第6話 ウェルテル効果

 その日は雨だった。

 暑い日が一体いつまで続くのだろうと思っていたが、急激に気温は下がり、季節は秋を感じさせないまま、冬になろうとしているようだった。


 新庄は喪服姿でおやっさんと待ち合わせ、2人で傘を差して歩いていた。

おやっさんは何も言わず、うつむいて歩いている。

その姿からはかつての威勢のいい男気のあるおやっさんは想像ができなかった。


…あっという間に老け込んじまった…

白髪も増えて…

心なしかひとまわり小さくなったような…


新庄は思ったが、おやっさんに何も声を掛けることができなかった。


「俺も行きます。一緒に行かせてください」


新庄が言えたのはあのときのこの言葉だけだった。

新庄自身も辛かった。だが、おやっさんの気持ちを考えれば、自分が辛いなどとは決して言えない気がした。

もちろん他の仲間たちも行きたいと口を揃えた。しかし、おやっさんはこれを制した。


「お前らの気持ちはわかる。だけど行かないほうがいい。ここは、俺と新庄に任せてもらいたい」


おやっさんのこの言葉で、仲間はそれぞれの思いを抑え、生活すら困難な薄給の中から心ばかりの金を出しあい、香典として新庄に託した。


 おやっさんと新庄がその場所に着いたとき、すでに21時を回っていた。


″湯川家 通夜会場″


おやっさんは看板の前で立ち尽くし、雨の中しばらくそれを見つめていた。

新庄もまた、今目の前にある、これが現実なのだと思い知らされた。


 仲間たちのリストラが決まったとき、新庄は彼らの雇用を獲得するため、毎日他の修理場や工場に出向き、頭を下げた。

しかし、もはや業界全体が労働力をアンドロイドに求めるようになっており、リストラを進める工場はあっても、人間の雇用を検討するところは皆無だった。

結局新庄は、未だにただひとりの雇用さえ見つけることができずにいた。

…あるいは地方なら…

新庄が全国的に雇用を探し始めた矢先に、恐れていた悲劇は起こった。


「おやっさん…時間も遅いし、入らないと…」


看板の前で立ち尽くしているおやっさんを促して、2人は受付を済ませ、中に入った。


 敢えて遅い時間を選んだため、会場に人はまばらだった。職場を離れた仲間の姿も見えない。

 気にかけている仲間の姿がないことに、どこかで安堵している新庄は、そんな自分に強い嫌悪感を覚えた。


 今にも倒れそうに力なく歩くおやっさんに、新庄は寄り添うように歩き、そのまま焼香台の前まで進んだ。

おやっさんと新庄の前に幸せそうに笑うひとつの家族の遺影が飾られている。

子どもの誕生日だろうか。ケーキを前にして真ん中に子どもが笑っている。その少し後ろから、奥さんと子どもを抱きしめるように腕を回し、優しく微笑んでいるのはー


…湯川…!

新庄は一礼するのも忘れて遺影にくぎ付けになった。


ずっと誰にも死んでほしくないと思っていた。人の命を守りたかった。だからこそ、HCFを作って活動したり、仲間の就職先を探したりしてきた。

 人は死んだら終わりだ。生きてこその人生だろう。生きてさえいれば、いいことだって、幸せを感じる瞬間だってあるはずだ。

だが、それは新庄にとって死というものがどこか遠く、現実味のないものだったから思えたことだ。現実は、綺麗事ではない。

 同僚の一家心中は、新庄に人間の絶望を見せつけた。絶望した人間が希望を持てるはずがない。


絶望…

新庄は動揺し、一歩前に出ることができなかった。焼香することも忘れていた。


 そのとき、横ですすり泣く声が微かに聴こえた。ふと見ると、おやっさんが遺影を見つめながら涙を流している。

黙っていたらずっとそのままそうしていそうだった。


「おやっさん、お焼香を…」


新庄が静かに声を掛けたときだった。


 不自然なほど長い時間その場に立ち尽くしていた2人に、家族席から眼差しが向けられた。

そして、ひとりの年配の女性が席を立ち、新庄らに歩み寄ってきた。

その姿はやつれ、髪は白髪で真っ白だった。


「あなたは…圭介が働いていた会社の社長さんよね」


どれだけ泣いたのだろう。その瞳は真っ赤に染まり、腫れているようだった。

しかし、瞳の奥には憎悪とも思える怒りで満ちており、全身を震わせている。


「このたびは…」

おやっさんは声を震わせながら口を開いた。


「このたびは、なんですか?うちの息子をクビにした人間が、こんなところまでなんのご用で?」

湯川の母親の声もまた、怒りで震えている。


「おい、よさないか」

同じく白髪のやつれた男性がこちらに歩み寄り、母親を制した。恐らく喪主の湯川の父親だろう。


「いいえ。いいえ、あなた。言わせてください」

母親は制止を振りきって続けた。


「うちの息子は、職場でなんの役にも立たない給料泥棒だったの?働く価値もないと?」

母親はおやっさんに詰め寄った。


「いいえ!いいえ、そんなことは…。湯川…湯川さんは非常に腕のいい職人で…人望も熱く…」

おやっさんは震えながら必死で答えている。


「だったら…だったらなんで、息子はクビになったの?なんでクビにしたのよ!なんで!」

母親は声を荒げた。それは、行き場のない感情の行き場を見つけたかのようだった。


 その言葉に反応するように、おやっさんが崩れ落ちた。膝をついて、そのまま床に頭を擦り付けた。


「申し訳ありません…申し訳ありません…!」

涙を流しながらおやっさんは訴えた。

悲しみか、あるいは恐怖か…。

土下座したおやっさんの身体はぶるぶる震え、訴えながら後退りしていた。母親は更におやっさんに詰め寄った。


「申し訳ありませんって、なんなの?うちの息子は、孫は、生きる価値もないっていうの?あなたが…、あなたが圭介をクビにさえしなかったら、こんなことにはならなかった!返して…返してよ!息子を、孫を、嫁を!」

母親は泣き叫んでいた。

新庄は母親の言葉に、面影に、湯川を感じた。湯川も多分そう思って…。そのときだった。


″新庄、お前は残れ。残っておやっさんを支えるんだ″

湯川の声が聴こえた気がした。


 次の瞬間、


「申し訳ありません!私が…私がいけないんです!」

おやっさんの隣で、新庄もまたひれ伏した。


「新庄、止めないか」

おやっさんが声を掛ける中、再び母親が口を開いた。


「新庄さん…と言ったかしら。あなたは、うちの息子より仕事ができるっていうの?生きる価値があるっていうの?なんであなたは生きて…うちの息子たちは死んで…なんなのよ!」


新庄は頭を上げることができなかった。

2人はただただ土下座しながら申し訳ありませんと繰り返した。


「…殺人よ」

母親は言った。


「息子は…、圭介は、自殺なんてしない。あんたたちが殺したのよ!人を3人も殺して、なんであんたたちは生きてるのよ!あんたたちが死ねばいいじゃない!!」

母親がそう言ったときだった。


「もう、いいだろう」

父親が半狂乱になっている母親を制して、親族に母親を外に出すよう促した。


 母親が会場を出るのを見届けると、頭を下げたままの2人に顔を戻し、


「頭を上げてください」

静かに声を掛けた。


ゆっくりと頭を上げる2人に向かって、父親は言った。


「家内が大変失礼しました。ただ、私たちが失ったものは余りにも大きく、理不尽であり…。あなた方を責めるのもまた、お門違いなことかもしれません。ですが…申し訳ないですが、お引き取りください。これ以上悲しみに触れてしまうと、家内もあのような状態ですから…」


 父親が見ている前で、新庄はゆっくり立ち上がり、座り込んだままのおやっさんを抱き起こすようにして立たせ、深く一礼した。

そして、


「おやっさん、行こう」

おやっさんを支えるよう歩きながら、会場を後にした。


降り続く雨の中、新庄はおやっさんを支えるため、傘も差さずに歩き出した。

そのときだった。


「優…」

後ろから声が聴こえた。


振り向くと、黒髪のロングヘアーのスリムな女性が傘を差して立っていた。


「理沙…なんでここに…」


「気になって、職場に行ったら優はここにいるって聞いて…」

理沙は不安げに新庄を見つめた。


「そうか…。俺はおやっさんを送っていかなきゃならないから、俺の家で待っててくれないか。あと…悪いが、タクシー代が欲しいんだ。このまま濡れたらおやっさんが身体壊しちまう」


「うん。ちょっと待ってて」

理沙はそういうと、タクシーを呼んで2人を乗せ、おやっさんの家を経由して、新庄の家に行くようアンドロイドに告げた。


「いや、俺は歩いて帰るから、おやっさんの家まででいい」


「そう…」

理沙は金額を聞いてアンドロイドに支払った。


「理沙、悪いついでに、ウィスキーを1本買っておいてくれないか。安いのでいいから」


「うん…」

理沙が不安げに見つめる中、タクシーは走り出した。



「湯川は、優秀な職人だったよな…」

タクシーに乗って多少落ち着いたのか、おやっさんが小さな声で呟いた。


「…ああ」

新庄もまた、小声で返した。


「それに、みんなに好かれてたよな…。本当なら、会社の未来を背負っていくはずだったのに…」

おやっさんは独り言のように続けた。


「…そうだな」

…考えればつらくなる。だが、この状況で気持ちを切り替えることなどできるはずがない。

新庄はただおやっさんの言葉に耳を傾けていた。


「俺は…、俺はどうして、上の人間にもっと食い付かなかったんだろう…。湯川はすごく優秀で、会社にとってかけがえのない人材で、リストラなんてできないって。なんで説得しなかったんだ…。もっと何かできたはずだ。結局、俺が湯川を追い詰めて…嫁さんと子どもまで…」


「おやっさん、ちょっと待ってくれ!」

おやっさんの中で話が変わっている。ショックが大きすぎてどこかが壊れてしまっている。新庄はおやっさんの危うさを知った。


「おやっさん、思い出してくれ。おやっさんはリストラに必死で抵抗したじゃないか。だけど、会社はアンドロイドを入れるって…。そんなこと、おやっさんだって、俺だって、他の奴らだって、みんな反対したじゃないか。おやっさんがいたから救われた俺みたいな奴だっているんだ。あのとき、おやっさんは精一杯がんばってくれただろ」

新庄は説得するように言った。


「アンドロイド…。あんな無機質なもの、どこがいいんだ…。人間たちで話をして、知恵を出しあって、何かを乗り越えて、絆が生まれて…。それが働く意欲に繋がるんだ。アンドロイドと働いたって、おもしろくも何もない…」


「確かに…そうだな…」

とりあえず話が切り替わったことに安堵しつつも、不安を拭い去ることはできなかった。

もしまたおやっさんが哀しみに包まれたら…


「目的地に到着しました」

アンドロイドが口を開いた。


 2人は車を降り、新庄は、肩を落としたままとぼとぼと歩くおやっさんが玄関に入っていく後ろ姿を見送った。


 雨は勢いを弱めながら降り続いている。

 新庄は傘も差さずに歩き始めた。


″あなたは生きる価値のある人なの?″


″お前は残っておやっさんを支えてくれ″


″あんたたちが殺したのよ″


様々な言葉が頭に浮かんでは消えていく。


″アンドロイド…。あんなもの…″

おやっさんの言葉は、いつしか新庄自身の声で頭の中に響いていた。



 新庄が家に着いたのは、日付が変わる頃だった。

築25年になる、2階建て8室ほどのアパートだ。

 外階段を上がって一番奥が新庄の部屋だった。

 鍵を開いてドアを開けると、部屋には明かりがついていた。


「優…」

理沙が玄関に駆け寄ってきた。


「理沙…来てたのか…」

新庄は僅かに顔を上げ、声を掛けたが、視線はどこか遠くを見ているようだった。


「えっ?さっき…」

理沙は言いかけたが、


「…あ、うん…。優、傘は…」

もう付き合って5年になる。しかし、理沙はこんな新庄を見たことがなかった。


 新庄は何も応えず部屋に入った。

 6畳のワンルームの中の小さなテーブルにウィスキーのボトルが置かれている。


「酒…そうだ。さっき頼んだな。悪かった」

理沙に向けられている言葉は、しかし、独り言のようだった。

新庄はそのまま座り込み、ボトルを開けようとしていた。


「グラス…持ってくるから」

理沙はすぐにグラスを持ってきたが、それより早く、新庄はボトルのまま飲み始めていた。


「優…先に着替えないと…。風邪引いちゃうから…」

理沙は酒を買ってきたことを後悔していた。さっき会ったときは社長さんがいたから、気を張っていただけなんだ…迂闊だった。


新庄は理沙の声が聞こえないかのように、黙って飲み続けた。

理沙はそんな新庄の隣に座り、


「優。着替えよ。喪服、クリーニング出すから、ね」

その言葉に、新庄は反応した。


「喪服…足りないな…。2着…いや、3着…」


「えっ?」

理沙は目を見開いて新庄を見つめた。


「それに香典…車売るか…」


「ちょっと…!優!戻ってきて!」

理沙の叫びに近い声で、ようやく新庄は顔を上げ、理沙を見つめた。


「理沙…」


「優、さっきからおかしいよ、喪服とか香典とか…。そんなに準備しないよ!いきなりそんなふうに呑むから酔うんだよ!」


「理沙…。俺は、酔ってもないし、冷静だ」

新庄は静かに応えた。


「だってそんな。毎日お葬式にでも行くつもりなの?」

ようやく会話が成立したことに、いくらか落ち着きを取り戻して、理沙は言った。

 だが、新庄の返事は理沙の想像を超えていた。


「…ああ。通夜も葬儀も、これから日常だ」


!?

言葉を失う理沙に、新庄は続けた。


「ウェルテル効果…知らないか?」


「ウェルテルって…?」


新庄はボトルを煽って答えた。


「ゲーテだよ。自殺は、連鎖する。始まったんだ、俺たちのところで。もう…止められない」

真正面の壁を見つめる新庄の瞳には何が見えているのか、理沙にはわからなかった。


「…でも、そんな!優はいつも、諦めなければって…」

理沙の言葉は新庄に遮られた。


「理沙、すまない。今日はひとりにしてくれないか。今の俺を…見ないでくれ」

新庄は再び俯いた。


「優…」

新庄の置かれている状況を完全に理解できたわけではない。だが、今新庄の傍にいることは、新庄を傷つけるだけだ、落ち着いたら話をしよう…理沙は決めた。


「また…来るから」

そう言って理沙は部屋を後にした。



 新庄が新しい喪服を着たのは、それから僅か3日後の夜だった。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る