律が届いた。


 高く、冬の星空のようにどこまでも澄み渡り、同時に深く優しい歌声。歌詞はなく、ただ旋律のみであるのに、その声が手招きしているのが分かる。


 ルチルナの背後で、惚けたようにその歌声を聞いていた見張りの水夫が、ふらりと手摺から暗い海面へ身を乗り出した。甲板の軋む音でそれに気づいたルチルナが慌ててその襟首をつかむ。勢い任せに後ろへ引っ張り、すばやく正面に回りこんでみぞおちに拳を叩き込んだ。


 歌声は次第に大きく、はっきりと聞こえるようになっていく。フィラーシャの耳にも届いたのであろう、彼女は何か言いたげな様子でルチルナのほうを注視した。


 全く無防備にルチルナの一撃を食らった見張りがその場に崩れ落ちる。動かないのを確認してルチルナが舳先の方に目をやると、向こうでも松明の手前で二つの影がもみ合っているのが見えた。


「フィラーシャ、その出口を閉めなさい!」


 船内から甲板への出口を指してルチルナは怒鳴った。わたわたとフィラーシャが動く。木製の戸を閉めると杖を掲げて詠唱した。


「其は閉ざされた。其は封じられた。其は我が許しなくして開けらるることかなわず、我が許しなくして何人たりとも通すことまかりならぬ。我と其が母の契約によりて、其は巌の壁となった!」


 とん、と杖先で扉を小突いた。大地の魔力を使った封印の魔術である。一応甲板への出入りを封じるのだ。フィラーシャは術をかけ終わると、もう一つある出入り口のほうへと駆け出した。船首の見張りを床に沈めたサリアスが歌の響いてくる船尾の方へと向かって来る。


「セイレンか? どこだ!」


「島の方だわ、まだ見えないけどね!」


 ルチルナは左手に黒くわだかまる無人島の方へ視線を投げた。剣の柄に手をかけて楼甲板へと駆け上がったサリアスがルチルナの横に並んで同じ方向へ目を細める。


 歌声は更に大きくなり、波の音を凌駕して船全体に響いていた。二つ目の出入り口も封じたフィラーシャも二人に並ぶ。星明りのみの闇夜、間近で燃える松明の灯りはむしろ、その向こうの闇に潜む魔物の姿を探すのには邪魔だった。


「……何も、見えないな」


「いっそ松明を消しちゃった方がいいかしら」


「いや、それではいざ戦うときに足元が危うい」


 辺りを警戒しながら会話する。まだ船内でこれといった異変は起きていないようだ。数珠繋ぎが功を奏しているのか、とルチルナはちらりと考える。


「まだ何も起こってないとはいえ、この歌声は中にも響いてるはずね。甲板に出られない連中が何をしでかすか……」


「中の人は繋いできたんでしょ?」


「食堂にいた連中はね。この見張りみたいに当直とかで別の所にいた人間は自由に動き回ってるわ」


 そう言っているはしから、乱暴に封じられた戸を叩く音が聞こえた。叩き壊す勢いで、複数人が木製の戸を叩いているようだ。


「破られないか?」


 音の激しさにサリアスが尋ねる。しかし音のわりに、薄い戸が動く気配はない。


「大丈夫、術が効いてる間は岩壁みたいに頑丈だから。それにしても、ほんとに私達はなんともないね」


 少し意外そうに言うフィラーシャに、ルチルナも頷いた。歌声を美しいとは思うが、ただそれだけである。サリアスも平気なところを見ると、魔術の心得うんぬんではなく、性別に歌声の効果は左右されるらしい。そんなことを考えながら、ルチルナは視線を松明の向こうの闇に戻した。



***



 ばさり、と何か大きな鳥がはばたくような音が聞こえた気がして、サリアスは星空を見上げた。目をこらすと、水晶の破片を織り込んだ天鵞絨の空に、二つの黒い染みがある。


「あれ、か?」


 言いながらサリアスは剣を引き抜いた。フィラーシャとルチルナも空を見上げる。


「……、歌はまだ向こうから聞こえてるわ」


 言いながらも、ルチルナも空の染みへと身構えた。


「そういえばフィラーシャ、この歌声の効果を打ち消すような魔術はないのか?」


 今更ながら確認してみる。相手は空中、しかもこちらは不安定で脆弱な船の上である。剣での戦いは難しいだろうが、あまり激しい魔術も危険だ。数々の命を奪ってきた悪名高いセイレンを、サリアスは正直この手で倒したくもあった。しかしそれ以上に、今この船にいる人々の安全のためにも守りに徹するべきだとも思う。


「あんたね、ナニを今更……」


「うーん、一人ずつの呪術解除法ならあるけど……」


「歌が途切れれば皆正気に戻らないだろうか」


 フィラーシャは風の魔術が得意だといっていた。それならばこの歌声を魔術で消してしまうことは可能ではないのだろうか。


「歌声自体が魔術だから、その打消しの意図を持たない魔術では消えないと思う。基本的に魅惑系統の魔術はその媒体になる感覚……視覚とか嗅覚とか、今回なら聴覚だけど……を遮るか、同じ系統の魔術で中和するかして対抗するんだけど、魅惑系統の魔術って、闇の魔力を使うから人間には使えないんだよね」


 昼の民である人間は、闇の魔力を扱う事が出来ない。つまり、人間には中和の方法がないということだ。


「耳を塞いでしまうくらいしかないということか」


「うん。それも魔具で……」


 差し詰め魔法の耳栓だろうか。そうこうしているうちにも、黒い染みは大きくなっていく。


「なんだかんだ言ってるよりも、早く倒しちまったらいいじゃないさ」


 意外と短気な様子でルチルナは言うと、以前見たカードを取り出した。


「紅蓮を纏う炎の獣よ、我が願いに応えて出でよ。さすれば我は、其に至上の供物を与えん」


 炎の獅子を召喚する。紅く燐光を発したカードはルチルナの手を離れ、宙で炎を纏う。その炎は大きく膨らみ、美しい紅蓮の獅子となる、筈であった。


「……あれ?」


 緊迫感の欠けたフィラーシャの声。ルチルナも硬直している。


「……猫、だな」


 サリアスは、目の前の紅いそれを指して言った。それ以外の何ものでもない、まごう方なき猫である。強いて言えば、猫というより山猫か。ルチルナの正面にぷかぷかと浮いた炎でできた山猫は、小首を傾げて主人の命を待っている。


「かわいい!」


「しまったああっ!」


 しばし呆けていた二人が同時に声を上げる。その表情と声音は天と地ほどの落差があった。


「そう言えば、以前フィラーシャがその獅子を縮めてしまったんだったな」


 ルチルナと初めて出会った時の事だ。暴走した獅子を鎮めるため、フィラーシャが水の膜に包んで獅子を――正確には獅子を構成する炎の魔力を――削ったのだ。


 ばさり、ばさり。


 ひときわ大きく、近く羽ばたきの音が聞こえた。はっとして空を振り仰ぐ。


「おやおや、こんな所に小娘が三匹」


「あらまあ、どうしたことだろう?」


 歌うように、艶のある女の声が空から降ってくる。目をすがめてみても、それらがどんな生き物であるかはっきりとは判別できない。


「お前たちか、歌声で船乗り達を惑わせているのは」


 小ばかにしたようなくすくす笑いを薙ぎ払うように、サリアスは問いを投げ上げた。


「ほほほ、なんだい、今更。あたし達のことを知らないだなんて言わないでおくれよ?」

 更に笑い声が高くなる。


「黙って聞いてりゃあ随分と馬鹿にしてくれるじゃないさ。まとめて焼き鳥にしたげるから覚悟しな!」


 苛々とルチルナが叫ぶ。どうやらフィラーシャと二人、獅子に注ぐべく炎の魔力を集めていたらしい。二人を包んでいた紅い光輝が山猫へと注がれ、炎の山猫はみるみる大きく膨らんで、立派なたてがみをもつ獅子へと変化した。


「さあ獅子よ、あのおばはんがたを焼き尽くしておやりっ!」


 小娘発言に腹を立てているらしい。ルチルナの指が空を切って天空を指すと、それを追って獅子がセイレンへと駆け上がった。


「光よ集い珠となり、我が前を照らして夜闇を払い、我にその恩恵をもたらし給え」


 フィラーシャが灯りを生み出す。以前聖都で見た珠よりも二まわり位大きいだろうか。眼を灼くような白い光を放ちながら、珠も上空へと昇り、辺りを照らした。


「あれが、セイレンか」


 フィラーシャの光に照らされて、二羽の異形が闇夜に浮かび上がった。


 燃える金と緋色の髪、美しい女の首、そしてそれにそぐわぬ鳶の様な鳥の体。


「……どうやって仕留めるべきだろうな?」


 ルチルナは厳しい表情で空を見上げた。


「あたしらに羽は生えてないものね。フィラーシャ、飛翔魔術は?」


 上では獅子がセイレンたちを追っているが、うまくかわされているようだ。見ようによっては手玉に取られているようでもある。


「自分が飛ぶことはできるけど……」


 魔導師が飛んだところで、上の二匹を相手にする分にはあまり意味はない。基本的に攻撃魔術は飛び道具である。飛翔魔術のみを使うならば三人同時も不可能ではないが、それぞれ自由自在に飛び回る、という風にはいかない。風の魔力の制御――飛翔している人間の「操縦」は術者がしなければならないからだ。三人同じように飛ぶことは何とか出来ても、それでは戦闘の役には立たないだろう。


「ルーちゃんこそ、飛べる騎獣みたいなの持ってないの?」


「生憎持ってないし、持ってても出してる余裕ないわよ」


「とりあえず、三人ともここで眺めているわけにはいかないだろう」


 今回、一番役に立たないのは自分だろう。そう覚悟してサリアスは後の二人を見た。


「それぞれできることをやろう。上の二匹もだが、まず向こうから聞こえてくる歌声を止めなくては」


 先ほどまで響いていた激しく戸を叩く音は消えている。歌は相変わらず闇の中、島のあるはずの方角から響いてきていた。そちらの方角を見ながらフィラーシャが名乗り出る。


「じゃあ、あたしが向こうに行ってくるね」


「ああ、そうだな。だがあの光はどのくらいもつのだ?」


「とりあえずあたしがあれに集中してられる間は消えないけど……。もし消えたら、向こうでセイレンを見つけたんだと思って」


 緊張のためか、少し硬い表情でフィラーシャが答える。暗闇の中へ、たった一人で行くのだから当然であろう。


「わかった。あまり多い数いるとは思わないが、もしもの時は引き返してきてくれ」


 緊張を和らげるように微笑んで、サリアスはフィラーシャに言った。彼女の実力は信じているが、無茶をして欲しくはない。彼女は大切な仲間だからだ。


 歌声は一つ。歌っているのは一匹だけだ。


 思いが伝わったのか、フィラーシャも少し表情を和らげて頷いた。


「うん。――碧の風よ、我が友よ、我が翼となりて我を天空へと導け」


 緩やかに風が、フィラーシャを中心に渦巻き、フィラーシャの足が甲板から離れた。フィラーシャが歌声の方角へ首を巡らせ、闇へと視線を定めてあごを上げる。


 ふい、とそよ風がサリアスの頬を撫でた。と、同時に滑らかな軌跡を描いてフィラーシャの姿が闇の向こうへと消える。魔術と言えばもっと仰々しいものかと思っていたが、フィラーシャの使うそれは全く自然で、無駄がないように思える。羽のように軽く、まるで飛べる事が当たり前のようにフィラーシャは飛翔した。


「――すごいな」


「まあ、あれでホントはかなりの使い手でしょうからね。派手な演出はないし素人目には大したことなく見えるでしょうけど」


 ルチルナの言うことはサリアスにも分かる気がした。恐らくフィラーシャは、本当に必要な事を叶えるために必要な分だけ魔術を使うのだろう。魔導協会から杖を渡されることは、魔導師として一人前と認められることだ。彼女の年齢でそれを許され、更に「勇者」に選出されるのは、フィラーシャが非常に優秀だという証だが、本人にそれを気負った様子も鼻にかけた様子も全くない。


「さ、うちらも負けてらんないわよ」


 その言葉に頷いて、サリアスはセイレンに視線を移す。


「さあ、準備は済んだかい? そろそろこちらも飽きてしまったよ?」


 嘲笑が降ってくる。セイレンたち向こうに身を低くし、攻めあぐねて唸っている獅子の姿が見えた。


「ルチルナ、弓矢は」


「あたしにしか使えないのなら」


 舌打ちしたくなる。傍観することしかできそうにない。ルチルナはこれも以前見たカードを取り出すと、弓矢に変えた。


「剣ではなかったのか」


「火で剣、水で鞭、風で弓矢、地で斧」


 言いながら狙いを定めて弓を引き絞る。


「でも弓ってあんま得意じゃないのよねっ!」


 紅い髪のセイレンを狙った矢が、その風切り羽を掠めて彼方へ消えた。


「あはは、どこを狙っておいでだろうね?」


 いちいち厭味たらしく下降してくる。なすすべも思いつかないまま、それを睨み上げたその時、船首側から派手な水音が聞こえた。


「何だっ」


 言いながら船首側へ駆け寄る。


「船が動いてる! 誰か錨綱を切ったんだわ!」


 忌々しげなルチルナの声。錨から切り離された船は、ゆっくりと潮の流れにのって動き出していた。――歌声の聞こえる、島のほうへと向かって。

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