五章 白ポプラ秘話 ③



 エリュシオンの船着き場に戻り、冥府への帰りの道程、カロンの操る船に揺られながらペルセポネは物思いに沈んでいた。


 川辺の風景は薄暗く、静かだ。

 寡黙な渡守が櫂を操って立てる水音と、船にぴたりとついてくるエリニュスの羽音以外に聞こえるものもない。

 静寂が、ペルセポネの胸の思いをかき立てる。


 結局、エリュシオンに出かけてみても何もわからなかった。

 ただ、自分が仲間はずれになっているということがわかっただけで。


 ヘルメスが古い昔話と言っていたのは、何のことなのだろう。

 誰に尋ねれば、その昔話を教えてもらえるのだろう。

 古い昔話、そんなことを知っているのは――。


「アレクト――」


 ペルセポネは虚空に向かって呼びかける。

 その脳裏に、不意にある人物が思い出されていた。

 きっと、彼女なら――。


「お呼びですか」

「アレクト、私、もう少し行きたいところがあるのですが、案内してもらえますか」

「はい、もちろん。どちらへご案内いたしましょうか」

「ヘカテさまのお屋敷に。お話を聞きたいんです」




 案内されたヘカテの館は、彼女らしくこぢんまりとした造りだった。


 だが中に入ってみると、こざっぱりとした内装の室内は物があふれていて、ペルセポネはその雑然とした有様に呆気にとられた。

 きれいに磨かれた水晶玉、大小さまざまな壺、鍵のかかった箱、不思議な絵が刺繍されたタペストリー、奇妙な色の織物、不気味な生き物の剥製……それらが棚に収まりきらずに、机の上、床にまで散乱して足の踏み場もない。


 そんな雑多な物にあふれた部屋の中に立って、ヘカテはさばさばとした笑みを浮かべてペルセポネを出迎えた。


「やあ、いらっしゃい。来てくれてうれしいよ。

ま、どこでも好きなとこにお座んなさいな」


 言われて示された椅子の上には古書が積み上げられ、古びたカードの束が崩れて散らかっていた。

 ペルセポネは古書の山を抱えて床に移動させ、手早くカードをまとめて机の上に片づけてから、ようやく落ち着いて椅子に腰を下ろした。

 ヘカテはその向かいに、織物の山の中からもう一脚、椅子を引きずり出してきて座り、笑った。


「悪いね、あたしは片づけが嫌いでさ」

「いえ……突然うかがって、こちらこそすみません」

「いいのさ、おいでと言ったのはこっちだし。

大したもてなしもできないけど……何かおまじないでもしてやろうか? 

お嬢ちゃんになら、特別価格で割安にしとくよ」

「おまじないも興味があるんですけど……私、ヘカテさまに聞きたいことがあって」


 おもむろに切り出されて、ヘカテは片眉を跳ね上げてペルセポネを見つめた。


「なんだい、改まって」

「エリュシオンの白ポプラのことをご存知ですか」

「…………」

「あの木、とても特別な感じがします。

ハデスさまがエリュシオンを案内してくれて、あの白ポプラを見たとき、様子が少しおかしいようでした」

「へえ、ハデスも迂闊うかつなこと。触れられたくないことだろうにねぇ……」

「アレクトに聞いても教えてくれないのです。

ヘルメス神に聞いても、ただ昔話とだけしか……。

だから、ヘカテさまならきっとご存知なんじゃないかと思って。

教えてもらえませんか、あの木のこと」

「聞いてどうするんだい?」

「えっ……」


 ヘカテの紫の双眸が光って、挑みかかるようにペルセポネを見据える。

 一瞬、ペルセポネがひるんだのを笑って、しかし眼差しをゆるめることなくヘカテは言った。


「知りたがりのお嬢ちゃん、知られたくないから話さないんだとは思わないのか? あんたに知られたくないこと、話したくないことのひとつくらい、あの坊やにだってあるだろうに」

「それでも……知りたいと、私は思うんです」

「なぜ?」

「ハデスさまのことを、もっとちゃんと知りたいと……ただ、そう思うから……。

秘密があるのは、何だか壁を作られてるみたいで、寂しいんです」

「ふん……子供っぽい理屈だが……。

けど、まあ……お嬢ちゃんが単なる興味本位の、冷やかしで言ってるんじゃないってことはわかったよ」


 言って、ヘカテはペルセポネから視線を外すと、椅子に斜めに座り直す。

 裾からむき出しになるのも構わない様子で足を組むと、どこか遠くを見つめるような眼差しをして言った。


「まあ、いいだろう。話してあげるよ。

あれはティタノマキアの決着がついたばかりの頃の話。

後味の悪い、大昔の思い出話さ。

ハデスの初恋……そして、失恋の話」


 初恋、失恋――その言葉にペルセポネの鼓動が大きく跳ねた。

 一瞬、痛いほどに跳ね上がった胸を押さえて、ペルセポネはヘカテの横顔を見つめた。

 そうして、ヘカテはペルセポネに語りはじめた。

 芝居がかった口調で語られる昔話に、ペルセポネはじっと耳を傾ける。


「昔むかし、あるところに、一人の年若い巫女がおりました。

彼女ははとても敬虔な巫女でしたが、自分の仕える神を敬うあまり、いつしかその神に恋をしてしまいました。

しかし、巫女は地上に暮らす人間。

その神とは遠く隔てられた世界で生きておりましたので、姿を見ることも言葉を交わすこともできず、ただ毎日、神への想いをつのらせておりました。

あるとき、そうした日々に耐えられなくなった巫女は、とうとう神に祈りを捧げました。

たとえ人でなくなっても構いません、永久に側にいさせてください、と」


 ヘカテの語る未知の物語に、ペルセポネはただ黙然として聞き入っていた。

 ヘカテは歌うようになめらかに、言葉をつむいで語っていく。


「神は巫女の願いを聞き届けました。

神もまた、巫女を恋していたのです。

そうして、巫女は神の世界に招かれました。

だがしかし、そこは不死の神々の住まう国。

人である巫女の生命は、たちまちのうちに尽きてしまいました。

それを悲しんだ神は、巫女の亡骸を一本の木に変えました。

そうして巫女の想いは叶い、木に姿を変えて永久に神の側に在り続けることができました。

めでたし、めでたし……これが、あの白ポプラの物語さ」


 しんと、部屋の中が一瞬、静寂に支配される。

 それを破ったのは、ペルセポネの唇からこぼれた震える溜息だった。


「……悲しいお話ですね」

「悲しいと思うかい? 巫女の願いは叶ったのに」

「でも……想う相手が、言葉を交わすことも触れ合うこともできない姿になってしまったら、やっぱり悲しいです」

「なら、お嬢ちゃんならどうする?」

「私?」

「恋した相手と離ればなれのまま、互いに想いだけを持ち続けるか。

それとも、たとえ感情も言葉も持たない木石ぼくせきになっても、恋した相手の側に存在するか」

「私は……どちらかなんて、選べません」

「……レウケはねぇ」


 ヘカテは、ふと視線を部屋の片隅に向けて、独り言をつぶやくように話しはじめた。


「その巫女、名前をレウケといった……あの人間の巫女さまはね、とても大人しい娘だったよ。

物静かで口数も少なくて、けど、眼差しが雄弁に語りかけてくるような娘だった。

いつも控えめな微笑みを浮かべて、静かに風景の中にたたずんでいた。

おてんばなお嬢ちゃんとは大違いだねぇ」

「ヘカテさまは、その巫女をよくご存知なのですか」

「ま、少しね。

短い間だったけど、一緒にこの冥府に暮らしたからね……気になるのかい?」


 含みのある言い方で聞かれて、とっさに答えられずに、ペルセポネは口ごもってしまった。

 ヘカテは小さく笑うと、机に頬杖をついて言った。


「レウケは大人しい娘だったし、坊やもあんな感じだろう。

二人はいつも一緒にいたけどね、何にもしゃべらずにただ寄り添い合っているだけ、なんてこともしょっちゅうだったよ。

それで何が楽しいんだか……けど、そうしているときの二人はとても満ち足りた顔をしていて、冥府に漂う冷たい霧まで、そのときばかりは柔らかくなったもんさ。

いい娘だったよ、レウケは。

優しくて情の深い……けど、身勝手な娘だった」

「身勝手……?」


 不意にヘカテの声に冷ややかな棘を感じ取って、ペルセポネは思わず聞き返してしまっていた。

 ヘカテは表情は変えずに、ペルセポネの瞳をじっと見つめて言う。


「そうは思わないかい? 

生命短い人の子の身で冥府にやって来て暮らそうなんて、いくら恋する想いのためとはいえ、あんまり考えなしで身勝手だとは思わないかい」

「そんなことは……想いは、尊いものだと思います」

「お優しいこと。

お嬢ちゃんは同情しているんだねぇ、レウケにも坊やにも……ああ、悪いね。

お嬢ちゃんの相手をしていると、物言いが意地悪くなってしまう。

お嬢ちゃんが素直でお人好しなもんだから、ついね」


 そう言ってヘカテは謝ってみせたが、その赤い唇は笑みの形にゆがんでいた。

 含みのある言葉、挑発的な笑み――ペルセポネの胸に、針で刺し貫かれたような痛みが走る。

 痛みが胸にじわりと広がって、今まで感じたことのない暗い感情がその中ににじむ。


 表に出ようとするその感情をこらえて、ペルセポネはことさら強くヘカテの笑みを見返した。

 ヘカテの唇の端がつり上がる。


「恋は身勝手なものさね。

その身勝手を許す坊やもお嬢ちゃんもお優しいこと」

「……まるで、優しいことが悪いように言うんですね」

「そう聞こえたかい」

「はい……」

「そうだねぇ……誰かを傷つけるもの、苦しめるものは悪だろう? 

かつての初恋、その相手を亡くし、失った恋……ハデスはずっと昔に傷つき、その傷に今も苦しめられてる。

それは優しさのせいなのさ、ハデス自身のね。

だから、優しいことは悪いのさ」

「私は……そうは思いません」

「たとえ苦しめられても、その優しさを認めると? 

そこから生まれる想いも恋も、尊いと?」

「その苦しみが、報われることがあればいいのではないですか? 

その優しい想いが報われれば――」

「お嬢ちゃんにはそれができるのかい?」

「私……?」


 たたみかけるように問われて、ペルセポネは大きな瞳を見はった。

 ヘカテは机にぐいっと身を乗り出して、ペルセポネの顔を間近に見据える。

 笑みの消えた顔で、底光りする紫の双眸で、ヘカテはささやきかけるように言う。


「お嬢ちゃん、気づいているかい? 

自分が今まで、どれだけの想いを坊やから受け取ってきたか。

坊やの優しさを受けてきたか。

エリニュスが姿を見せないのはなぜだ? 

あんたを恐がらせないよう、坊やが気を回したからだろう。

お嬢ちゃんは冥府の食べ物を口にしたことはあるかい? 

ないだろう。あんたの食事は、ヘルメスがオリュンポスから持ってきているからね。

なぜそんな面倒なことを? 

冥府の掟のためさ。

冥府のものを食べた者は、冥府の住人にならねばならない……その掟でお嬢ちゃんを縛らないために、坊やはわざわざ地上の食べ物を届けさせている」


 ハデスがその気になれば、何も知らないペルセポネを冥府に縛りつけておくことなどたやすい。

 永劫、地下の世界に閉じ込めて、想う相手を二度と地上に帰さないでおける。

 けれど、ハデスはそんな手段は取らない、決して。


「他にもきっと、もっと坊やはあんたに心を砕いているはずだ」

「知りませんでした……私……」

「そうだろうね。

それがハデスの優しさ。決して相手に気づかせない」


 そう言って、ヘカテは紫の瞳を伏せて、足元に向かって溜息をつく。


「地上の連中は皆、冥府の支配者を恐れる。

坊やはそれでいいと思っている。

自分を恐れて近づいてこなければ、傷つくことも傷つけることもないから、と。

それが坊やの孤独、優しさで、弱さだ」


 ヘカテはまた小さく溜息をついて、ほんとのところは、と言葉を続けた。


「ハデス自身が自分の力、神としての力、存在を恐れているのさ。

恋するあまり、人間の娘を自分の領域に引き込んで、結果、彼女の命を縮めてしまったこと……自分が、他に与える影響を恐れている。

だから、ハデスは冥府の使命にかこつけて地上と関わろうとしない。

レウケのときと同じ思いをしないように」


 冥府の王は多くのものを受け入れる。

 だが、自身は何も望まず、何も受け取らない。


「それは……寂しいです」

「なら、どうする? お嬢ちゃんに何ができる? 

お優しいだけが取り柄の、無知で無力なあんたに」


 どうする? と重ねて問いかけられて、ペルセポネは言葉につまった。

 ヘカテの問いの返す答えがとっさに出てこない。

 言葉は出ないのに、言いようのない思いがこみ上げてきて唇が震えた。


 もどかしさに突き動かされてペルセポネは席を立ち上がる。

 こみ上げてくるものをこらえて唇をかみしめ、そしてペルセポネはそのまま、後も見ずに部屋から駆け出してしまった。


 あいさつもなしに去っていくその後ろ姿を見送らず、ヘカテはじっと石のように座り続けていた。

 部屋の中にひりつく空気が満ちる。

 重たい静寂を、虚空から呼ばわるアレクトの更に重々しい声が破った。


「ヘカテさま……」

「エリニュス、追いかけてやらないと、大事な女神さまが行ってしまうよ」

「…………」

「怒ったのかい? 

けど、誰かが言ってやらなきゃいつまでも変わりゃしないよ、あの坊やもお嬢ちゃんも。

あんたたち配下連中じゃ、意見もできないだろ。

こういうときのために、あたしはここにいるんだと思ってるけどね」


 床に視線を落として、ヘカテは静かな口調でそう言った。

 その声に、呵責の思いがにじんでいるのを感じ取って、アレクトは一瞬、出かかった言葉を呑み込んだ。

 そして、しばらく沈黙してから、感情を押し隠した声音で一言つぶやく。


「……我が主には、ペルセポネさまのような方が必要です」

「そうだね……あたしたちじゃ、ハデスの心を慰められない。

ここからは、あのお嬢ちゃんに期待するしかないね……」


 独り言のようにつぶやかれた言葉に、アレクトが虚空でうなずく気配がした。

 翼の羽ばたく音が、ペルセポネの後を追って遠ざかるのを背に聞きながら、ヘカテは物憂げに溜息をついた。

 冥府の王は魂の孤独を知る。

 その心を理解し、共感し、寄り添ってくれる相手がいたならば。

 それがあの心優しい乙女であったなら――。

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