第8話 安楽死法案可決

 新庄は、今野の通夜に参列しなかった。

 いや、正確にはできなかったのだ。

新庄は、警察で任意の取り調べを受けていた。


 新庄がその日に限って、早朝に出社することがなければ、普通に自殺として処理されていただろう。

だが、普段なら誰もいないはずの時間に首を吊った被害者と、それを発見した新庄がいたことで、今野の死は「不審死」として扱われ、第一発見者である新庄は、「任意」とは名ばかりの、半ば強制的な取り調べが行われていた。


 狭い部屋に小さな机と椅子、小さな窓には鉄格子が張ってある。廊下側には小窓があり、外側からカーテンが掛けられているものの、定期的に警官が覗いてくる。全ての造りが、自白を促すための圧力として機能しているよう、新庄には感じられた。


「新庄さん、何もわからないってことはないでしょう。同僚が職場で亡くなったんですよ?」


 30代前半くらいだろうか。痩せていて、スーツはくたびれている。どこかの屋台ででも飲んでいそうな風貌だ。しかしその目は、新庄の一挙一動も逃さないよう、光っている。


「それはそうですが…。今野はリストラもされず、職場でも早く一人前になりたいと努力していたので…。むしろこっちが聞きたいくらいだ、なんであんな…」

今野のことを思い出すと、ロッカールームに入って電気をつけた瞬間がまざまざと蘇る。

新庄は咄嗟に頭を抱えた。


やめてくれ…!


刑事はそんな新庄の様子など構わずに続けた。

「職場で、何かあったのでは?例えば、いじめとか…?」


「いじめ?うちの職場でそんなものあるわけがない。うちの職場は明るくて、活気があって…」

新庄は答えた。


「明るくて、活気があって?新庄さん、正直に話して頂かないと、こちらも困るんですよ。私は実際、あの修理場に行きましたけどね、今、10人弱の従業員の方、皆さん悲壮な雰囲気でしたけどねえ。いろいろお話をお伺いしたかったのですが、どなたも口が重いみたいで…。新庄さんには、皆さん明るくお話されるんですかねえ」


「…」

新庄は何も言えなかった。

確かに、立て続けの通夜で精神的に参っていたせいか、最近仲間とろくに話もしていない。


「でね、新庄さん。ちらりと話を聞いたんですけどね、社長さんとあなた、亡くなった今野さんに、恨まれていたようで」


新庄は驚いて思わず声を上げた。

「今野がおやっさんと俺を恨んでただと?バカな、おやっさんも俺も何もしていない!」


「ええ。確かに、何かトラブルがあったなんて話は聞いてないんですよ。ですから、新庄さんに聞いているわけです。何かあったのでは、と」

刑事はあくまで冷静に言った。


「…」

なんでだ、なんで今野が恨みを持つ?リストラから最近までの職場のことを考えても、新庄に思い当たるふしは全くなかった。


 そんな新庄の様子を窺いながら、刑事が口を開いた。

「死に場所に、職場を選んだということは」


刑事の言葉で新庄の頭の中に再びロッカールームが蘇る。


うあああああああっ


頭の中に新庄自身の悲鳴が響き渡る。

新庄は再び頭を抱えた。

そんな新庄を無視して刑事は続けた。


「職場に恨みがあった可能性が極めて高い。何もなかったなんてことはないと思うんですよねえ」


「…だったら…」

新庄が小声で言った。


「えっ?」

刑事が聞き返す。


「だったら、教えてくれ!なんで今野は死んだんだ!あいつに一体何があった!頼むから、教えてくれ!」

立ち上がって掴みかかりそうな新庄を、刑事は押さえて、椅子に座らせ、大きくため息をついた。


「それでは、質問を変えましょう。今野さんが亡くなった日、新庄さんは、早朝に出社していますね」


「…はい」

新庄は静かに答えた。


「新庄さんがその日に限って、そんなに早い時間に出社したのは、何故ですか?まるで、今野さんがいることを知っていたかのように…」

刑事が再び疑惑の目を向ける。


「違う!俺は他の従業員より早く出社しなきゃならなかったんだ!会社が…嫌がらせを受けていて…今野が…」

話せば大事になるかもしれない。だが、もう話すしかなかった。


「嫌がらせ…?それは一体どんな内容で?」

刑事は鋭い眼差しを新庄に向けた。


「…今野が死ぬ前日、俺に何枚かの紙を持ってきた。誹謗中傷の落書きだ。うちの職場のシャッターに貼ってあったらしい。3日前からって言ってた。今野は怯えてて…。だけどそんなもの、誰が書いたかもわからないし、取るに足らないと俺は思った。だが、他の従業員が見たらやっぱり気分が悪いだろうと思って、俺が一番に行って、落書きを剥がそうと思った…」

新庄は俯きながら答えた。


「その落書き…、持ってますか?」

刑事の質問に、


「…ああ。俺のバッグに入ってる」

新庄は静かに答えた。


「新庄さん、バッグの中身出させてもらいますよ」

刑事が真剣な表情に変わる。


「…ああ」

新庄の返事を受けて、刑事は出ていった。


…今野がなんで死んだのか考えたい…

だが、考えようとするとロッカールームの情景が頭に浮かんで狂いそうになる。

それは、新庄が今まで感じたことのない恐怖だった。


「新庄さん、これですか?」

刑事が何枚かの紙を持って戻ってきた。


新庄はチラリと顔を上げて、

「…ああ」

静かに答えた。


「じゃあ、これはこっちが預からせてもらいます。今日はもうお帰り頂いて構いません」


 新庄が解放されたのは、22時を回った頃だった。


 ふらふらと家にたどり着き、家の扉を開けて、新庄は恐怖に襲われた。

ー暗いー

当たり前のことなのに、新庄は明かりをつけるのが怖かった。

明かりをつけたら、今野が見えそうな気がした。かといって、明かりをつけなくても、そこに今野がぶら下がっている気がする。

新庄は、強く目を瞑って明かりをつけた。

ゆっくりと目を開けると、誰もいない。自分の部屋だ。

新庄は身体から力が抜けるのを感じて、部屋に入り、そのままベッドに転がった。

…しばらく明かりはつけたままにしておこう…

そうしないと、家に帰ることができない…

そんなことを考えながら、疲れのせいか、いつの間にか眠りに落ちた。



やめてくれ!!


新庄はいきなり飛び起きた。

身体からは汗が滲み出ている。

その顔は恐怖でひきつっていた。


呼吸を荒くしながら、

夢か…

新庄は時計を見た。寝付いてからまだ20分くらいしか経っていない。

ロッカールーム…あの情景が今見たかのように浮かんでくる。

眠ろうと思っても、目を瞑ると蘇る。

仕方なく、新庄は目を開けた。

…あんな現場に出くわしたんだ、今日眠れないのは当たり前だ。

時間が経てば落ち着くだろう…


 その日、新庄は一睡もできなかった。


 疲れた身体を引きずるように、早朝に出社したものの、例の嫌がらせの中傷は貼っていなかった。

他の従業員が先に来ているのかと思い、事務所に行ってみたが、誰もいない。

ロッカールームは立ち入り禁止になっている。

…ここで自殺者が出たからやめたのだろうか…

不思議に思いながらも、新庄は強い眠気に襲われ、そのまま事務所のソファに寝転がった。



携帯電話の音で、新庄は目を覚ました。

「もしもし」

電話を取って何気なく時計を見ると、13時を回っていた。

…あれ…仕事は…

寝ぼけた頭で考えていると、


「こちら中川警察署です。新庄さんのお電話でお間違いないでしょうか」

女性の声が聞こえた。


「はい」

新庄が答える。


「昨日お話頂きました、今野さんについてですが、自殺と確認が取れましたので、捜査は終了となりました。ご協力ありがとうございました」

事務的な声がする。どうやらアンドロイドのようだった。


「…証拠は?何か見つかったのか?今野はなんで死んだんだ!」

新庄の声が次第に荒くなる。


「捜査に関する一切の情報は開示できません」

アンドロイドは無機質に答えた。


「ふざけるな!」

新庄は電話越しに怒鳴り付けた。


「俺は第一発見者として、昨日1日取り調べを受けたんだ!捜査結果を知る権利があるだろう!」

これで終わりなど納得できない、新庄は思った。


「捜査に関する一切の情報は開示できません。ご協力ありがとうございました」

アンドロイドはそう言って、一方的に電話を切った。


このままで済ませてたまるか…!

新庄が携帯電話をバッグに入れて立ち上がろうとすると、


「新庄…」

ブースの入り口におやっさんの姿があった。


「おやっさん…すみません、俺こんなところで寝ちゃってて…。仕事に来たのに…」

新庄は頭を下げた。


「いや…お前も疲れてるだろうと思って、起こさなかったんだ。それより…今の、警察か?」

おやっさんは心配そうに尋ねた。


「…ああ。おやっさん、申し訳ないが、今日は休みにしてくれないか?俺ちょっと行かなきゃいけないんだ」

新庄はそう言って再度頭を下げた。


「それは構わないが…新庄、お前まだ疑われて…」

おやっさんはむしろ申し訳なさそうに新庄を見た。


「いや、確認しなきゃいけないことがあるんだ。心配しないでくれ。申し訳ない。行ってくる」

おやっさんの不安げな表情を背に、新庄は事務所を出た。


 中川警察署には30分程で到着した。

 任意同行のときは、刑事と一緒に署に入ったが、新庄は気が動転していてそのときのことがあまり記憶になかった。

ひとりで署に入ると、受付にアンドロイドが座っている。その横に扉があるだけで、人間の姿はない。

…アンドロイドを攻略しないと、人間と話ができないのか…。

新庄は少し考えて、受付の前に立った。


「こんにちは。どのようなご用件でしょうか」

アンドロイドに尋ねられた。


「近くの家の庭で人が首を吊ってる。刑事は行ったほうがいいんじゃないか」

新庄は答えた。


「住所を教えてください。警官が急行します」

新庄の予想通りの返事だった。


「住所もわからないし、目印になるようなものがない。だが、この近くだから、管轄はここの警察だろ。恐らく俺が第一発見者だ。同行しよう。不要ならこのまま帰るが」


アンドロイドは数分後に答えた。


「しばらくここでお待ちください。担当者が参ります」


…これで人間の刑事と話ができる。

新庄はアンドロイドの壁を突破した。


 間もなくドアが開いて、中から6人の刑事が出てきた。幸運にも、その中に新庄を取り調べた刑事がいた。


「刑事さん…!」

新庄はその刑事に詰め寄った。


「新庄さん…」

刑事は一瞬足を止めたが、


「申し訳ないが、取り込み中だ」

そう言って、新庄を振り切ろうとした。

しかし新庄はその前に立ちはだかり、


「アンドロイドに通報したのは俺だ。悪いが、事実じゃない。刑事さんに話があるんだ」

刑事を真っ直ぐ見つめて言った。


「新庄さん…。職務妨害ですよ。署から連絡がいっているはずです。今野さんの捜査は終わりました」

刑事はため息をついて中に戻ろうとした。

その腕を新庄は強く掴んだ。


「ちょっと待て…!俺の中では何も終わってない。解決してないんだ!そんな一方的な話があるか?何で今野の自殺は確定した?なんで今野は死んだんだ?なんで!」

今にも掴みかかろうとするかに見える新庄に、刑事は申し訳なさそうな眼差しを向けた。


「それも説明されているでしょう。捜査に関する一切の情報は開示できません」

アンドロイドと同じ返答に、新庄の怒りは爆発した。

新庄は刑事の胸ぐらを掴み、


「ふざけるな!俺はただの同僚じゃない!今野の第一発見者で、まる1日拘束されて、捜査にだって協力した。しかもあいつは不審死で、俺も疑われたんだ!なのに何も聞くことができないなんて、おかしいだろ!俺には話を聞く権利があるはずだ!答えろ、今野は何で死んだ!」

そのとき、刑事の胸ぐらを掴んでいた手を別の手が引き離した。


「新庄さん、落ち着いてください」

50代前半くらいだろうか。体格のいい男性が新庄の腕を下げた。その口調は穏やかで、瞳には刑事らしからぬ温かさが浮かんでいる。


「部長…」

新庄を担当した刑事が声を出した。

部長、と呼ばれた刑事は、新庄を見て言った。


「私は、今野さんの件の責任者でした。担当の者がお答えした通り、捜査に関する情報は開示できませんが、新庄さん及び、新庄さんの勤務されている会社について、一部お話できることはあります。それでいいということであれば、私が対応しますが、如何でしょう」

部長は静かに言った。


これを断れば何も聞けずに終わる…

新庄はそう思い、

「…ああ。話せる範囲でいい」

そう答えた。


 新庄が通されたのは、10人程集まることができる会議室だった。取調室でなかったのは、部長の配慮のように新庄には思えた。


「私は早川と申します。不審死の事件を担当して25年程になります。先ほどは部下が失礼しました。しかし、今は自殺と同じように不審死もまた増加の一途を辿っています。アンドロイドによって、解決速度は上がっているものの、事件はそれ以上に起こっていますから、なかなかお一人お一人に十分な対応ができないこともご理解頂きたい」

部長は静かに言った。

新庄は何も答えなかったが、刑事にこんな温かさを持つ人間がいるのは驚きだった。


「私がお伝えできるお話は、新庄さんの勤務されている会社への嫌がらせの落書きについてです。筆跡鑑定及び指紋から、あの落書きは今野さんの犯行と断定しました」


新庄は思わず立ち上がった。

「今野がやっただと!?そんなバカな。今野がそんなことをするはずがないだろう!今野が会社に恨みがあるはずがないし、それに今野は怯えてた。おかしいだろ!」


 新庄の言葉を受けて、部長は再び口を開いた。

「新庄さん。これは、科学的裏付けに基づいた結果です。落書きは今野さんの自作自演と思われます」


「なんで…。なんでなんだ、今野…」

新庄は力なく椅子に倒れこみ、頭を抱えた。

もう、何がなんだかわからない。


 部長は新庄の様子を静かに見つめ、


「自作自演をして自殺…。私ならこう考えるでしょう。道連れが欲しかった、と」


新庄は驚いて顔を上げた。

部長は静かに続けた。


「これは刑事としての話ではなく、私個人の見解だと理解して頂きたい。今野さんの死に、私は強い恨みを感じます。嫌がらせもそうですが、死に場所に職場を選んでいる。新庄さん、今野さんは自分の落書きを新庄さんにだけ見せた。そして、それだけでなく、今野さんの遺体の第一発見者にもなった。そうですね?」


新庄の頭に再びロッカールームが蘇る。

「…ああ。だが俺は、今野に恨まれるようなことは何も…」

新庄は、頭に浮かぶ今野の遺体に顔をしかめた。


「新庄さん。人間の恨みの感情は、常に正当な理由があると思いますか?逆恨み、お門違い…まして、自ら死を選ぶ人間です。そんなに常識的な判断ができるでしょうか」


「…」

新庄は何も言えなかった。

そんな新庄に、部長は更に続けた。


「新庄さんは、先ほど、何で、と問いかけておられましたが…。何で死ぬのか、新庄さんは、納得できる自殺の理由があるとお考えですか?」


「それは…人生に絶望したり、かけがえのないものを失ったり…。人それぞれだとしても、何もないはずがない、と思うんだが…」

新庄は小声で言った。

言いながら、自分の考えに自信が持てなくなっていた。


「元来人間は生存本能がありますよね。それでも自ら死を選ぶ。本能を超える絶望とはどんなものか。それは、本人にしかわかりません。ですが、当の本人はもういない。何で、の答えは、もう絶対にわからないんです」

部長は窓越しの景色に視線を向けながら言った。


「だから、考えるな、と?」

新庄は俯きながら尋ねた。


「人の死を悼むのはいいでしょう。ですが、死に囚われてはいけない。新庄さんの周りにもまだ生きている人がいるはずです。新庄さんが死に囚われれば、生きている人もまた、巻き込まれることになります」

どこかで聞いた言葉だった。


″優…″

″優が諦めちゃったら、みんな諦めちゃうよ″

理沙だ…。


新庄は無性に理沙に会いたかった。

「刑事さん、俺、帰ります。ありがとうございました」

新庄は深く頭を下げた。


「そうですか…。新庄さん、1度精神科に行かれたほうがいい。気分の落ち込みも不眠も、あるのではないですか。薬が必要かもしれません」

部長は何もかも見通しているかのようだった。


新庄は再度頭を下げ、部屋を出た。


 新庄が署を後にしたとき、既に外は薄暗くなっていた。

陽が短くなった…。それに寒い。

もうすぐ冬になる。

温もりが感じられないこの世界で、皆無事に冬を越えられるだろうか…。

…俺も…。

新庄は自分を包み込むように両腕を身体に回し、帰路についた。


 明かりをつけたままの家に戻ると、それでも新庄は不安になった。

ひとりになるとどうしてもあの日の記憶が蘇る。しかも、新庄に自覚がなくとも、何かの誤解であったとしても、自分を恨んで死んでいったのかもしれない…。


″優…″

理沙ならなんと答えるだろう。

署を出てからずっと理沙と話をしたかった。

今は傍にいてほしい…。

新庄は何度も携帯電話を取り出し、考えては作業着のポケットに戻した。


話をすれば理沙は静かに聞いてくれるだろう。

傍にいてほしいと言えば寄り添ってくれるだろう。

だが…。新庄は思う。


俺は温もりを欲していいのだろうか。

俺は幸せを求めていいのだろうか。


″なんであんたは生きてるのよ!″

″あんたは生きる価値のある人間なの?″


喜びや安らぎを感じているときだけでなく、それらを求める感情が生まれる度に、ひどく罪悪感を感じる自分がいた。


″死に囚われてはいけない。生きている人がいるのだから″ー


その通りだと思う。もしも自分が幸せを望まなければ、結果的に理沙やおやっさんまで不幸にしてしまうだろう。それはわかる。


それでもー

死んでいった者たちの言葉はもう聞くことはできない。

みんなは、俺を恨んでいるだろうか…。

それとも、がんばれと…かつてのように応援してくれているのかー


 今夜も眠れない夜になりそうだった。



 翌朝、玄関のドアの鍵を開ける音で新庄は目を覚ました。時計を見ると8時を回ったところだった。


 眠れないと思っていても、身体は疲れているらしく、時折うとうとしては、首を吊った男が夢に現れて飛び起きる。その繰り返しだった。首を吊った男は、初めの頃は今野だったが、いつのまにかそれは湯川になり、朝比奈になったりした。

夜は、新庄にとって恐怖だった。


 玄関のドアが開く音を聞き、新庄は身体を起こした。


「理沙…」


「優、ごめん、起こしちゃったかな?」

理沙はつけっぱなしの照明にチラリと視線を向けた。


「いや、もう起きなきゃいけない時間だったから…。理沙は、仕事じゃないのか?」

…違う、こんなことを言いたいんじゃない。

駆け寄って抱きしめたい新庄がいた。


「今日はお休みもらったの。優のところの社長さんから連絡もらって…」

理沙は玄関で立ち止まったまま、新庄を見つめている。

このまま理沙の温もりに包まれることができたら、どれだけ救われるだろう…。


新庄はそんな自分の気持ちを隠すように、

「そうか…。緊急連絡先は理沙の携帯電話だったな。とりあえず上がれよ、と言いたいが…俺は仕事に行かなきゃいけないんだ。すまない」

そう言ってゆっくり立ち上がった。


「優…。今日は病院に行こ」

デートしよ、と変わらないトーンで理沙は言った。


「病院?どこか悪いのか?」

新庄は理沙を見た。確かにどこか元気がなさそうに見える。


理沙は一瞬躊躇いの表情を見せたが、覚悟を決めたように言った。

「ううん、私じゃない。優…一緒に精神科に行こう」


理沙のいきなりの提案に新庄は驚いて、

「精神科?俺が?…理沙、俺は何も問題ない」

苛立ちを隠せなかった。


すると理沙は部屋に上がり、新庄の腕を掴んだ。

「ちょっと来て」

そう言ってそのまま新庄を洗面台に連れて行き、明かりをつけた。


鏡を見るのは2日ぶりだった。

鏡に映った自分を見て、新庄は驚きを隠せなかった。


 たった2日で頬は痩せこけ、その瞳は力を失い、半分ほどしか開いていない。無精髭を差し引いても、その姿からは生命力が全く感じられなかった。


呆然とする新庄に、理沙は優しく声をかけた。

「…寝てないんでしょう…?食べ物も…あまり食べてないよね?優が病気なんて思ってないよ。でも、こんな状態で仕事に行っても、みんな心配になっちゃうし…。普通の生活をするために、少しだけ、薬の力借りよ?優…、お願いだから…言うこときいて?」

理沙に後ろからふわりと抱きしめられた。

理沙は震えていた。泣いていたのかもしれない。

新庄自身も、思わず何かが込み上げてきた。

しかし、新庄が涙を流すわけにはいかなかった。


「理沙…、わかったよ」

新庄が言えたのはそれだけだった。



 おやっさんに連絡を入れ、新庄は理沙と精神科に足を運んだ。

3日も仕事ができないことを詫びたが、おやっさんは「少しでも休め」、そう言ってくれた。


 理沙の話では、新庄の家の近くの精神科はどこも予約制で、3ヶ月は待たないと受診できないということで、家から電車で1時間程かかる精神科に行った。


精神科に着いていきなり新庄は驚いた。

まだ診療開始前だというのに、病院の入口から200mはあるような行列ができている。年齢も性別も様々だ。今日中に全員の診察が終わるのだろうか…。そもそも何故精神科にこんなに人がいるのか…。新庄にはわからなかった。


「理沙…。ここに並ぶのか?」

新庄は戸惑いながら尋ねた。


「ううん。優は多分並ばなくていいはず…。ちょっと待ってて」

理沙は病院の方に走っていき、しばらくして戻ってきた。


「優はこっちから入れるから…」

新庄は状況がわからないまま理沙について行った。行列の視線が新庄に突き刺さった。


新庄はほぼ待つことなく診察を受けた。

白髪の痩せた高齢の医師に、ここ2日の話をしただけで、診察は終わった。


「PTSDですね。今は薬で回復しますから、心配はありませんよ。働くことも可能です」


最後の言葉が何となく引っかかったものの、新庄は処方箋を受け取り、理沙と薬局に向かい、アンドロイドから薬を受け取った。


ものの30分で帰路についた新庄だったが、精神科待ちの行列は更に伸びていた。一体これは何なのか、理沙に尋ねようとすると、


「先生は、なんて?」

理沙に逆に尋ねられた。


「あ、ああ。PTSDらしい。回復するし、働けるって言われたよ」

新庄は答えた。


「そう…。良かった。それじゃご飯でも…って言いたいけど、いきなり食べるのも良くないし、雑炊作るから、今日は帰ろう」

理沙は優しく微笑んだ。



 軽く買い物を済ませて家に戻ったのは、ちょうど昼を過ぎた頃だった。

 午前中少し動いただけなのに、新庄はひどく疲れを感じ、部屋に入るなり座り込んだ。

理沙の言った通り、これでは仕事にならなかっただろう。

そんな新庄の様子を視界に入れながらも、


「すぐ作るから、ちょっと待ってて」

いつもと変わらないように理沙は言った。

理沙はそういう女だ。

心配したり、騒ぎ立てるのは簡単だ。だが、理沙は新庄が何かを抱えているとき、ただ黙って一緒に抱えてくれる。言わなくても、聞かなくても、わからなくても、包んでくれる。理沙を守りたい、ずっとそう思ってきたが、今は俺が守られている…。結局、俺が思っていたより俺は弱くて、俺が思っていたより理沙は強いのかもしれない…。

新庄が、死を選んだ者以外の誰かについて考えるのは久しぶりだった。


「お待たせ、食べよ」

理沙が玉子雑炊を持ってきた。


「全部食べなくても、食べられるだけでいいからね」

理沙は皿をテーブルに置いて、自分も座った。


いただきます…、新庄は小さな声で言って、雑炊を一口啜った。

温かさが冷えた身体と心に染み渡る。その温かさは、同時に理沙の温もりであり、″命″そのものだった。

新庄はスプーンを置いて、俯いた。

人の温もりを今日ほど強く感じたことはなかった。こんなにも優しく温かい。

ずっと当たり前だと思っていたものは、かけがえのない、何よりも大切なものだった。

気を抜けば、涙がこぼれ落ちそうだった。


″生きている人がいるでしょう″


刑事さんの言葉を思い出した。

そして、死に囚われていると言われた意味を新庄はようやく理解した。


「…優…?やっぱり食欲ない?」

理沙が心配そうに新庄を見る。


「…いや、うまいよ。理沙…ありがとう」

それ以上言えば泣いてしまいそうだった。

新庄は再びスプーンを手に取り、食べ始めた。


「そう…良かった。ゆっくりでいいからね」

理沙は新庄を見て微笑んだ。

理沙の声、表情、その全てが新庄を優しく温めた。


 そろそろ食事も終わろうかという頃、新庄は先程精神科で見た行列を思い出した。


「理沙、さっきの精神科は、なんであんなに行列ができてたんだ?それに、俺は並ばなくていいって、どういうことだったんだ?」

新庄は理沙に尋ねた。


理沙は少し困ったような表情を浮かべ、

「そっか、優は最近ニュース観る時間なんてなかったよね…。今精神科はどこもあんな感じなの。並んでる人はみんな、″働けない″って診断書を貰うのが目的で…。精神疾患が認められれば、生活保護が受けられるから…」

どこか悲しげに答えた。


「生活保護…。だけど、どこの精神科もあんなんじゃ、みんながみんな認められるわけじゃないだろ?みんな生活保護になっちまったら国の財政だって破綻するだろうし…」

新庄は言った。


「一昔前ならね、″死にたい″とか、″眠れない″とか言えば、診断書書いてくれる医師もいたんだろうけど。今は血液検査で全部わかっちゃうからね。そんな簡単には認められない。それでも、並んでる人たちにとっては最後の手段なんだよね、生きるための…」

そう言って理沙は口を閉ざした。


…なんとか生きる道を模索している者たちがいる。生活保護は彼らにとって最後の砦なのか…。だとしたら、それが叶わなかったら…。

再び新庄の表情が険しくなる。

そんな新庄を心配して、


「優。食べ終わったら、薬飲んで。私片付け済ませちゃうから」

理沙が話題を変え、食器を片付け始めた。


「ああ、ごちそうさま。うまかったよ、本当に…」

新庄は心の底から理沙に感謝しつつ、医師から処方された薬を飲んだ。


理沙が後片付けを終えて戻ってきたとき、既に新庄はうとうとし始めていた。どうやら即効性のある薬らしい。


「優、眠い?薬が効いてるかな。今日は寝たほうがいいよ。横になって」

理沙が促した。


新庄は薄れ始めた意識の中で、思わず本音が漏れた。

「眠ると…、今野が…、湯川が…、怖いんだ。俺は恨まれて…」


理沙がどんな表情で新庄の言葉を聞いていたのかはわからなかった。理沙はただ黙って、新庄が横になるのを助け、自分は横に座り、新庄の手を握った。


「優…。もう怖い夢は見ないよ。大丈夫、大丈夫だよ…」


 半分眠りに落ちていた新庄に、遠くから理沙の声が聞こえていた。


″優…。大丈夫、ずっと私が傍にいる…″


″優…。愛してる…″


″優…、優…″


その言葉は段々と遠ざかり、新庄は安心の中で眠りに落ちた。



 新庄が眠りに落ちていたまさにその時、国会でまたも重大な憲法改正法案の最終議論が行われていた。

現代社会における自殺者の急増及び、生活保護受給者の急増による国家財政圧迫の問題を解決すべく、日本国憲法第25条、生存権に新たな条文が追加されようとしていた。


「死ぬ権利」である。


日本国憲法第25条、″生存権″は、″生存権と死ぬ権利″と改正され、


″本人の明確な意思表示がある場合は、安楽死を認める″


との条文が追加される。


年の瀬が迫りつつある中、この法案は全会一致で可決された。






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