第4話 新たなる「勇者」の旅立ち 4



 翌日、夜明け前。


 砂浜に降り立ったフォルティセッドは思わず眉根を寄せ、外套の端で鼻を覆った。辺りには強烈な潮の臭い――海産物独特の腐臭が漂い、人々をこの一画から遠ざけている。鼻の奥を痺れさせるような悪臭に吐き気を堪えつつ、フォートは腐臭を放っている物体の一つに近づいた。暖かい地方の初夏とはいえ、つい昨日の夕刻には生きて暴れまわっていたとは思えないほど腐乱したダナスの屍が、その無残な姿を浜辺に晒している。


 打ち捨てられ、朽ちてゆく物ばかりが集まる聖都最果ての浜は、家の無い貧民すら寄り付かない見捨てられた空間だった。そんな人影のない場所、しかもまだ夜明けの薄暗がりの中にも関わらず、フォートは外套の頭巾を目深に被っている。彼は慎重にダナスの屍に近づき、手燭も持たないまま検分を始めた。手をかざして何かを調べ、ある一点でそれを止める。止めた手を躊躇するように握りこんで一呼吸置くと、意を決したように、その手を屍の中に突っ込んだ。


 ずるり、とダナスの体液と溶けた組織が絡みついた、フォートの腕がダナスから引き抜かれる。その手には、掌大の何かが握り込まれていた。


 腐乱死体への生理的嫌悪だけでなく、フォートはきつく眉根を寄せた。


「……妙だとは、思ったんだけどね」


 ぼそりとそれだけ呟くと、屍から引きずり出したそれを慎重に布に包んで懐にしまう。溜息交じりに、汚れた手を丁寧に拭い、フォートはその場を立ち去った。



***



 天上から差す月光に、彼の立つ広大な広間は蒼く染め抜かれていた。


 その有様は静謐そのものであるにも関わらず、彼の心は悲しみと焦燥にざわめいている。そして彼は、これから広間へと、その悲しみの元凶たる人物が荒々しく向かって来ている事も知っていた。


 諦めにも似た悲しみを胸に、彼は白い手で細身の剣を握る。俯いたその視界に、長く一筋の歪みも無い漆黒の髪がかかる。


 この悲しみは、愛する者の裏切り故か、愛する者を奪われたが故か、はたまた、愛する者を、この手で討たねばならぬが故か。その全てであろう、と彼が目を伏せた、その時。


 重く、重く軋みを上げて、重厚な鉄扉が目の前で開いた。


『待って、いました……』


 扉を開いて広間へと入り込んだ侵入者、張り詰めた空気を纏う青年へ、彼は静かにそう言った。



***



「またか……。一体誰の夢なんだか……」


 のそり、と寝台から身を起こして、気だるげにフォートは呟いた。胴に巻き付いている、ほとんど綿の入っていない肌掛けを剥ぎ取り脇へ押し遣ると、粗末で硬い寝台が軋みを上げる。あれから宿に帰ってもう一休み、と布団にもぐったところ、妙な夢を見てしまった。辛気臭い気分を忘れるはずが逆効果である。


 フォートは月光の夢を追い払うように一つ頭を振ると、窓に嵌る雨戸を開け放って朝日を浴びた。乾燥した土地特有の埃っぽさで、室内に差し込む陽光が白く帯を作る。眩しさに深緑の眼を細めながら朝日に向かって思い切り伸びをして、フォートは窓から身を乗り出し眼下に広がる白壁の町並みを眺めた。


 一年を通して降り注ぐ強烈な日差しを跳ね返すため、真っ白な漆喰で塗り固められた方形の家々が、大小高低様々に入り組んでいる。家々の間には灌木が植えられて木陰を作り、前庭や窓辺には、料理にも使われる香草が花を咲かせて彩を添えていた。


「やっぱり村よりは暑いけど、朝はなかなか気持ちいいもんだね」


 そう呟いて深緑の眼を細める。


 彼の名はフォルティセッド。歳は二十二、中肉中背で、際立ちはしないが穏やかな顔立ちをしている。フォルティセッドなどという長ったらしくて、舌に親切でない本名は大抵無視され、普段はフォートと呼ばれていた。「強い、勇敢」という意味を持つこの名を本人は気に入っているのだが、いかんせん周囲に不評では致し方ない。


 最近よくうなされる月光の夢は、無論彼の体験ではない。それどころか当人の夢ですらないのだ。彼は昔から他人の夢を自分の夢のように見てしまうことがあるという、奇妙な特技があった。特技といっても本人の任意に従わないので特技というよりも悪癖に近い、とは郷里の兄の台詞だ。不本意な言われようである。


 二階の窓から身を乗り出して眺める街は既に活動を始めており、その活力に刺激されたかのように彼も支度を始めた。手首に巻きつけていた細い革紐で、背にかかる程度の緩く波打つ茶色の髪を括ると、寝台の横に置いた荷物を整理し、顔を拭くための手拭いを持って下階へ降りる。


 この街は聖都。世界のほとんどを支配する神帝アダマス帝国の帝都だ。内海――聖海と言うのだが――に浮かぶ乾いた気候の小島である。フォルティセッドはある目的を持って、自分の生まれ住む遥か北の島から、この聖都までやってきていた。その目的は実は、昨日のうちにほぼ済んでしまっている。今日はもうのんびり帰途につくだけだ。


「さすがは神帝のお膝元。神帝紀が宿に置いてあるとは」


 顔を拭いて帰ってくると、ふと目に付いた小卓の上の書物を手に取った。書物というもの自体が高価であるのに、誰か盗んでいったりしないのか。と、そこまで考えて、罰当たりな己の思考に肩を竦める。ここは巡礼者専用の宿。客はほぼ全て、聖戦の折に神帝が辿った足跡とされる全国の巡礼地を一巡して、最後に聖都に辿り着いた信仰心の厚い信者達だ。


 神帝紀を盗もうなどという発想自体、する者は滅多にいないだろう。恐らく今のこの宿の中では唯一の不信心者であるフォルティセッドは苦笑する。本を手に取ったまま寝台に腰掛け、試しに冒頭部をめくってみた。文盲の人への配慮か、頁の半分は内容を示す図版が占めている。フォルティセッドは興味をそそられ、それを読み始めた。


 これから先、知っていて損はないことのはずだ。朝食はもう少し後でもいいだろう。



***



  世界には光の女王と闇の王がいた。

  

  光の女王は天空に住まい、善き魂を持つ昼の民たちを支配した。

  

  闇の王は地底に住まい、悪しき魂を持つ夜の民たちを支配した。

  

  昼の民は広い平野や、明るく恵み豊かな森や遠浅の美しい海の近くで暮らし、

  

  夜の民は急峻な山々の奥地や地下、陽の当たらぬ樹海、暗い水底に暮らした。


  闇の王は地上全ての覇権を欲し、夜の民を率いて昼の民の土地へと攻め入った。

  

  光の女王がこれを憂えて臥せるなか、地上に生まれし運命の光の御子が勇者を率いて起ち上がり、夜の軍勢を退けて闇の王を封印した。

  

  闇の王を封印した後、光の御子は天へと昇り、床に臥す女王に代わって地上を治め、地上に再び安寧をもたらした。

  

  神帝紀 第一章 序



***



 神帝アダマスによって平定され、以後千年という長い間平穏を保ってきた地上に、再びわざわいの暗雲が渦巻き始めていた。数十年前から起こり始めていた戦乱は年ごとに規模を拡大し、大陸のそこかしこで国同士の睨み合いが続いている。


 今、千年の長きにわたって大陸全土を統一していたアダマス神帝国の宗主国としての権威は失墜し、世界は戦乱の時代へと突入しつつあった。


 そしてもう一つ、別の凶兆が人々を不安に陥れていた。


 自然界の衰弱である。


 まず初めに、水が力を失った。水は至る所で澱み、腐り、枯れた。流れは滞り、大地は干上がった。


 次は土だった。潤いを失った土地は痩せ、作物を育む力を失った。


 ――世界は、滅びる――


 誰の胸にもそんな思いがよぎる。


 ここ数年、夜になっても月が昇らない。夜は月の守護を失って人々に牙を剥き始めていた。


 闇とその中に棲む魔物達が、夜な夜な人々を脅かす。


 太陽はまだ、その力を失わずに世界を照らしているが、大気は変調をきたしつつあった。


 世界を駆け巡り、土地の気候に大きな影響を与える風は、次第に狂い始め、暴風となって全てを破壊することがあるかと思えば、全く凪いでしまうこともある。


 晴上っていた空に突然、雷鳴がとどろき、雨を伴わない落雷によって、地上が焼け焦げることも稀ではなくなった。





 そんな折、世界にある神殿全てに託宣が下った。


 闇の魔王が復活する。


 今はまだ意識のみの存在であるそれが器を手に入れた時、


 世界は、終わる。


 大陸全土から冒険者たちが集められた。魔王を倒し、真の勇者となればこの世のどんな物でも手に入る。


 人々はこぞって魔王討伐に志願し、世界の果てにある、魔王の住まう大地へと旅立った。





 それから五年が経とうとしていた。誰一人として帰って来る者はおらず、ますます悪化する世界情勢の中、人々は明日の世を憂えることを放棄し始めていた。


 もう、勇者となるべく自ら志願する者など一人もいなかった。


  ――そう、たった昨日までは。



***



 東の水平線から太陽が姿を現すと同時に、朝刻一の鐘は鳴る。


 その一の鐘を合図に始まるのが聖都の朝市だった。聖都では朝夕二回、大体二刻の間市が立つのだ。その世界一賑やかと言われる朝市の喧騒の中、フィラーシャはサリアスの後について歩いていた。相変わらず物珍しげにきょろきょろしているフィラーシャは、背中に大きな革の袋を背負っており、昨日よりも更に余所者度が増している。加えて、普段着姿だった昨日とは異なり、サリアスもきっちりと旅支度を整えた出で立ちだ。丈の短い麻の胴衣の上に革製の防具をつけ、巨大と言っていい剣を背負う姿は様になっていた。日除けの為に羽織っている、軽く通気性の良さそうな外套を翻す姿も颯爽としている。


「かっこいいなぁ……」


 思わず声に出して呟き、フィラーシャは慌てて口を覆った。


 ごったがえす、という表現がぴたりとはまる朝市の人波を、器用にすり抜ける様子は流石都会人といったところか。前を歩くサリアスの背中を見失うまいと、フィラーシャは足を速める。しかし、田舎育ちで人ごみに慣れていない為、すぐに躓いて転びかけてしまった。


「うきゃ、ごめんなさい!」


 若い男性らしい相手の肩口に頭突きをしてしまい、フィラーシャは慌てて相手を見上げる。


「いえ、大丈夫ですか? ――おや、君は昨日の……」


 温和そうな緑色の双眸を丸くして、フォートがフィラーシャを見下ろしていた。一気に頬が熱くなる。同じ人物相手に、二日連続で、二度も倒れ込んだらしい己を路傍に埋めてしまいたくなった。同じ事を思ったのか、くすり、と笑う声が頭上から降ってくる。


「昨日の待合わせ、お相手の方が遅かったでしょう?」


 突然振られた話題に目を丸くする。人の流れに逆らわないよう、通りの端まで誘導してくれるフォートに従いながら、フィラーシャは昨日の状況を思い返した。


「サーちゃんの事……?」


 共に旅をして行くと決意したにあたり、フィラーシャはサリアスを『サーちゃん』と呼ぶ事に決めた。いや、決めたというほど大げさなことでもない、単に親しくしたい相手――主に女性である――をちゃん付けするのは、ただのフィラーシャの癖である。


「……さーちゃん? ああ、あの後サリアスさんとも話をしてね、彼女も血相を変えて神殿へ走って行かれたから」


 露店と露店の間、細い路地へと繋がる隙間に身を寄せ、改めてフィラーシャはフォートと向かい合った。不思議な縁でこの青年は、今回旅立つ『勇者』二人の両方を、別々に知ったらしい。サリアスの言ではないが、神の導きや運命、縁などというものが昨日の一件には関わっているのかもしれない。


「あはは、結局二人で大遅刻して神殿に入ったんだけど、全然お咎めなしだったよ。逆に褒められて……ちょっと落ち着かなかったかな」


 そう言えばサリアスとはぐれてしまった。


 不安になって大通りを気にし始めたフィラーシャに気付いたのか、フォートが申し訳なさそうに首筋を掻いた。


「あ、すみません……誰かとご一緒でしたか。どちらに向かわれていたんですか?」


「えと、跳躍門に。アイオロード行きの開門が三の刻だから。サーちゃんと一緒に朝市でごはん食べてから行こうって」


 跳躍門は一定時間ごとに接続先を変え、フィラーシャたちの目的地――つまりは魔王の居城――最寄りの都市・アイオロードへは朝刻三の鐘が鳴ると接続する。フィラーシャらはそれを目指していた。


「ああ、じゃあ同行しても良いですか? 僕も帰るところなので。一緒にサリアスさんを探しましょう……あれ、そうか、アイオロードにおいでになるんですか?」


 それは丁度良い、とばかりに頷いたフォートが、一拍おいて目を見開いた。無理もない、昨日フォートと会話をした時点では、フィラーシャは「勇者」を辞退するつもりでいたのだ。


「あ、はい、まあ……」


 サリアスと共に北を目指す。そう決意したのは間違い無いのだが、それをおおっぴらに宣言するのは恥ずかしい。そう目を逸らしたフィラーシャに、フォートは嬉しそうな声を上げた。


「そうなんですか! 良かった。僕も微力ながら応援しますよ! ――まあ、手始めにサリアスさんを探しましょうか」


 相手の意外な反応に、ぽかんと口を開けたフィラーシャは、そのままフォートに手を引かれて大通りへ踏み出した。器用に人波をすり抜けるフォートに先導され、先程までが嘘のように前に進む。これならば、途中でサリアスに追いつけるかもしれない。


 ――しかし、自分の「勇者」に対する認識は間違っていたのだろうか。フォートに引きずられるようにして歩くフィラーシャの頭の中は、そんな疑問で埋め尽くされている。


「良かったら、アイオロードの街くらいはご案内しますよ。宿の手配もあるでしょうし、やはり来てみないと気候も分からないですからね」


 戸惑っているフィラーシャに気付かないのか、やる気満々といった様子でフォートが話を進める。それに曖昧に頷きながら、フィラーシャは改めてフォートの顔を見上げた。


 軽く波打つ栗色の髪を後ろで一つに束ね、温和で思慮深そうな緑の目をしている。北の大国出身という彼の肌はフィラーシャと同じく色白で日差しには弱いのか、四肢の露出は無い。剣を帯びてはいるが衣服は綿麻の軽そうなものなのは、やはり彼にしても聖都は暑いからだろう。中肉中背の背格好は筋骨隆々とは言い難く、容貌の雰囲気も相俟って剣士というよりは魔導師のほうが似合いそうだ。声にしたところで高くも低くも無く、穏やかな口調で、特徴を問われると難しい。だが、この世界一と言われる市場の喧噪の中にあって不思議とよく通る声だった。


 ぼんやりと間近の青年を観察しながら、手を引かれるままに歩くフィラーシャを、不用心と叱り飛ばす姉はここには居ない。魔導師協会という、修道院に準ずるような施設に育ったフィラーシャにとって、歳若い異性を間近で見るのは珍しい経験だった。握られた手に触れる剣だこの硬さに気づいて、やっとその事に思い当たる。


「……おお! 初めてかも……」


 ちょっと感動して呟いたフィラーシャを、不思議そうにフォートが振り返る。正確には昨日もこの青年に手を引かれて走ったのだが、その時は感慨に浸る余裕もなかった。


 ――華麗なる女戦士サリアスと共に、この青年とも長い付き合いになることを、この時のフィラーシャはまだ知らない。


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