第一章 叔父さんの家にメイドがやってきた

 私立夕滝高等学校は放課後の時間を迎えていた。

 ここ、一年三組の教室では、部活、塾、帰宅、遊び等、それぞれの目的に向かって、生徒達が行動を開始していた。

 そんな生徒の中の一人、夜宮よみや華生かしょうも帰る準備の為に、鞄へと教科書等を詰め込んでいた。

「ねぇ、ハナ。駅前に新しいお店が出来たらしいんだけど、寄ってかない?」

 クラスメイトの葛原くずはら七海ななみが華生に声をかけた。だが、華生は七海に向かい、手を合わせて頭を下げた。

「ごめん、七海。今日は用事があって行けないの」

「え? ハナが用事とか珍しい。いつも何も無さそうなのに」

「いや、私どんだけ暇人に見られてるの?」

「だって、いつも暇そうじゃない?」

「ま、暇と言えば暇だけどさ……」

 華生は少し思い返してみたが、放課後に何か用事があったことは、ほぼ無いに等しい。暇だ。

「で、なんの用事?」

「今日はてつおじさんに呼ばれてるの。『ちょっと来てくれー』って言っててね」

「ああ、たまに話するからくり人形大好き変態の叔父さん」

「そうそう、からくり人形大好き変態──って、違う違う。からくり人形大好き変人の叔父さん」

「どっちも変わんないよ」

「いや、だいぶ差があると思うけど?」

「そうかなぁ。で、なんで呼ばれたの? 普段、悪口言ってるのがバレたんじゃない?」

「えー、悪口じゃないよぉ。確かに叔父さん何しているか分からないし、家は不気味だし、何考えているか分からないし、犯罪してそうな雰囲気あるけど」

 それを悪口と言うんじゃないか? と七海は思ったが、流すことにした。

「でも残念。この前の中間試験のお礼がしたかったのに」

「お礼?」

 華生に思い当たる節は無い。

「ハナが『ここ出そう』って行った所、ほとんど出てきた。おかげでいい点が取れたからね。そのお礼。試験用紙盗み見たかと思うぐらい、出てきたんだけど」

「いやいや、そんな勇気ないから」

 華生は昔から勘が鋭かった。銀はがしで当たりが出そうな所がなんとなく分かったし、当たり付きのアイスも「これが当たりそう」と買えば、高い確率で当たった。華生自身は単に運がいいだけと思っていたが、高校に入ってから七海と知り合って「勘がいい」と言われてから、そういう見方があるのかと思った。

 試験の問題も、七海に「どれが出そう?」と聞かれて答えたのが当たった。出る範囲が分かっても、その内容が分かっていなければ意味が無い。テストの成績があまりよくない華生は、七海にみっちりと勉強を教えてもらって、高校初の中間試験をそこそこの点数で終えた。

「私も勉強教えてもらったお礼がしたいから、今度行こうよ」

「絶対だよ、ハナ」

「うん、約束」


 自転車通学の華生は帰路の途中で七海と別れ、叔父さんの家へと向かった。叔父さんの家は華生の家からさほど離れてない。歩いてでも行ける距離だ。だが、その足取りは重い。

「何度見ても……慣れないよね、この雰囲気」

 華生は叔父さんの家の前に立っていた。

 目の前にあるのは、黒ずんだ高い塀に囲まれた古い洋館。庭は樹木が鬱蒼と茂っており、まだ日が昇っているというのに暗く重苦しい空気が流れている。敷地のどこからか謎の生物の鳴き声が聞こえてきても、ここならおかしくは無い。錆びた鉄の門は開け放たれ、右側の門柱には『日本からくり研究所』と書かれた朽ちかけた看板が掲げられている。

 明らかに、この場所には異質な物が建っていた。

 こんなのが住宅街にドーンと建っているのだから、近所に住む人はたまったものじゃないだろう。

 古くから建っていて、叔父さんはそれを買い取ったらしい。華生は叔父さんが引っ越してくるまで、この屋敷の存在を知らなかった。前の住人がどんな人なのか気になる。

「近所じゃお化け屋敷なんて言われてるけど、私が見てもお化け屋敷だと思うよ、うん」

 一人納得した後、門をくぐって玄関脇に自転車を止めると、意を決して屋敷に足を踏み入れた。

 玄関をくぐると、やや広い玄関ホールに電子音が流れてきた。来客を表すサインだが、家主は出てこない。

「おじさぁーん! いるのぉー?」

 華生は叫んだが、高い天井のホールに声が響いただけ。その声に対する返事は帰ってこなかった。

「入るよぉー」

 色あせた臙脂色の絨毯の上を歩いて行く。館内は静かで、絨毯に吸収される華生の小さな足音も聞こえる。

 華生は叔父さんがいそうな場所を考える。

「……んー、この時間にいるとしたら、展示室か研究室かな?」

 華生は目的の展示室へと向かった。廊下は明かりも点いておらず、昼間だというのに、なんだか薄暗い。ここは博物館として客が入ることも出来るのだが、この雰囲気に耐えられなくて途中で引き返す客もいる。何度も通っている華生でも、この廊下は何か出そうで怖い。だが、ここで引き返す訳にも行かない。

 やがて『展示室』と文字が書かれて、下には部屋に案内するかのような左向きの赤い矢印が書かれた看板が見えてきた。ここが目的の展示室である。

 扉は開けられていたので、ひょっこり顔を出して中を覗き込む。電気の点いていない薄暗くて広い部屋の中には、古今東西から集めた和洋様々なからくり人形が展示されていた。どちらかと言えば和のからくり人形が多い。展示室に来たお客さんは、ここでお茶を運ぶ物から、何をやるのかよく分からない物まで、様々なからくり人形を見ることが出来る。

 正面にはおかっぱ頭のからくり人形が置いてある。華生はその無機質な目と合ってしまい、思わず視線を逸らしてしまった。いつもここに置いてあるからくり人形ではあるが、何度見ても慣れない。

「廊下を耐えられても、この人形を見て逃げるお客さんもいるんだよねぇ……。ま、お客さんなんて週に一組来ればいい方だけど、折角のお客さんを逃すことはないよね……」

 華生が叔父さんに呼ばれる用事と言えば、大体が店番。出かけるからと頼まれるが、展示室まで辿り着いお客さんはほぼいない。大半が途中で引き返す。そもそも、ここでからくり人形を展示しているなんて表からは全然分からないので、来ようという客が少ない。店番は暇で退屈で仕方無いが、お小遣いとして千円くれるので、頼まれたら受ける。貴重な収入だ。

 正面のからくり人形と目が合わないように、部屋の中をぐるりと見回す。奥の扉が開いており、そこから光が漏れていた。この部屋が研究室である。

「あ、いた」

 華生は少し早足で展示室を抜けて、研究室を覗き込む。

「てつおじさん、今度こそいる?」

「あ?」

 部屋の中から間の抜けた声が聞こえてきた。

 部屋は十畳ぐらいの広さで、部屋の中央にはダークブラウンカラーで木目調の大きな机があり、その上にはモニターが二台並んでいる。その向こうには解体されたからくり人形がある。そして机の向こうには黒い肘付オフィスチェアがあり、そこにはヨレヨレの白衣を着たボサボサ頭の叔父さんが座っていた。

「おう、来たか」

 叔父さん──小芝こしばさとしは一瞬華生を見たが、すぐにからくり人形に目線を戻した。名前が哲と書くので、みんなからはてっちゃんやてつと呼ばれていたりする。

「すまんな。今、手が離せなくてな」

 哲は真剣な目つきでからくり人形をイジっていた。哲はこの日本からくり研究所の所長をしている。所長と言っても、この研究所にいるのは哲一人だが。哲はこの研究所でからくり人形の研究や展示や修理を生業としているが、前述の通り展示品を見に来る客は少なく、いつ来てもからくり人形をイジっている事が多いので、華生には哲の仕事内容が見えにくい謎の多い叔父さんという認識がある。哲の姉──つまり華生の母親も、哲のことはいつも心配している。

「呼んでおいて、手が離せないって、なにさ」

 華生は哲の軽い口調に、少しイラッとする。

「ごめんごめん。もうちょっとで一旦落ち着くからね。とりあえず、コーヒー淹れて貰える?」

「はぁ? なんで」

「飲みたくなったからに決まってるじゃない。それに、ハナちゃんは俺を超えてるからね。コーヒーの淹れ方」

 哲は喋りながらも、からくり人形をイジる手を止めない。その様子を見て、華生は断る気分になれなかった。

「んもー……分かったよ。淹れるよ。淹れればいいんでしょ」

 華生は文句をいいつつ、研究所の奥にある給湯室のドアを開け、中に入った。

「あれ?」

 華生は一ヶ月前に来た時との変化に気付いた。

 シンクの横にあったガスコンロがIHヒーターに変わっていた。掃除もあまりせず汚い状態だったので、もう掃除するより変えた方が早かったのだろうだろうと気にも留めず、注ぎ口の細いドリップポットでお湯を沸かした。

 お湯が沸いて少し冷ますと、ドリッパーにお湯を入れて少し蒸らす。それから、一気にお湯を注ぐ。ドリッパーはメリタ式。簡単に美味しいコーヒーが淹れられる。コーヒーの淹れ方は小さい頃哲に教わった。

 最近は哲の家に来ると「ハナちゃんの淹れるコーヒーは、とってもおいしいから」とか「ハナちゃんはコーヒー界の救世主」だとか言われて、いい気分になって毎回コーヒーを淹れている気がするのは、気のせいだろうか。

 コーヒーの香りで少し上機嫌になった華生は、カップを二つ持って軽い足取りで研究室へと戻ってきたが、展示室入口扉の所に別の人影があるのに気付いて足を止めた。

 そこにいたのは柔らかい金色セミショートカットの女の子で、大きな目で透き通るような白い綺麗な肌をしている。服装は濃い紺のワンピースに白いエプロン。頭にはホワイトブリムを付けていた。

 目の前に居るのは、誰がどうみてもメイドだった。百人に聞いたら、百人ともメイドと答えるだろう。これではクイズにすらならない。

 華生は一瞬見とれてしまったが、その後頭の中では色々な物が駆け巡った。やがて結論が出た時、全身に震えが来る。ショックで指が緩んで落としそうになっていたカップをしっかり持ち直し、哲の方を向いた。

「てつおじさん、自首しようよ」

「なにが?」

 哲は作業が一段落していたようで、イスをくるっと回して華生の方を向いた。

「……だって、この子誘拐してきたんでしょ? おじさんには子どもいないし……。大丈夫、安心してよ。もし、マスコミが私の所に取材に来たら『ずっと前から、そんなことする人だと思ってました』って答えるから。一度答えてみたかったんだ。あ、ちゃんと音声は加工してもらうね」

「待て待て待て待て。別に誘拐してきた訳じゃ無いぞ。俺が作ったんだ、なぁ?」

 哲は床を蹴ってイスを回し、メイドの女の子の方を向く。

「はい。私は所長に作られました」

 女の子は、ハッキリした口調でそう答えた。

「そう……作ったの……はぁ? 作ったぁ?」

 華生は一度は納得しそうになったが、その言葉がおかしい事にすぐ気づいた。

「……作ったって、母親誰なのよ」

 普通に作ったと言えば、相手がいるはずだ。だが、その問いに対する哲の答えは、

「母親? いないなぁ」

 という物だった。

「……亡き者にしたんだね。やっぱり自首しようよ、おじさん」

 さっきから話が飛躍しすぎているが、華生は動揺しすぎていて気付かない。

「いや、だから最初からいないんだって」

「じゃあ、どうやって産まれたのよ」

「俺が作ったんだ、なぁ?」

「ええ。私は所長に作られました」

 このまま聞き続けていると、永遠にループしそうな気がしてきた。華生は質問を変えてみる。

「ねぇ、産まれた経緯を詳しく教えて」

「だから、さっきから言ってるじゃないか。俺が作ったんだよ。今まで培ってきたからくり人形の技術を結集してな」

「そう……作ったの……はぁ? 作ったぁ?」

 華生はメイドの子に詰め寄って近くでマジマジと見た後、そっと頬を撫でる。すべすべとした完全に人間の肌の感触とほのかなぬくもりが、華生の指先から伝わってくる。

「く、くすぐったいですよ……」

 メイドの子は華生に触られて身を捩らせていた。

 一通りメイドの子を見た華生は、哲の方へ振り返る。

「いや、どう見ても人間じゃない。この子」

 これが作られた物だとは信じがたい。たまに大学などが人間そっくりなロボット開発というニュースをやっているが、そういうレベルじゃ無い。目の前にいたのは、どうみても人間の女の子だった。これが作られた女の子だと信じられるだろうか。いや、信じられない。

「俺が作ったからくり人形だよ。からくり人形アンドロイド。略してカナだ」

「私の名前はカナです。よろしくお願いします」

 カナは深々と頭を下げた。動きや喋りに不自然さは無く、実にスムーズな物だった。

「……信じられないんだけど」

「だって、人間そっくりになるように作ったんだもん。不自然さがあったら、それは人間そっくりじゃあないだろう?」

 正論だ。

「そうだけど。あと……」

 華生はチラッとカナに目線をやる。その視線の先は、大きく膨らんで孤を描く胸の所。マジマジと見るつもりは無かったのだが、あまりにもこの部分が目立ちすぎていて、どうしても目が行ってしまう。

「でかすぎない? おじさんの趣味?」

「いや、俺の趣味じゃないよ? 色々と機能を詰め込みつつ人間っぽい体型を模索した結果、そこに色々パーツを詰め込んだんだ。決して大きくしたくて、したんじゃないぞ? ホントだぞ? 俺はどっちかというと、手のひらに収まるサイズの方がだな……」

 色々言い訳をしているが、哲の様子は先ほどまでと変わらず落ち着いている。嘘ではないようだ。

 となると、この胸は中身が詰まって固いのかどうか気になってくるが、ここでカナのおっぱいに触れば、間違いなくヘンタイの烙印を押されることになるだろう。変人のおじさんにヘンタイの烙印を押されるのは、人生最大の恥である。華生はグッと我慢をして話題を変えることにした。

「ところで、なんでメイド姿なの?」

「いやぁ、女の子の服がどういう物がいいのか分からなくてなぁ。商店街で買おうかと思ったんだが、俺が女物の服買ったら変態だろ? てか、商店会の奴らの間で噂になるだろ? だからどうしようと悩んでいたら、展示室に女給のお茶運びからくり人形があったから、それを参考に服を作ったんだよ。ホントだぞ?」

 女給は戦前から戦後少しの間まで使われていた言葉で、ウェイトレスの事を指す。当時は和服に白いフリルエプロンという服装で、女給目当てで喫茶店へ行くというのも珍しくは無く、喫茶店にハマり込む文化人もいたと言われる。もっとも、目の前にいる彼女はエプロンはしていても和服ではないのだが。

「……せめてネット通販使ってよ」

「あー、そういう手もあったな」

「でも私、この服気に入ってますよ?」

 カナはくるりと回ってメイド服を見せた。スカートがふわりと上がり、ほどよい肉付きのふとももが見えた。確かにこのメイド服はカナに似合っていると思うし、可愛いと思う。だが、メイド服が普段着というのはいかがなものか。

「それに、この服は色々と隠す場所があって、使いやすいんですよ」

「ぅぅわぁぁー!!」

 無防備にスカートを持ち上げたカナを、華生は慌てて両手を振り、大声を出して止めた。彼女に羞恥心というものはないのだろうか。

 幸い、スカートの下の布地は見えなかったが、服すら買えなかったてつおじさんがどうしたのか、非常に気になってきた。穿いていないのか、てつおじさんが自作したのか、実は持っていたのか。もし、これで穿いてないとかだったら、安心できない。おじさんが自作したとなったら、別の意味で安心できない。持っていたとなったら、変態というレベルを突破することになるだろう。人の性癖にどうこう言うつもりはないが、そういう部分は隠して欲しい。

「で、だ。ハナちゃんにお願いがあるのだが……」

 哲は声のトーンが低く変わっていた。その変化に気づいた華生は、何か真剣な話があると思い、哲の方を向いた。話し方からしても、嫌な予感はしない。

「頼みってのは、そんなに難しいもんじゃあない。カナに女の子らしさを教えて欲しいんだ。俺は女じゃ無いからな。女の子の日常という物がよく分からんのだよ。ハナちゃんと同じぐらいの歳を想定して作り上げたんだけど、ハナちゃんに色々と調整して欲しいんだよね。年相応ぐらいに。ちょっとおっさん臭くなってもいいなら、俺が教え込んでもいいんだが」

 これは脅しに近い。こんな可愛い子がおっさん臭いとか……それはそれでギャップ萌えという点でアリかもしれないが、この子はそういう道を歩ませてはいけないような気がした。カナを守るためにも、ここは教育係を受けざるを得ない。

「うーん……」

 だが、華生の中には不安があった。カナをきちんと一人前の女の子に出来るか。そもそも、自分が女の子らしくしているのか。疑問が生まれた。

 華生が悩んでいると、哲は五千円札を二本指で挟んで懐からスッと出してきた。

「タダとは言わん。お小遣いを弾もう」

「うん、分かった。私、頑張るよ」

 一瞬で迷いが吹っ切れたその決断、コンマ一秒もかからなかった。

「よーし、これで問題は解決、っと」

 勢いを付けて立ち上がった哲は、白衣を脱いでイスにかけると給湯室の方へと歩き出した。

「俺は用事があるから、ちょっと出かけてくる。その間、店番を頼むよ」

「え、いきなり二人っきり?」

 華生は慌てて哲の後を追いかけた。

「カナちゃんに何かあったらどうするの? いきなり不具合が出たとか」

「大丈夫大丈夫。俺のからくりは完璧だ。あのスムーズな動き、見ただろ?」

 そう言いながら、哲は給湯室の奥にあるドアを抜けた。そこはガレージになっており、哲が仕事で使うトヨタ・ハイエースと、私物のバイクであるメグロ・S3があった。哲は慣れた手つきでS3をキックし、エンジンを始動させる。赤い「メグロ」の文字が輝くエンジンから重々しい音が放たれ、狭いガレージ内に響き渡った。そしてガレージの端にある棚の上にあったシャッターのリモコンボタンを押した。シャッターはゆっくりと上がり始め、光が徐々にガレージ内へと流れ込んでくる。

「そうじゃなくって! 何から教えればいいのさ!」

 響くエンジンの音に負けないように、華生は大きな声を出す。

「何って……なんか分からない事だろ。何も知らない赤ちゃんに教え込むんじゃなくって、基礎的な知識は俺がインプットしている。足りない部分を教えればいいんだ。簡単だろ?」

「何が分からないのかが、分からないんだけど」

 至極当然の事だ。今日初めて出会った人に分からない事を教えろなんて、ヒドイ無理ゲーである。

「まずは二人で話し合ってみることだ。そうすれば分かってくるだろうよ」

 哲はグローブをハメてフルフェイスヘルメットを被り、S3に跨がった。

「最初はお友達になるところから始めてみようか」

「いや、別に恋人になりたい訳じゃないし」

「んじゃ、行ってくる」

 そういうと、ヘルメットのシールドを下ろし、アクセルを開いてガレージを出て行ってしまった。残された華生は茫然とする。

「──どうすればいいのよ……」

 途方に暮れていると、背後に気配を感じた。振り向くと、そこにはカナの姿があった。

「所長、秋刀魚で出かけたんですね」

「はぁ?」

 カナの口から突然出てきたまるで関係の無い単語に、華生は戸惑ってしまう。

「だって、秋刀魚はメグロに限るって言葉があるじゃないですか。あれにはメグロって書いてあるから、秋刀魚なんですよね?」

「おじさん……基礎って何をインプットしたのさ……」

 みっちりと問い詰めたいところではあるが、当の本人がいない。

 華生は頭を抱えた。カナにインプットされている基礎的な知識が怪しすぎて、もはや不安しかない。

 とはいえ、やり遂げれば、お小遣いが貰える。しかも五千円。高校生の華生にとっては、かなりの大金だ。樋口一葉を手に入れる為にも、ここは頑張るしかない。

 二人は研究室へと戻ってきた。

 華生は脱力するかのようにイスへと座る。哲が長時間座ることも多いためか、イスは身体に吸い付くかのようなフィット感で、とても座り心地がいい。後ろの変な臭いがする白衣さえなければ、天国のような環境だ。

「さーてと……」

 華生は二台並んだモニターを見た。右はパソコンの画面。左は玄関ホールや展示室等を映したカメラの画像が、分割画面で映っている。いつものことではあるが、人の気配は全く無く、客も来る気配は無い。何か教えるには、絶好のチャンスのように思える。

 とりあえずは、お互いを知らなければならないだろう。

「最初はやっぱり……自己紹介からかな? てつおじさんがどういう設定でカナちゃんを作ったか、知りたいし」

 華生がカナの方を見ると、カナは深々とお辞儀をした。

「はい。私の名前はカナです。一週間前に産まれた、〇歳です。宜しくお願いします」

「はい、アウトォー!!」

 カナの見た目に反した違和感全開の挨拶に、華生は思わず叫んでしまった。

「〇歳はそんなにハッキリ言葉喋らないから」

「そうなんですか?」

 カナはまるで分かっていない様子だった。赤ちゃんがこんなに喋らないというのは、子どもがいない華生でも分かる。もし喋ったとしたら、その言葉は「天井天下唯我独尊」だろう。三十五歳で悟りを開かなければならない。

 というか、まず見た目が〇歳ではない。〇歳にしては、色々と育ちすぎである。

 どうしようかと思ったが、哲が言っていたことを、ふと思い出した。

「……確かおじさん、私と同じぐらいの歳を想定してって言ってたよね? だから、一週間前が誕生日のカナちゃんは、今日から十六歳ね」

「分かりました。今日から十六歳ですね? 明日も十六歳ですか?」

「当然」

「明後日も十六歳ですか?」

「うん。明日も明後日も明明後日も十六歳」

「来年も十六歳ですか?」

「いや、来年は十七歳でいいから。加齢を止めるなら、せめて十七歳にして。それじゃあ、もう一度挨拶してみよっか」

「はい。私の名前はカナです。一週間前に産まれた、十六歳です。宜しくお願いします」

 華生は頭を抱えた。もうどこからツッコめばいいか分からない。

 そんな華生を、カナは心配そうに見つめる。

「どうしたのですか? 気分が悪くなったのですか?」

「うん……。今後のことを考えると、すごく頭が痛くってね……」

 てつおじさんは基礎的な知識をインプットしたと言っていたが、実情として足りないことだらけだった。一から十まで説明しないといけないかと思うと、気が滅入る。

「では、気分転換にカフェオレを飲みましょう。この前、蘭さんにオススメされたんですよ」

 そう言ってカナは茶色の小さな紙袋を取り出した。紙袋には『純喫茶 潤』の文字が書かれている。潤は近くの商店街にある喫茶店で、店頭では自家焙煎のコーヒー豆を買うことが出来る。蘭はそこの喫茶店店員で、マスターの手伝いをしている女性だ。

「これは、インドネシア産のマンデリンです。マンデリンはどしっとした苦みとコクが特徴で、これにミルクを入れても、その存在感を失う事はありません。あ、マンデリンという名前の由来は、インドネシアの民族の名前で──」

 先ほどまでとは打って変わってコーヒーについて饒舌に語るカナを眺めながら、華生は大きなため息を吐いた。

「基礎的な知識って、なんだろうね……」

 そんな華生に気付かないカナのコーヒー講義はまだ続いていたが、頭の中にはまったく入ってこなかった。


 長い講義の後の気分転換が終わった。

 カナが商店街へ買い物に行くというので、華生もついていくことにした。先ほどまでのカナを見ていると、買い物している姿が不安になる。商店街の人達はいい人ばかりなので大丈夫だとは思うが、それでも不安にさせる空気がカナにはあった。

 商店街は古くからの商店が両側に建ち並び、青果店、鮮魚店、精肉店、総菜店等を始めとして、様々な店がある。華生も幼い頃からこの商店街に通っており、商店街の人達とは顔なじみである。

 商店街の入口が近付いてくると、商店街の人々が集まっているのが見えてきた。

「おお、カナちゃぁん。今日も来てくれたんだねぇ」

 嬉しそうに声をかけてきたのは、青果店八百威の主人、伊川いかわ信夫のぶお。長年この地で青果店を営んでおり、商店会の会長でもある。

「そろそろカナちゃん来るんじゃないかなぁって、みんなで話してた所なんだよ、なぁ?」

 伊川が聞くと、商店街の人々は一斉に頷く。

「今日はなんにするんだい? うちで魚買って行きなよ。今日も新鮮で美味しいお魚、たっぷりだよ」

 威勢良く言うのは、鮮魚店浜商店のはま雅路まさじ

「何言ってんだ。今日はうちで肉を買うんだろ? 肉こそパワー!!」

 精肉店肉万の柳原やなぎはらひろしが力こぶを作りながら言う。

「何か一品足したい。そんな時はうちの総菜だな。全部うちの総菜でもいいけど。バラエティ豊富だからね」

 総菜店藤食品の藤松ふじまつ幸生ゆきおが言う。

「食後のデザートはどうかな? うちのケーキでも」

 洋菓子店ケーキガーデン・ナガタニの長谷ながたに真樹まさきが言う。

「ケ、ケーキならうちにもあるよ」

 純喫茶 潤の清滝きよたきじゅんが言う。

「お前んところ、ケーキの持ち帰りは無いだろ!! で、カナちゃんはうちで野菜を買うんだよね? 今日は奥様方も大喜びなゴーヤ、入ってるよ」

「え、えっと……」

「ちょっと、カナちゃん困ってるでしょ!」

 商店街の人々に囲まれて困惑しているカナを、華生が輪の中から引きずり出して救出した。

「いやぁ、すまんすまん」

 伊川が軽く頭を下げて謝る。

「でも、困ったことがあったら何でも言ってくれ。この商店街に舞い降りた天使であるカナちゃんを、我々商店会は全力で守るからね」

「なんバカなこと言いよっと!! その前に自分の店ば守らんね!!」

 離れた所から鋭い声が飛んできた。声の主は八百威のおかみ、万喜子まきこさん。商店会の人々も、商店会を知る常連客も、みんながおかみさんが影の会長だと思っている。それを表すかのように、集まっていた商店会の人々は蜘蛛の子を散らすように、自分の店へと駆け足で帰っていった。

「まったく……」

 万喜子さんは商店会の人々が自分の店へ帰るのを見届けると、カナの方へと歩み寄ってきた。歩く姿だけでも、影の会長という風格が漂う。

「ごめんねぇ、カナちゃん。うちのバカどもが迷惑ばかけて」

「こちらこそ、すみません。皆様に迷惑をかけたようで……」

 カナは深々と頭を下げた。何度見ても、綺麗なお辞儀である。

「いや、いいって。そげん頭下げんでも。うちのもん含めてみーんな、カナちゃんが来てから、今までに無いくらいやる気出しとうけん。あげなやる気ば出しとう姿見んの、久しぶりやけんね」

「そうなんですか?」

「ところで、カナちゃん。野菜ば買いに来たっちゃろ? んねんね」

 そう言って万喜子さんはカナの腕をガッシリと掴む。いきなり腕を捕まれて目を丸くしたカナは、そのまま八百威の中へと引き込まれていった。

「変わってないなぁ……。昔と」

 残された華生はポツリと呟いた。小さい頃は母親について買い物に来ていたが、最近は一緒に買い物に来ることも無く、商店街とは疎遠になっていた。今日、商店街には久しぶりに来たのだが、商店街は昔と何も変わってないこと、カナがすでに商店街に溶け込んでいることにホッとした。少し口元を緩ませながら、華生はカナの後を追って八百威の中へと入っていった。


 二人は買い物を終えた。

 二人の両手は買い物袋で塞がっている。こんなに買う予定は無かったのだが、商店街のおじさん達がオマケをいっぱいくれた。華生は自転車を置いて歩いて来たことを、少し後悔した。それと同時に、普段一人でどう持ち帰っているのか、少し気になってきた。

 二人が商店街の出口近くにさしかかったところで、

「華生さん、カナさん」

 後ろから、柔らかな声が飛んできた。二人が振り向くと、純喫茶 潤の店員、西港にしみなとらんの姿があった。蘭はふんわりとした空気を纏ったお姉さんで、商店会の人達からは「商店街に降臨してきた女神」と言われており、商店会の人々が蘭を目当てに潤でたむろする姿も見られる。蘭が潤で働き始めたのはここ半年ぐらいで、華生も会ったのは一、二回ぐらいだが、蘭は名前を覚えていたようだ。

「あ、蘭さん。お久しぶりです」

「久しぶりぃ。カナちゃんも久しぶりぃ」

「昨日、会いましたよ?」

「そう?」

 蘭の服装はパフスリーブで膝丈スカートのさくら色ワンピースというふんわりしたものだったが、それがそのまま乗り移っているかのように、ふんわりとした時間が流れる。

「あ、そうそう。これ、いる?」

 蘭は鞄からチケット三枚取り出した。華生は券面を見て、なんのチケットかすぐに分かった。

「あ、須賀すが飛竜ひりゅうの奇術ショーだ」

「そうなの。須賀さんにチケット沢山貰ったんだけど、余っててね。よかったら、貰ってよ。哲さんの分もあるから」

「じゃあ、ありがたく貰います……って、須賀飛竜と知り合いなんですか?」

 華生はチケットを受け取りながら聞く。

「うん。ちょっとね。それもあって、私はこの町に引っ越してきたし」

「へぇー。すごーい。付き合ってるんですか?」

「い、いや、そういう訳じゃあ、無いんだけどね」

 蘭はちょっと顔を赤らめながら否定する。

 華生と蘭が話している間、カナは不思議そうな顔をしていた。

「あのー、須賀飛竜って誰ですか?」

「「え!?」」

 蘭と華生は驚いた顔でカナを見た。知らない方がおかしいみたいな空気だった。

「え? カナちゃん飛竜ちゃんを知らないのかよ?」

 別方向から男の声が飛んできた。声の主は自転車店花月園輪業の花月園かげつえんしげるだった。花月園輪業は商店街にある自転車店で、華生の自転車もここで買っている。花月園は黒いシティサイクルに乗っており、前カゴには修理道具を詰めた袋が乗っていた。おそらく出張修理の帰りなのだろう。

「いえ、知らないです……」

 カナの眉尻は下がり、声は消え入りそうになっていた。

 よくよく考えたら、カナは産まれて一週間だ。知らないことも多くて当然である。この場でそれが分かるのは、華生ぐらいだ。

「世界的奇術師だよ、飛竜ちゃん。飛竜ちゃんは『ボクはまだまだ町内レベル』だなんて言うんだが、もう世界でショーやってるからよ。でも、育ててくれた町に恩返しがしたいと商店街の奥に劇場も兼ねた多目的ホール作っててよ。偉いよ。飛竜ちゃんはこの町が産んだ、世界的奇術師だよ」

「いやいや、こうやってボクを知らない人もいるんだ。まだまだ町内レベルですよ」

 今度は若い男の声が聞こえてきた。声がした方を見ると、黒いジャージを着た長身の若い男が立っていた。

「あ、飛竜ちゃん」

 花月園が言う。この声の主こそ、今ここで話題になっていた須賀飛竜である。

「修行が足りないみたいだなぁ、ボクも。ま、修行に終わりは無いんですけどね」

「十分だろうよ。世界で活躍してるじゃないかよ」

「完璧な奇術なんてないですからね。修行は必要ですよ。ボクのモットーはどんな場面でも観客を楽しませることですけど」

「偉いねぇ、若いのによ。殊勝だよ」

「いつかボクのショーを見に来るといいよ。それでは、ボクは用事があるので」

 そう言うと、須賀は風のように去って行った。

「カナちゃん、いつか一緒に見に行こうね」

 そう言いながら、華生は券面を見た。普通の招待券と違う部分を見つける。

「……って、日付書いてないんだけど、いつからですか?」

「うーん……ホールが出来てからかな?」

「だろうよ。商店街の人にはチケット配ってるけどよ。まだ完成の日が決まってないらしいよ」

「えぇー……」

 肩を落とした華生と面白そうなショーが見に行けると嬉しそうなカナは、蘭と花月園と別れて家路に付いた。


 翌日。

 夕滝高校が放課後の時間を迎えていた。華生は、いつものごとく、鞄に教科書を詰めていた。そこに七海が寄ってくる。

「ねぇ、ハナ。今日は予定ある?」

「うん。今日もおじさんのところに行かないといけないんだ」

「あのからくり人形大好きな変人の?」

「ううん。からくり人形大好きすぎて作っちゃう変態の」

「え?」

「え?」


 それから一週間。華生は毎日のように哲の所へ通った。

 知識のテストと称して宿題をやらせてみたら、スラスラと終わらせてしまった。それを見て、宿題が出たら知識テストをさせた。学力に関しては、華生よりもはるかに出来るというのが、分かった。今後はどんなに難しい宿題が出ても、安心だ。

 その他の知識も、多少怪しい部分もあったが、問題は無いレベルだった。おじさんは必要最低限の基礎的な知識も、とりあえずはインプットしていたようだ。この前の出来事は、偶然の事故だったのかもしれない。分からないことでも、教えればきちんと覚える。記憶力もいい。

 休日は朝から一緒にいたが、料理の腕はプロ級だった。手際よく、テキパキと調理していく。作れる料理のジャンルも和洋中仏伊問わず、なんでも作れる。話を聞けば、料理の本を沢山読んだのだと言う。

 てつおじさんは毎日のようにどこかへ出かけていたが、特に気にも留めず、カナのお勉強を続けた。

 なんだかんだで楽しい一週間だった。

 そんなある日の夜。

 哲は夜遅く帰ってきた。華生はすでにいない。カナもスリープモードに入っているのを見て、哲は自分の寝室へと戻ってきた。

 哲は寝室の窓から、夜空を眺める。昨日は雲の多い空だったが、今日は星がハッキリ見えるほどの快晴だった。

 そんな空を見上げながら、哲は呟いた。

「二人の仲も深まっただろうし、そろそろ闇の世界へ招待するかね」

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