六章 別れの贈り物 ②



 白い木漏れ日が揺らめいて、さやかな葉ずれの音と共にペルセポネの頭上に降りそそいだ。


 エリュシオンの地、かつては巫女だったという白ポプラの木の元に、ペルセポネは三度、やって来ていた。


 柔らかな木の根元にしゃがみ込んで、幹に背をあずけて溜息をつく。

 頭の中で、絡み合ってほどくことのできなくなった糸玉が、悩み考えるほどに大きくなっていくのだった。


 悩みも心配事も、今までペルセポネは抱いたことはなかった。

 初めて胸に生まれた大きな悩みにペルセポネは戸惑い、そして迷っていた。


 帰らなければいけない――そうわかってはいたのに、ヘルメスに答えることができなかった。

 帰らなければ、そう思った瞬間、ペルセポネの心に浮かんだのはハデスの寂しそうな横顔だった。


 思えば、地下にやって来てから、地上のことを思い返したことはなかった。

 忘れてしまっていたのだろうか。

 確かに、地上がどんな様子か、デメテルがどうしているのか、そのことに思いをいたしたことはなかったのだ。

 地下世界で過ごすときは穏やかで、靄々あいあいとしたハデスの支配下にあることを心地よく感じていた――そのせいだろうか。


 ヘルメスはそうとは言わなかったが、きっとデメテルは怒っているのだと、ペルセポネは察していた。

 黙っていなくなったあげく、何日も行方知れずでいたのだから当然だろうと思った。


 母に会いたいとは思う。

 会って謝らなければ、と。


 だが――ペルセポネは抱えた膝にあごを乗せて、また小さく溜息をついた。


「レウケ……」


 白ポプラの梢を見上げて、ペルセポネはその名を口に出してみる。

 呼びかけても答えてくれるものではないと、わかっていても呼びかけずにはいられない。

 彼女はもう木になってしまったのに。

 言葉をかけても答えてはくれない、触れても何も感じはしないのに。


 かつてはハデスに仕える巫女だった人。

 人間の身で、冥府に下りることにためらいはなかったのだろうか。

 地上に家族も友人もいただろうに。

 その全てと別れて、たった一人で見知らぬ世界へやって来ることに、悩みはしなかったのだろうか。


 自分はこんなにも迷って、答えを見つけられずにいるのに、彼女はどうやってその胸に答えを見出したのだろうか。

 なぜ、それほどの決断ができたのだろうか――。


 かすかに草地を踏む足音に、ペルセポネははっと我に返って、音のした方に視線を向けた。

 見ると、ハデスが静かな眼差しでペルセポネを見つめ、白ポプラの元へとやって来るところであった。


「ハデスさま……」


 慌てて立ち上がったペルセポネに、ハデスは手に持っていたものを差し出した。


「これを、そなたに」

「これは?」

「石榴の実だ。ようやく実った」

「私にくださるのですか? ありがとうございます」


 差し出された細い一枝に、朱色の実がついている。

 ペルセポネは無邪気に微笑んでそれを受け取った。


 枝になった石榴の実は、厚い皮が裂けていて、中に並んだ透き通る赤い種子がつやつやと光っている。

 食べてみたいと言ったことを覚えていたくださったんだろうか――ペルセポネは素直にうれしそうな表情を浮かべて、ハデスの顔を見上げた。


「とてもきれい……宝石みたいですね」

「……ヘルメスから、話は聞いたか」


 唐突にそう切り出されて、ペルセポネは瞳を瞬かせた。

 戸惑うペルセポネの言葉を待たずに、ハデスは淡々とした調子で続ける。


「長く引き止めてすまなかった……デメテルが待ちかねている。

母の元に帰るといい」

「ハデスさま――」

「すぐに馬車を用意させる。館の部屋で待っていてほしい」

「私――」


 ハデスは端的に用件だけ告げると、ペルセポネの言葉も聞こえていない様子できびすを返す。


 その後に少し遅れてペルセポネも続いた。


 足取りは重く、黙々と先を歩いていく背に、声をかけたいのだけれど言葉が浮かんでこない。


 胸がきしむように切なくなって、ペルセポネはうつむいてまぶたを震わせた。




 冥府の館の前に、二頭の黒馬につながれた馬車が引き出される。

 ハデスが手綱の具合を確認しているところへ、館の中からヘルメスが現れた。


「ハデスさま」

「彼女は?」

「もう間もなくいらっしゃいますよ」


 ヘルメスの言葉にうなずくと、ハデスは手綱を渡して言った。


「彼女を送ってくれ」

「……いいんですか? ご自分で行かなくても」


 ハデスは黙って首を横に振ると、そのままどこへ行くとも告げずに館の前から歩き去ってしまう。

 悄然と立ち去る後ろ姿に、ヘルメスは手綱を握りしめて溜息をつく。

 見送りもしないつもりらしい。


「……ヘルメス神」


 呼ばれて、ヘルメスは館を振り返る。

 館から出てきたペルセポネが、手の中に石榴の実を大切そうに持ってたたずんでいる。


「支度は整いましたか?」

「はい……ハデスさまはどちらに」

「出かけてしまわれました。

僕が地上までお送りしますよ」


 ヘルメスがそう言うと、ペルセポネは緑の瞳に影を落としてうつむいてしまった。


 うつむいた視線が手に持った石榴の実を見つめていることに気づいて、ヘルメスはペルセポネに尋ねた。


「それ、どうしたんですか」

「ハデスさまがくださったんです。

エリュシオンに実った石榴なんです」


 ヘルメスは目を瞬かせ、そしてハデスの不器用さに気づいて微苦笑を浮かべる。

 これが今あの王にできる、精一杯の想いの告白なのだろう。


「ペルセポネさま、お手をどうぞ」


 ヘルメスが差し出した手に、ペルセポネは自分の手をおずおずと重ねた。

 ペルセポネが馬車に乗り込むのに手を貸しながら、ヘルメスは微笑んで言った。


「ペルセポネさまはご存知ですか、冥府の掟を」

「掟? それはもしかして」


 首をかしげるペルセポネに、ヘルメスはうなずいて言った。


「死者の国の食べ物を食べた者は、地下の世界で永遠に暮らさなければならない、というものですよ」


 ヘカテからも聞かされた掟だ。

 ヘルメスの言葉に、ペルセポネは手の中の石榴を見つめた。

 艶やかに赤く輝く、ハデスからの贈り物を。


「……どうしますか、ペルセポネさま」

「私……」


 答えあぐねてうつむいてしまったペルセポネの横顔を一瞥して、ヘルメスは馭者台に乗り込んだ。


「出発しますね。ちゃんと座っていてください」


 ヘルメスが慣れた動作で手綱を取ると、二頭の馬は力強く馬車を引いて歩き出した。


 後ろに流れていく地下世界の風景を、ペルセポネは振り返った。

 すでに遠ざかってしまった冥府の館がひどく懐かしく思えて、また胸がきしむように痛み出す。


 私はどうしたいのだろう――ペルセポネは手の中の石榴の実を見つめて、自分の胸に問いかける。

 赤い石榴の種子はハデスの深紅の瞳と重なって見えて、胸に切なく熱いものがこみ上げてくる。


 母の元に帰らなければならない。

 地上を冬のまま閉ざしてはおけない。

 わかっているのに、だけど、という思いもまた去来する。


 ハデスさま――別れのあいさつもできなかった相手に、ペルセポネは思いをはせる。

 ハデスが胸の内を明らかに語ってくれたことはなかった。

 今、手の中にある彼からの贈り物が、その語られなかった想いの全てだと、ペルセポネは気づかないうちに悟っていた。


 今、この世界を去ったら、二度と彼には会えない。

 そうして彼は、優しい孤独を胸に秘めて、心を閉ざしたまま地下の王としてあり続ける、永劫。

 それでいいのだろうか? 

 彼も、自分も――ペルセポネの心は、この期に及んで定まらない想いに揺れ動いた。


 どちらかなんて、選べない――。


「――ペルセポネさま」


 ヘルメスの声に、ペルセポネははっと我に返る。


「見えてきました。もうすぐ地上に出ますよ――」


 眼前に差し込んできた久しぶりに見る日の光に、ペルセポネは涙の浮かんだ瞳を強く閉ざした。


   * * *


 待ちかねた馬蹄の響きに、デメテルは洞窟の入り口へと駆け寄った。

 洞窟から駆け上がってきたヘルメスが手綱を取る馬車の上に、久方ぶりに見る愛娘の姿を確認して、デメテルは思わず歓喜の声を上げた。


「ペルセポネ――」


 母の呼ぶ声にペルセポネはうつむけていた顔を上げる。

 デメテルの姿を見留めると不意に懐かしさがこみ上げてきて、馬車の上から身を乗り出した。


「お母さま!」

「ああ、ペルセポネ、よくぞ無事で……」


 ヘルメスが手を貸そうとするのももどかしい様子で、デメテルは両腕を伸ばして馬車の上からペルセポネの華奢な身体を抱き下ろした。


「ペルセポネ、よく帰ってきてくれたわね。

今まで怖い思いをしたでしょう、かわいそうに……」

「お母さま、勝手にいなくなってごめんなさい……」


 ペルセポネの言葉に、デメテルは首を横に振ると、しっかりと胸に娘の身体を抱きしめた。


「いいのよ、こうして帰ってきてくれたんですもの。

さあ、一緒に神殿に帰りましょう。二度とどこかへ行ってしまってはだめよ」


 そう言って、早々に神殿に帰ろうとするデメテルを、その衣の袖をつかんでペルセポネは引き止めた。


「待って、お母さま」

「ペルセポネ?」

「とても大事なお話があるの――」


   * * *

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