六章 別れの贈り物 ③
「――行ってしまったよ」
立ちすくむハデスに向かって投げられたヘカテの声音には、常にない苛立ちがにじんでいた。
見送らないつもりでいた。
だが、別れがたい思いに引き止められて、ハデスは隠れてペルセポネを乗せた馬車が去っていくのを見届けていた。
その側に、いつの間にか現れたヘカテがたたずんでいた。
ヘカテはたっぷり嫌味を込めた言葉を吐き捨てる。
「坊や、あたしは期待してたんだけどねぇ。
これであんたも少しマシになるんじゃないかって、あんたにもあのお嬢ちゃんにもね」
「…………」
「たった一人、いなくなっただけで、こうもこの世界がだだっ広く寂しいところになるとはね……ま、元に戻っただけと思えば、どうってことないか」
「…………」
「ったく……なんとか言ったらどうなのさ?」
挑発的なヘカテの物言いに、一言も返すことなく、ハデスは館の中へと姿を消した。
固く閉ざされた扉に向かって、ヘカテは盛大に悪態をつく。
「この甲斐性なし!」
館の中は、奇妙なほど静かで薄暗く感じられた。
その館の廊下を影を引きずって進み、ハデスは自室に帰り着く。
扉を開けて、ハデスはその場で動きを止めた。
そこでは、エリニュスたちがそろっていて、いつかのように花を飾っていた。
「……何をしている」
「花を活けております。我が主のために」
「なぜ……」
「ペルセポネさまがそう望まれました。
この館に、花の香りを絶やさぬようにと」
――館の中に、いつもお花があるようにしたいんです。
耳にそのときの声が、目の前にそのときの笑顔がよみがえってくる。
あまりにも鮮やかによみがえるペルセポネの姿に、ハデスの胸は締めつけられるように痛んだ。
「……下がれ」
その面影を打ち払うように、ハデスは顔を背けて冷ややかな声音で命じた。
エリニュスたちは従順に、ハデスに向かって一礼すると、音も立てずに退室していった。
後にはハデスと、控えめに飾られた花だけが残される。
テーブルの上に飾られた、その純白の花びらをした水仙に、ハデスは指先でそっと触れた。
「仕方のないことだ――」
自身に言い聞かせるような独白が、部屋の静寂の中に空しく響いて消える。
花は咲いても、いずれは散ってしまうのだから。
いつか心に開いた花も、今はもう色あせて花びらを散らしてしまったのだから――。
* * *
デメテルの神殿、懐かしい我が家に帰り着いて、ペルセポネとデメテルは寝椅子に寄り添い合って座ったまま、随分と長い間沈黙していた。
ペルセポネは長い、長い話を母に語り終えて、もうあとは母の答えを聞くだけになってしまったので。
デメテルは娘の話を胸に受け止めかねて、煩悶に耐えることに必死になってしまっていたので。
エレウシスの野を見渡せる大きな窓の開かれた部屋の中で、母娘は並んで座り、夕陽に照らされ輝く赤に染め上げられた大地を見つめて、ずっと黙ったままだった。
「……どうしても、決意は変わらないというの?」
ようやく、デメテルがそう言った。
波打つ感情を必死に押さえ込んでいる声音に、ペルセポネは母の横顔を静かな眼差しで見つめた。
そして、落ち着いた、けれど思いを込めた声で、もう一度、答えを求めて尋ねる。
「お母さま、私、自分の心にうそはつけない。
私の胸にあることは、全部お母さまに打ち明けました。
……許しては、いただけない?」
「許すことなど、できはしないわ」
「お母さま……」
「こんなこと、ひどい策略……卑怯な謀に捕まって、あなたの心は惑わされてしまった。
あの男がそう仕向けた、これは罠だというのに」
「お母さま」
ペルセポネはわき起こる感情に震えているデメテルの手を、自分の両手で包み込むように握った。
じっと、窓の外を見据えていたデメテルの視線が、ゆっくりとペルセポネへと向けられる。
悲しみ、苦悩をたたえて揺れているデメテルの眼差しを、ペルセポネは真摯に、真っ直ぐに受け止めて見つめ返した。
言葉に表しきれない思いが、触れ合った手、見つめ合った瞳からなら伝わるのだろうか。
デメテルは、視線を外すと、まぶたを閉じて弱々しい声でつぶやく。
「……でも……」
逡巡し、再びの沈黙の後、デメテルはか細い声でつぶやくように言った。
「……でも、ハデスはあなたを、真実想っているのね」
「はい」
「そして……あなたも」
「はい」
「……私にあなたを縛ることはできない」
恋い慕う相手との別れの苦しみを味わわせることなど、できない。
その苦しみを知るのは、自分だけでいい。
デメテルはまぶたを開けて、ペルセポネの顔を見つめた。
その目にはまだ悲しみがたゆたっていたけれど、その心はひとつの答えを決めたのがはっきりと見て取れた。
ペルセポネは細腕を伸ばすと、デメテルの身体をしっかりと強く抱きしめる。
「お母さま、ありがとう……大好き」
そうはっきりとデメテルの耳元にささやいて、ペルセポネは最後に母の胸に顔を埋めるようにして抱きついた。
そして、名残を惜しみながらも立ち上がると、衣の裾をひるがえして、寂しさを振り切るように部屋を駆け出していった。
その後ろ姿を呆然と見送って、デメテルは胸を押さえながら視線を窓の外へと向けた。
その視線の先には、夕日に染まった大地、そしてその彼方にそびえる霊峰オリュンポスがある。
デメテルは胸に残った愛娘の体温と、それと共に胸に移った熱っぽい感情に戸惑いながら、オリュンポス山を見つめて独白する。
恋など、もう必要ないと思っていたのに。
「……ゼウス、あなたの言葉が正しかったというの……?」
* * *
ハデスは平らな岩の上に腰掛けて、足元に伏せたケルベロスの背をなでていた。
地に伏せたケルベロスは、前足の間にあごを落として、あからさまに意気消沈した様子で気怠そうに蛇の尾で地面をはいている。
「……お前も寂しいだろう」
ハデスの言葉に、ケルベロスは上目遣いで同意を示し、か細く鼻を鳴らした。
あの乙女はもういない。
この地下の世界に二度とあの光が差し込むことはない。
朗らかな風が吹くことも、花の香りが漂うこともないのだ。
地下世界は真の闇で閉ざされてしまった。
ハデスは目を伏せ、胸に残る輝く微笑みを思い返す。
この面影だけが、これから先の永遠の糧となるのだ――。
不意に、力なく寝ていたケルベロスの耳がぴんと立ち上がる。
近づいてくる足音に気づいたケルベロスは勢いよく立ち上がると、太い尾を振って、やって来る人影に向かって吠え声を上げた――うれしそうに。
怪訝そうにケルベロスの視線の先を見やったハデスは、驚きに目を見開いた。
いるはずのない姿が、軽やかに駆けてくる。
「――ハデスさま!」
可憐な声と姿に、ハデスは幻を見ているのかと自分を疑った。
だが、白い衣の裾をひるがえして、息を弾ませて自分に向かって駆けてくるのは、地上に帰ったはずのペルセポネだった。
「ハデスさま、よかった、すぐにお会いできて」
「……どうして……」
生き生きと輝く笑顔を向けられて、ハデスは困惑しきってそれ以上言葉が出てこない。
ペルセポネは弾んだ息を整えると、真剣な眼差しでまっすぐにハデスを見つめた。
「ハデスさま、私、どうしてもお話ししたいことがあって。
あの、これ……」
言って、ペルセポネは手に持っていた石榴の実を示す。
「甘酸っぱくて、おいしかったです」
「――食べた、のか?」
頬を上気させてうなずくペルセポネに、ハデスは思わず絶句する。
「なぜ……」
「冥府の掟のことは聞きました」
「知って、それでも食べたのか」
「はい。私、たくさん考えたんです。
自分がどうしたいのか、どうしたらいいのか」
息継ぎをして、ペルセポネは悩み考えた末の答えを言葉にする。
「私はお母さまを大切に思っています。
地上の命も尊いもので、彼らが苦しむのを見過ごせません。
でも、同じくらい私は、ハデスさまのことも大切なんだと気づいたんです」
ペルセポネはあまりのことに言葉もないハデスに向かって、ひたすらまっすぐに想いをつむいだ。
「私、あなたが好きです」
頬を染めて言われた台詞に、ハデスの鼓動が大きく跳ね上がる。
「私はハデスさまが好きです。
この地下の世界も大好きです。
ずっとこの世界で、あなたと一緒にいたいんです。
ハデスさまが私のことをそう想ってくださっていたように」
永遠に共にいたい――その想いを込めて贈った石榴の実だった。
一言も言葉にしなかった想いは、確かに相手に伝わっていたのだ。
それを知らされて、今更ながらハデスの顔がほのかに赤く染まる。
「だけど、地上でお母さまと暮らすか、地下でハデスさまと暮らすか、私にはどちらかなんて選べなかった。
だからたくさん考えて、お母さまともちゃんとお話しして決めてきました」
固唾をのんで、ケルベロスが二人の様子を見守っている。
ペルセポネは微笑んで、ハデスに一歩近づいて言った。
「ハデスさま、お母さまは一年の三つの季節の内、ひとつの季節分は地下で暮らして構わないと、お許しくださいました。
その間は、ハデスさまと一緒にいられます」
ペルセポネはじっとハデスの瞳を見つめて待った。
だが、ハデスが何も答えずただ見つめ返してくるだけなので、不安に駆られてペルセポネはハデスの顔をのぞき込むように見た。
「あの、だめですか?
いつも一緒にいることはできないけど、これならいつまでも一緒にいることができるんです。
やっぱり、いつも一緒じゃないとだめですか?」
「いや……だめではない……」
ようやく沈黙を破って、ハデスはそう答えた。
緑の瞳を瞬かせるペルセポネを見つめながら、ハデスは柔らかな微笑みを浮かべて言った。
「言葉が、すぐに出てこなかったのだ……」
「ハデスさま?」
「その……あまりにうれしかったものだから」
そう言うと、ハデスはペルセポネの前にひざまずく。
驚くペルセポネの手を取って、ハデスは真摯な眼差しを向けて言った。
「……私から、言わせてもらえるだろうか。
今更かもしれないが、改めて」
ハデスの言葉に、ペルセポネははやる胸を抑えてうなずいた。
ハデスは、一度目を閉じる。
深く息を吸い、ゆっくりと吐いて――おそらくペルセポネ以上に、その胸は高鳴っているのだろう。
深呼吸をして、再びハデスは目を開けると、真っ直ぐにペルセポネの瞳を見つめて言った。
随分と長く言わなかった言葉、言えずにいた言葉を。
「――ペルセポネ」
「はい」
「私はそなたを愛している……心から。
この気持ちを、受け入れてもらえるだろうか」
「はい、もちろんです」
「私の妃に、なってくれるか?」
「……はい!」
つぼみにも似た顔の乙女は、その顔に大輪の笑顔を咲かせて、ひざまずく冥府の王に抱きついた。
その華奢な身体を受け止めて、ハデスはおずおずと、そして優しく自分の胸に抱きしめた。
主を祝福するケルベロスの威勢のいい吠え声が、地下世界中にこだまとなって響き渡った。
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