第3話 新たなる「勇者」の旅立ち 3
何か用事を思い出したらしいフィラーシャという名の魔導師が文字通り「飛んで」行った後、フォートは眠りこける男児の傍らに移動した。日は既に神殿の向こうに沈み、辺りは徐々に暗くなっている。このまま此処で寝ていては、はぐれた家族と再会するのも難しくなるだろう。ダナスが倒れ、神殿兵も駆けつけた事で避難していた人々も徐々に戻ってきている。それを確認したフォートは、そっと男児に触れた。
「起きてくれるかい、日が暮れてしまう前に家族を探さないとね」
揺するでもなく、ただそっとフォートが肩口に触れただけで、男児は身じろぎした。ゆっくりと寝返りを打ち、目を開く。
「すみません、この子の家族をご存知ありませんか?」
先ほど水をくれた女性に声をかけ、フォートはその女性に男児を預けた。地元の人間ならば、男児やその家族についても知っている可能性が高い。フォートが連れ歩くよりは効率が良い筈だ。
「それに、もう一つ確認しておきたい事があるしね……」
ダナスが出現した時、フォートの首筋をチリチリと刺していた何者かの視線は、女戦士が屋根の上に現れた途端に消えた。もしもフォートが予想している通りならば、何とも都合良くこの場に役者が揃ってしまったものである。
「ご苦労様です。お見事でした」
死んだダナスの処理を神殿兵に任せ、今度は生き埋めになった人の捜索に加わっている女戦士に声をかける。剥き出しの腕や脚が薄汚れ、崩れた煉瓦で擦り傷が出来るのも構わず作業に没頭していた女戦士が手を止めて振り向いた。
「ああ、貴方の助太刀に助けられた。感謝する」
額の汗を拭った女戦士が折り目正しく頭を下げた。そのきびきびした動きと端的な言葉遣いは、訓練された兵士を連想させる。戦士養成施設の者だと名乗っていたが、その中でもきっと優秀な部類に入るだろう。予想が確信に近づくのを感じながら、フォートはその予想の真偽を確かめるための質問を女戦士へ投げた。
「いえ、とんでもありません。そういえば、モルトヴァーナの方なのですね。その腕前でしたら『勇者』にも……」
そのフォートの言葉に、薄暮の中でもはっきりと分かるくらいに女戦士の顔色が変わった。
「ああっ、そうだった! 申し訳ない、話の途中だが急用を思い出してしまった。すぐにでも行かなくてはならないのだが、失礼しても良いだろうか?」
フォートが皆まで言う必要も無く、女戦士はフィラーシャ同様神殿の方を振り仰いで慌て始める。近くの者を捕まえて撤収を告げると、慌しく帰り支度を始めた。
「今日が出立の祝福を受けられる日、でしたか?」
「そうだ。……よくご存知だな」
瓦礫をどかすための「てこ」として使っていた棒を置き、剣を背負い直していた女戦士が、その動きを止めてフォートを注視する。
「ええ、さっきまで怪我人の治療をしてくれていた魔導師もそうだったので――もしや、と思いまして。ところで、お名前はなんとおっしゃるんですか?」
軽く肩を竦めてフォートは、目を丸くしている女戦士に笑いかけた。
「サリアスだ。そうだったのか……その魔導師殿は今……?」
「少し前に、血相を変えて飛んで行ってしまわれましたよ。見事な飛翔魔術でした。あ、ちなみに僕はフォートです。スピニアから参りました。お見知りおきを」
軽く一礼して名乗っておく。しかし内心では、あまりに都合よく進んだ事態に苦笑するばかりだった。
「ああ。今後スピニアを通る予定がある、機会があればまた会おう。それでは失礼する!」
そう言い置いて、サリアスは身を翻す。神殿へと上る通りを走っていく姿がみるみる小さくなっていった。
「全く、ね。明日探して顔を見るつもりだった相手に、今日中に両方会えるなんて……もし運命とか言うものがあれば、こういう事も起こるものなのかな……」
フィラーシャには巡礼に来たと言ってあったし、実際、巡礼地は全て巡ってきたが、フォートの目的は神帝の御心を知るためなどではない。そして、彼の本来の目的の中には彼女たち――今回選出された「勇者」に会っておくこともあったのだ。
「だけど、これじゃ明日する事がないな。もうこれで用事は全部済んでしまったし……帰ろうかな」
遥か北東、彼の故郷がある方角の空を見上げ、月の存在しない夜空に儚く瞬き始めた星々を眺めて、フォートは一つ伸びをした。
***
指定された時刻からかなり遅れて神殿内に転がり込んだサリアスとフィラーシャは、特別叱責されることもなく中央神殿司祭長自らによる祝福を受けた。それどころか、どうやらダナスの件の報告を既に受けていたらしい司祭長に、「頼もしい限り」と賞賛までされたのである。サリアスは誇らしげに礼を述べ、一層の努力を誓っていたが、元々魔王討伐を辞退するつもりだった上に、ダナス戦で戦闘への不向きを痛感したフィラーシャは大変居心地の悪い思いをした。そして何より、その時のサリアスの態度から、この相棒殿が魔王を討伐する気満々であると知ったフィラーシャはそれ以来、内心穏やかではない。
「まさか、貴方が私の相棒そして選ばれた魔導師殿だったとは、嬉しい偶然だ。これも神帝のお導きというものだろうか……」
既にとっぷりと暮れた聖都を神殿から宿に向かって下りながら、サリアスが興奮気味に言った。フィラーシャが魔術でこしらえた光源に照らされるその顔は僅かに紅潮しており、目もきらきらと輝いているように見える。その様子に罪悪感で良心をちくちくと刺されつつ、フィラーシャは何とも気の無い笑いを返した。歩く道沿いには聖都への来訪者を迎える宿が立ち並び、その一階にある食堂からは暖かい明りと喧騒が漏れている。日が暮れても途切れる事なく行き交う人々に混じり、フィラーシャとサリアスもゆっくりと石畳の上を歩いていた。
五の鐘が鳴り終わってからしばらく後、日が沈み切った待ち合わせ場所に彼女が走りこんできたときは、フィラーシャも驚きと同時に嬉しさを感じた。待てど暮らせど来ない相棒にフィラーシャは、既に置いて行かれた後か、はたまた自分が何か勘違いをしていたのかと悶々としていたのだ。それだけに、遅れてきた理由がはっきりと分かる彼女が息せき切って現れた時の安堵感はかなり大きかったのである。加えてこの、今日の英雄である女戦士は、なんとフィラーシャの事を知っており「貴方のおかげで街の人々を救うことが出来た。感謝している」と手放しで褒めちぎったのだ。ダナスと渡り合っていた彼女の視界に、端っこの方で地味に介抱をしていた自分が映っていた事に、何とも言えない嬉しさがあった。
しかし、心の何処かで「相棒の戦士もきっと辞退するだろうし、その流れに乗ればいいや」と高を括っていたフィラーシャにとって、このやる気満々の相棒殿は悪い意味でも想定外過ぎる。辞退しよう、という心積もりは一応変わっていないのだが、どう話を持っていけばいいのか皆目見当もつかないのだ。
「あはは……そんな、大げさだよ。二人とも神殿に用事があったからこの辺りに居たんだし……それに、あたしはそんな大した事出来てないもん。何て言うか、やっぱ向いてないかなぁ、なんて思ったりして――」
「そんな事はないっ!」
整った石畳の敷かれた足元へ視線を下げつつ、辞退の口実にしようと夕刻の自分の不甲斐なさを口にしかけたフィラーシャを、周囲が足を止めるような大音声でサリアスが遮った。周囲以上に驚いて立ち止まったフィラーシャの両手を、サリアスが己の胸の前でしっかと握り締める。
「何を言っているのだ、フィラーシャ。貴方はあの時飛散する瓦礫から人々を守り、献身的に怪我人の治療に当たったではないか! 確かに敵を倒す事も重要だが、弱き人々の命を守る事はそれ以上に尊い事だ。何を恥じる必要がある! それに共にダナスを退治してくれた旅人も、貴方の指示を受けて私に協力してくれたというではないか」
何か盛大に間違っている部分がある。旅人というのはフォートの事であろうが、彼に何かを指示した覚えなど全くないフィラーシャであった。どちらかと言えば、もたもたしていたフィラーシャに指示をしてくれたのは彼の方である。しかしそんな勘違いよりも今は強く握られた両手が痛い。そして熱い。ついでに真正面上方から注がれる琥珀色の視線も強くて熱くて痛い。至近距離からきらきらと音がしそうなほどの熱い視線を送られて、フィラーシャは殆ど恐慌状態に陥っていた。
「あわわわわ…………あ――う――ええと、その……」
何か返そうとしても咄嗟に言葉が出てこない。術者の混乱を反映し、魔術の灯り玉も不安定に明滅している。しばらくその状態で見詰め合って後、硬直するフィラーシャを流石に怪訝に思ったのか、サリアスが握力を緩めて軽く眉根を寄せた。
「何か、気に障るような事を言っただろうか?」
その問いに反射的に首をぶんぶんと横に振って、フィラーシャは再び途方に暮れた。自分なりの努力を認められるのは嬉しい。フォートにはいささか申し訳ない勘違いをされているようだが、フィラーシャにとって気分を害するような内容は何一つ無いのは事実だ。事実だがしかし、この「勇者を辞退する」という発想そのものが、そもそも頭にない相手に今の自分の心情をどう説明したらよいのかなど、フィラーシャには皆目検討もつかなかった。
「ち、違う、違うよ! サリアスがあたしのやった事認めてくれるのは嬉しいし、気に障る事なんて全然ないんだけど……」
そこで一旦言葉を切って、斜め下の石畳に再び視線を落とす。まだ不安定な灯りに照らされた己の影が、弱々しくゆらゆらと揺れていた。
「その、うーん……サリアスは、怖く、ないの? たった二人で魔王を倒しに行くのって……その、む、む、難しいだろうなぁ、ってあたしは思うんだけど……」
無理、とは言えなかった。己の使命を疑っていない様子のサリアスを相手に、それを否定する言葉が言えない。間近にあるサリアスの顔を直視できず俯いたフィラーシャに、サリアスは意外なほど落ち着いた声で、ゆっくりと答えた。
「怖いか、と問われれば……そうだな、不安はある。だが、私は『行かない』事の方が恐ろしいかもしれないな」
「――どういうこと?」
その言葉に、フィラーシャは顔を上げ、首を傾げる。
「私はこれまで四年間、この旅に出る事だけを目標に訓練を受けてきた。訓練は厳しいものだったと思っているが、手を抜いたつもりはない。もし此処で旅立てなければ、過去四年間の私の努力は無駄になってしまうだろう。それが恐ろしい」
「……行って、死ぬだけだとしても? 今まで大勢の、それこそ本当に『勇者』と呼ばれるような人たちが行って、帰ってこなかったんだよ?」
小娘二人でどうなるというのか。どれだけサリアスが真面目で優秀だとしても、フィラーシャに魔術の才能があろうとも、結局自分たちは只人でしかない。
「ああ、それでもだ」
だが、そう頷くサリアスに迷いは窺えない。それに対して次の言葉を継げないでいるフィラーシャは、よほど困惑して見えたのだろう。サリアスは握ったままの手を降ろし、少し視線を緩めて言った。
「……なあ、フィラーシャ。もしこのまま世界を放っておいたら、私たちはあと何年生きられるのだろうな」
サリアスのあまりの一途さを、理解できない思考だと拒絶し始めていたフィラーシャは、その言葉でぎくりと強張った。
「私の父は鍛冶屋だが、剣術も修めていてな。私は幼い頃から父から剣術の指南を受けていた。その中で、刃を振るう者の心得として説かれたのだが――……『剣は、力は容易に他人を傷つける。力とは、他人や、周囲のものを押し遣って己を通す為のものだ。だからこそ、己の力は、心底誇れる事に使え。常に己の心に問うて、己が最も納得する事のためにその力を捧げろ』そう言われて来た。力を使う限り、その使った結果を、誰かを傷つけたならその事を、全て自分が背負わねばならない。心に誤魔化しをして力を振るえば、その結果を背負いきる事が出来ない……そういう事だろうと思う」
そう静かに語るサリアスは、真摯な、深い光をその双眸に湛えていた。灯り玉の白色光によって照らされるそれは華やかな琥珀色であり、強い意志に光る様は黄金と呼んでも良いほどだ。その眼光に気圧されて息を呑むフィラーシャよりも、遥か遠くへ視線を上げてサリアスは続ける。
「私が決めた『私が最も納得する剣の使い方』は、この剣を正義に捧げる事だ。私はこの聖都から旅立っていく先達を幾度となく見送った。彼らの勇敢さ、誇り高さ、高潔さを尊敬してきたし、私もそれに倣い、この力を正義の為、この世界をより良い方向へ導く為に使いたい。その為に今、私が出来る最善の事はこの旅に出る事だと思う。そしてもし、この機会を逃してしまった時……次の機会が巡ってくるまで、この世界が無事で、私が生きている保証はないのではと、そう、思うんだ」
世界の衰弱は激しく、この聖都にすら魔物が出る事から分かるように、闇の魔手は着実にその影響力を強めている。「勇者」が只の称号――職探しのための箔に成り下がり、本気で魔王と相対しようという人物が居ないこの世界は、果たしていつまで存在していられるのか。果たしていつまで、自分達は生きていられるのか。
「……確かに、折角称号を貰って大国に召抱えられても、世界が終わっちゃうんじゃしょうがないんだよね……」
それはフィラーシャの中にも、常にあった疑問と不安だった。魔王と戦おうとしても死ぬだろう。だが、逃げて何処に行ったところで、破滅から逃れられはしないのだ。世界そのものが破滅してしまうのであれば。
「……称号? フィラーシャは何かの称号を得ているのか?」
思わず呟いたフィラーシャの言葉に、サリアスが首を傾げた。しまった、と凍りつくも時既に遅し。恐らくこの清廉な勇者殿は「勇者」という称号の存在を知らないのだ。否、きっと想像した事もないのだろう。
「あ……えっと。さ、サリアスは知らないのかな? だよね、そんな感じだよねー……。えっと、この『勇者』ってのに選ばれた事が、称号になるっていうか、ええと、貰った支度金にちょっとお金を足して神殿に返すと……そのー、あたしもよく知らないんだけど、神殿から『この人は確かに勇者に選ばれるほどの実力がありますよ』っていう書状を貰えるらしくて。それで、今は大抵の人はそうやって、書状を貰って近くの国とか大きな商家とかに雇ってもらうための箔にしてる……らしい、よ?」
今が機会と、半ば自棄でフィラーシャはまくしたてた。思わずサリアスから解放した両手を、無意味に上下左右にぱたぱたと動かしながら喋る。勿論、書状は帝国公式のものではないし、そうして魔王討伐から逃げ出した人間は帝国内で官位を得る事は出来ない。帝国と、一部の周辺諸国の間で戦争状態にあるにも関わらず、帝国から他国への人材流出を促すような制度がまかり通っているのだ。
突然の早口に目を白黒させていたサリアスは、フィラーシャが喋り終えて、実に三呼吸以上置いてからようやく口を開いた。その間の沈黙を待つフィラーシャは生きた心地がしない。突然怒鳴られてもおかしくないからだ。正義感溢れる眼前の女戦士が、こんな話に憤激することは想像に難くなかった。
「――つまり、勇者に選ばれた者の大半は、実際には北へ――魔王討伐へは向かっていないと?」
「う、うん。大半っていうか、最近では全然……」
まだ自分が逃げたわけでもないが、まるで己の悪事を白状するように縮こまって、フィラーシャは訂正した。それを聞いたサリアスの表情が一瞬険しくなり、そのまま伏せられて見えなくなる。今度は三呼吸間を置いても、サリアスは沈黙したままだ。
「…………さ、サリアス?」
気まずい空気に耐え切れず、フィラーシャは恐る恐る声をかける。ふと視界に入ったサリアスの両手がきつく握り拳を作ったのを見とがめ、フィラーシャは身を強張らせた。
「……そうか、そんな事になっていたのだな……」
低く抑えられた声が、フィラーシャの耳に届く。
「う、うん」
怒りよりも落胆が激しかったのかと、申し訳ない気持ちでフィラーシャは頷いた。しかし決然と顔を上げたサリアスは、フィラーシャを正面から、熱い視線で見据えて言い切った。
「ならばなおの事、私たちが行くしかあるまい。フィラーシャ、それはつまり、私たちをおいて、この世界を救う真の勇者になれる人間は居ないということだ」
――唖然。おかしい。自分も「旅から逃げる人間」です、と白状したも同然の流れではなかったか。直近のやり取りを胸の中で高速再生しながら、フィラーシャはぽかんと口を開けた。確かにフィラーシャが旅に消極的な事は、そこはかとなく表明されていたが、それだけではサリアス相手では不十分だったようだ。
「フィラーシャ?」
間近で首を傾げるサリアスの目は何処までも澄んでいる。どうしよう。というか、何故此処まで自分は信頼されているんだろう。そう思考を迷走させるフィラーシャとそれを覗き込むサリアスを、魔術の灯り玉が照らしている。フィラーシャの迷いを反映し、その光源は気忙しく照度を変えていた。
時折起こる目を射るほどの発光に、眩しそうに目を細めたサリアスがフィラーシャに微笑みかける。涼しげな目元を緩め、柔らかな金の光を瞳に湛えて微笑む様は、どうしようもなく男前だ。
「ま、前向きだねー」
一瞬それに見惚れたフィラーシャは、とりあえず何か言わなくてはと、穏便な感想を述べた。
「ああ、他人を責めても何も変わらないからな。他人がやらないのならば私たちがやるだけだ。戦う意思のない者が無理に行って、成功するような事柄ではないはずだしな、無理強いは酷だろう。それに、フィラーシャの言う事が本当ならば、今まで旅立った者全員が戦って殺されてきたわけではないのだろう? ならば光明はあるではないか。やり尽くした後でないなら、成功するか否かは未知数だ」
正しく、超弩級に前向き。己の言葉に励まされながら、闘志の炎が背後に見えそうな勢いで眼を輝かせるサリアスと対照的に、フィラーシャは脱力して杖に体重を預けた。
我が道を行く人種らしいサリアスに呆れ、戸惑いながらも、そのやる気に次第に感化されつつある自分を、フィラーシャは自覚する。現に、思考は大混乱にも関わらず灯り玉の光は弱まる事を知らない。それどころか、サリアスにつられて高揚しているらしい気分を反映して一際明るく、早まる鼓動に合わせてくるくると光る。胸の鼓動も、次第にその速度と音量を上げていた。己の頬が高潮するのが、鏡を見ずとも分かる。
「ふっ、くくっ、あはははっ」
とうとう堪えきれず、杖に縋ったまま笑い始めたフィラーシャに、今度はサリアスが驚いたようだ。
「ふぃ、フィラーシャ……?」
すぐ近くから降ってくる戸惑った声に顔を上げ、まだまだ続きそうな笑いの発作を噛み殺しながらフィラーシャは答えた。
「えっとね、そうだな……どうしよう。――実はね、辞退……するつもりだったの。怖いし、あたしなんかじゃ無理だって思って。無理だって諦めても、きっと魔導協会にはもう帰れないだろうけど――」
旅に出ても、逃げ出しても、もう協会の仲間達には会えない。大好きな姉、アルベニーナにも、だ。そして恐らく、よしんば会えたとしても、逃げ出して帰ったフィラーシャとの再会を姉は喜んでくれないだろう。聖都の賑やかさと物珍しさで誤魔化して、あえて忘れていた事だったが、フィラーシャにもう、帰る場所はないのだ。
笑いを収めても俯いたまま、フィラーシャは続ける。静かに聴いてくれているらしいサリアスの気配がありがたい。
「でも、何だろ、サリアスの言葉を聞いてると、何か……何かやれそうな気がしてくるね。何かやってみたいって思った。あたし、臆病だしのろまだし、何も出来ない気がするけど……でも、何か出来るならやりたい、って思ってるのは嘘じゃないんだ、多分」
ここで逃げ出してアルベニーナを裏切り、サリアスの目標の邪魔をして独り職を探すより、サリアスと一緒に何かやってみたい。目の前の女戦士は、そう思わせる力を持っていた。
一通り告白し終え、フィラーシャはそろそろと顔を上げた。サリアスがどんな表情をして、どんな言葉を返してくるのか、にわかに緊張が身体を走る。
「行こう、フィラーシャ。行って、成し遂げよう。私も叶うのであれば、他の誰かよりも貴女と共に旅をしたい」
見上げるフィラーシャを迎えたのは、力強い言葉と翳りの無い視線。負の感情の気配が一切無いそれに安堵と喜びを感じながら、フィラーシャはそれでも尋ね返した。
「いいの? あたしで。なんで……」
それまでの確信に満ちた様子からは一変、困ったように眉尻を下げてサリアスが答えた。
「…………そう、だな、貴方の想いは本物だと思うから……だろうか」
その変化に驚き、小首を傾げたフィラーシャに、さらにサリアスが慌てる。
「す、すまない、理由を説明するのが苦手なんだ。それでよく顰蹙を買う」
サリアスは恐らく、直感で判断する人種なのだろう。これまでにも散々理由を求められては困った事があるらしいその様子に、フィラーシャの口元は綻んだ。
「あはは、そうなんだー。じゃあ、その――よろしく、お願いします」
改めて固く握手を交わし、二人はそれぞれの宿に戻っていった。
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