五章 白ポプラ秘話 ②
さらさらと風に鳴る葉ずれの音に耳を傾けながら、ペルセポネは真っ白な幹に身をもたれさせた。
エリュシオンの野にたたずむあの真っ白な木の元に、ペルセポネはやって来ていた。
どうしてもこの木のことが気になって、じっとしていられなかったのだ。
渡守のカロンに頼むと、老人は無言でここまで渡してくれた。
エリニュスはいつもと変わらず姿を見せることはなく、ただ羽音でその存在を知らせながら、ペルセポネのかたわらにつき従っていた。
ペルセポネは草の上に腰を下ろし、白い木の幹に背をあずけてぼんやりと頭上を見上げる。
この木はすみずみまで雪のように白いが、幹に触れるとほのかにぬくもりが感じられた。
こうして木に寄り添っていると、まるで血の通った人の肌に触れているような心地がする。
ペルセポネは木漏れ日に透ける白い葉のまぶしさに目を細めながら、あの哀しげな眼差しを思い出していた。
ふと、その耳に葉ずれとは違う音が舞い込んできた。
それが鳥の羽ばたきのように聞こえて、ペルセポネは茂る枝の向こうに目をこらす。
「あ、ヘルメス神――」
サンダルについた翼を羽ばたかせて、木々の上を駆けていたのはヘルメスだった。
ペルセポネが声を上げると、ヘルメスもすぐに気づいて、軽やかな身のこなしで空から地面に降り立った。
「やあ、ペルセポネさま。
こんなところで会うとは、奇遇ですねえ」
青いマントをひるがえして、ヘルメスは白々しく笑った。
ペルセポネは知りようのないことだが、ヘルメスはペルセポネを探してここまでやって来たのである。
ハデスとペルセポネ、二人きりで出かけて距離を縮め、ようやく第二関門突破――というところで、どうもハデスの様子がおかしい。
想う相手と二人きり、楽しいデートのその翌日ともなれば、余韻に浸って気分も浮き立つのが普通だろうに、そんなそぶりは微塵も見られない。
何かあったのか、と尋ねてみれば、何もない、と突っぱねられる。
そんな様子で、何もないわけがない。
一体、昨日は何があったのか、何かまずいことでもやらかしたのか、まさかペルセポネにふられたのでは――よからぬ憶測がヘルメスの脳内を駆け巡り、いても立ってもいられなかった。
しつこくハデスに追いすがり、事の次第を聞き出そうとした。
が、沈黙を決め込んだ冥府の主は、押しても引いても、なだめても脅しても頑として口を開かない。
神殿にまで乗り込んで、うっとうしがられながらも粘ってみたが無駄だった。
結局、見かねた三判官に、ヘルメスは神殿の外へとつまみ出されてしまったのである。
しかし、それであきらめるヘルメスではない。
なんとしてでもデートの子細を聞き出してやろうと、次の行動に移った。
ハデスがだめならペルセポネに、話を聞いてみようというわけである。
そんなことはつゆ知らず、ペルセポネは無垢な瞳でヘルメスの言葉にうなずいた。
「本当、ここでヘルメス神に会うとは思いませんでした。
ここへはよく来られるのですか?」
「ときどき、地上からの使いでやって来ますよ。
ペルセポネさまは、ここで何をしていらしたんですか」
「私は……ハデスさまのことを考えていました」
がさっ、と少し離れたところで枝葉を伸ばしているオリーブの茂みが、唐突に風もないのに音を立てて、ヘルメスは一瞬、怪訝そうにそちらに視線を向ける。
ペルセポネはそれには気づかなかった様子で、ヘルメスに視線を向けたまま小首をかしげた。
「ヘルメス神はこの木のことを知っていますか?」
「この木……ああ、白ポプラですね」
「白ポプラ……」
「地上にはない木ですから珍しいでしょう。
このエリュシオンに、一本しかない木ですからね」
「特別ないわれがきっとあるんでしょう?
ヘルメス神はそれを知っていますか?」
「それは……まあ、知っているような、知らないような……」
真っ直ぐな視線で見つめられて、ヘルメスはらしくなく、あからさまに目を泳がせて言葉を濁した。
目線をそらされてペルセポネは、まただ、と思った。
アレクトに尋ねたときと同じ、見えない壁を感じた。
自分だけが知らない、触れてはいけない何かを、アレクトもヘルメスも知っている。
「やっぱり、それは聞いてはいけないことなんですね……」
「いけないというか……僕が勝手に話すわけにはいかないと思うので……。
まあ、この木にまつわるとても古い昔話がある、とだけしか、僕の口からはお話しできませんね」
ヘルメスの言葉に、ペルセポネは何か考え込む様子で白ポプラの木を見上げた。
そのペルセポネの様子、そして今朝のハデスの様子を思い出して、ヘルメスの疑問は解決していた。
白ポプラの木、たった一本しかない木。
とても古い昔話、大昔の失恋。
心の傷、秘められた想い、忘れ得ぬ面影――それらが、ハデスの心を思い悩ませ、ペルセポネに向かう想いをためらわせているのだ。
ヘルメスはちらりとオリーブの茂みに目を向けると、わざと声を大きくしてペルセポネに尋ねる。
「ペルセポネさま、ずばりお聞きしますが、ハデスさまのことをどう思われますか」
「どう……?」
「好きとか、嫌いとか」
「もちろん好きです」
オリーブの茂みが動揺したように音を立てて揺れる。
なんのてらいもなく言われた一言に、ヘルメスは心の中で歓声を上げた。
「優しくしてくださるし、とても親切ないい方だと思います」
続く台詞に、ヘルメスの歓声は切なくしぼんだ。
いい方――この「好き」は、すると恋愛感情と見るのは尚早だろうか。
ヘルメスはこっそり、憐憫の眼差しを明後日の方へ向けた。
「……私、この地下の世界の様子は何だか、ハデスさまのお心そのもののように思えるんです」
ペルセポネがそっとつぶやくように言った言葉に、ヘルメスは目を瞬かせた。
「それはどういった意味で……」
「私、初めてこの地下の世界に来たとき、とても静かで寂しい場所だと思いました」
冷たい霧が漂い、硬質な岩肌の壁が続く、暗闇に閉ざされた世界。
音も光も届かない、孤独で物寂しい地下の王国。
「でも、地下にも花の咲く風景があることを教えてもらいました。
アスポデロスの咲く野もこのエリュシオンも、温かくて優しい場所です。
死者の方たちが、とても穏やかな顔つきをしていて、私も気持ちが落ち着くのを感じました」
白い花の咲く野原が、どこまでもどこまでも続いていく。
地上でどんな生を送った者でも、等しく受け入れる穏やかで静粛な地。
誰一人拒まれることなく、生を終えた者はその地にたどり着き、その地にさまよう。
「あの地に満ちる優しさは、ハデスさまの心の有様が、そのまま表れているのだと思ったんです。
ハデスさまはあの地を統べ、死者の方たちを守っていらっしゃるから――」
地下の世界でハデスと過ごすときは、不思議と心が落ち着き、何事もなく穏やかに過ごすだけで、満ち足りる気持ちになった。
地下世界はハデスの有様そのままだ。
冷たく、どこか恐ろしげに見えるものの内側に、隔てのない優しい心を持っているのだと。
だからこそ、ペルセポネは気にかかってしまうのだ。
そんな優しい心の持ち主が、あんな哀しげな傷ついた眼差しで、何を見つめ、何を思っていたのかと。
ふと、微笑むヘルメスの視線に気づいて、ペルセポネは白い頬を薄紅に染めた。
つい心のままに思っていたことを語ってしまっていたと気がついて、急に恥ずかしくなったのだった。
「すみません、私、おしゃべりで……」
「いえいえ、何だかうれしいですよ」
「え?」
「知らないうちに、ハデスさまのことを随分理解されたんですね」
きょとんとするペルセポネに、ヘルメスはただ微笑みを返すだけでそれ以上のことは言わなかった。
「お話しできてよかったです、ペルセポネさま。
さあ、そろそろ戻らないと、渡守が待ちくたびれている頃かもしれませんよ」
ヘルメスに言われて、ペルセポネは慌てて立ち上がると、衣の裾をひるがえして森を駆けていった。
その後を、エリニュスの羽音がつき従っていく。
去っていく後ろ姿を見つめながら、ヘルメスは白ポプラの根元に腰を下ろして独りごちる。
「いやー、意外。ちょっとかっこいいなあ、ペルセポネさま。
……そう思いませんか、ハデスさま」
ヘルメスはオリーブの茂みに呼びかける。
茂みが揺れて、その陰から気まずそうな表情を浮かべたハデスが現れた。
「……気づいていたのか」
「そりゃ、まあ……ていうか、そんなところで何してたんですか」
ヘルメスの問いに、ハデスは顔を背けて答えない。
おそらく、偶然にはち合わせてしまったのだろう。
出てきて声をかければよかったものを、機会を逸してずっと隠れていたらしい。
ヘルメスはおかしそうにハデスを見やって、軽い口調で言った。
「かくれんぼは一人でするものじゃないですよ」
「……そういうわけでは……」
首を横に振って、ハデスは白ポプラに歩み寄る。
ハデスの手が、遠慮がちに真っ白な幹に触れた。
「レウケ――」
ハデスは白ポプラに向かって呼びかける。
まるで慕わしい人に向かって、その名前を呼びかけるように。
その声に応えるように、梢がさらさらと涼やかな音を立てて揺れた。
物言わぬ木、その葉ずれの音が何かを語りかけてくるように思えるのは、心にその人の面影がまだ生きているせいからなのか――。
ヘルメスはわざと視線を頭上に向けて言った。
優しさ故に傷ついて、その傷が癒えきらないでいる神が、今また泣いているかもしれなかったから。
「ハデスさま、落ち着いたら早めに館に戻ってくださいね。
あなたの姿が見えないと、きっとペルセポネさまが心配してしまいますから」
そう言い置いて、ヘルメスは軽く地面を蹴ると、サンダルの翼を広げて鳥のように宙へ舞い上がった。
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