五章 白ポプラ秘話

五章 白ポプラ秘話 ➀




 その木は、枝を真っ直ぐに天に向かって伸ばしている。


 幼子が、つかめるはずのない雲をつかもうと空に腕を伸ばすように、真っ直ぐに。

 その木は、しみひとつなく白い。

 地面に張った根、それに支えられた幹、そこから伸びる枝も茂る葉も。

 真っ白な幹から伸びる真っ白な枝は細い。

 かすかな風にも頼りなくそよぐほど。


 風が吹くたび枝がそよぐ。

 白い木の葉の奏でる音が、風に乗ってさやさやとたなびく。

 葉ずれの音は、しとやかなささやきのように耳をくすぐる。

 密やかな睦言のように胸をなでゆく。

 木がささやく。かすかな声で、呼んでいる。


 語りかけてくる。

 きれいな白い木。


 その木に、影のように寄り添ってたたずむ者がいる。

 葉ずれのささやきに、じっと耳を傾けて、自身はただ黙ったままで。

 黙然とたたずんで、その人影は、真っ白な幹に手を触れる。

 おずおずと、しかし愛おしむように。

 ――幾度か、自分の手を取ってくれたその手が。


 黒衣をまとって、木のかたわらに寄り添うさまはまさに影。

 ささやきかけてくる木の声に耳を澄ませ、影は不意に頭上に茂る枝葉を見上げた。

 深紅の双眸――真っ白な梢を見上げるその瞳を、薄く影が覆っていた。

 磨いたルビーのような美しい赤が、陰り、沈んでいるのはなぜなのか――。


 その意味が、ペルセポネにはわからなかった。




 寝台の上に仰向けになったまま、ペルセポネは起き抜けのかすむ目で、ぼんやりと部屋の天井を見つめていた。

 頭の中が夢の余韻に覆われていて気怠い。


 夢――ペルセポネは夢を見ていた。

 まばたきをして、視界を晴らしながらその夢を思い出す。


 真っ白な木を見ていた。

 エリュシオンで見つけた、あの白い木だった。

 夢の中でも、木は風に枝葉を揺らしてささやくような音を奏でていた。


 そして、ハデスがいた。


 木のすぐ側に寄り添って、たたずんで、白い幹に触れるのをペルセポネは見ていた。

 その眼差しが、影を宿して暗く沈んでいるのも――。


 ペルセポネはのろのろと寝台の上に身を起こす。

 不思議な夢だった。

 ただの夢だったはずなのに、なぜか胸が重しをのせられているように苦しい。


 あの影に覆われた瞳、たった一人でたたずむ姿が頭の中に焼きついてしまった。

 目の前に浮かんでくるその姿に、息がつまって胸が切なく苦しくなる。


 ペルセポネはその重苦しさを、深呼吸で紛らわせようとした。

 息を吸い、吐いて――その拍子に、頬に雫が伝った。

 気づかないうちに、ペルセポネは涙を流していた。

 驚いて瞬きをすると、また緑の瞳から涙がこぼれ落ちる。


 ペルセポネはなぜ自分が泣いているのかわからないまま、呆然と指先で頬に触れた。


「おはようございます。お目覚めですか?」


 次の間から扉越しにかけられた声に、ペルセポネの心臓はびくりと飛び上がった。

 慌てて目と頬を手のひらでこすって泣いていたことをごまかす。

 扉越しに見えるはずはないのだけれど、涙の跡をかき消して、ことさら朗らかに返事をしてみせた。


「おはよう、アレクト。今日も来てくれたんですね」

「務めですので。支度はおすみでしょうか?」


 エリニュスたちとの扉越しの会話も、もうすっかりなじみのものとなっていた。

 今では相手の姿が見えないことも気にならなくなって、扉も壁もないもののように、自然と言葉を交わすことができる。


 ペルセポネは鼓動を落ち着かせながら、次の間に向かって返事をした。


「今、支度しますね。少し待っていてください」

「はい。どうぞごゆっくり」


 ペルセポネは手早く着替えをすませると、鏡の前に座って髪を整えはじめた。

 くしで丁寧に栗色の髪を整える、その合間にも夢で見た場面がふっと思い出されて、鏡に映った自分の背後にエリュシオンの風景が見えたようにさえ思えた。


 真っ白な木――あの森の中にもエリュシオンの他の場所にも、同じ木は見当たらなかった。

 たった一本だけ、森の中にひっそりとただずんでいて。

 だから、きっと特別な木なのだろう。

 何か特別ないわれのある――。


「アレクト、聞いてもいいですか」

「なんでしょうか」


 冥府の住人であるエリニュスなら、あの木が何か知っているだろうか。

 そう思って、ペルセポネは扉の向こうに控えているアレクトに向かって声をかけた。


「昨日、ハデスさまが不思議なところに案内してくださったんです。

舟に乗って川を下ったところにあって、白い花のたくさん咲いているきれいな場所で」

「アスポデロスの咲く野ですね」

「ええ。

それから、エリュシオンにも連れて行ってくださったんです。

とてもすてきなところだったので、私、少しはしゃいでしまって……」

「そうですか。

お気に召したのでしたら、我が主もお喜びでしょう」

「なら、いいのですけど……それで、そのエリュシオンの森で、真っ白な木を見つけたんです」

「…………」

「何か特別な雰囲気の木だったんです。

アレクトはあれが何の木か知っていますか?」


 答えはすぐにはなかった。

 ペルセポネの質問に、常によどみなく返答していたアレクトがはじめて言葉を途切れさせた。

 返答を逡巡しているような沈黙に、ペルセポネは戸惑って扉を見つめる。


「アレクト?」

「……我が主は、何もお話しにはならなかったのですか? その木について」

「ええ……ハデスさまからは、特に何も……」

「では、私の口からは申し上げることはできません。

きっと、我が主の意に添うものではないでしょうから」


 きっぱりとした口調に断固たる意志を感じて、ペルセポネは口をつぐんだ。

 胸の中に、つかみどころのない靄のような疑問が、ふくらんで広がっていく。


「聞いてはいけないことだったのですか?」

「申しわけありません」


 アレクトの答えになっていない返答に困って、ペルセポネはまた口を閉ざしてしまう。

 言わない、ということはやはり、聞いてはいけない、ということなのだろうか。

 意に添わない、というのはどういうことなのだろう。

 疑問が広がり、胸の内がもやもやとして晴れない。

 もっと尋ねてみたいが、主に忠実なエリニュスから答えを引き出すのは難しそうな雰囲気だった――その雰囲気に、ペルセポネは壁を感じた。


 ペルセポネはそっと鏡台にくしを置く。

 鏡に映した自分の姿はきちんと整っている。

 裏腹に、心の中はすっきりとはしないままペルセポネは立ち上がる。

 そして、次の間の扉に向かって、


「お待たせしました。支度、できましたよ」

「では、本日のご予定をお伺いいたします。

どちらへお出かけになりますか?」


 いつも通りに事務的な口調での質問に、ペルセポネは考え込む。

 あの木、ささやきかけてくる葉ずれの音が、耳の奥によみがえる。

 どうして、こんなにも心惹かれるのだろう。

 目の前にあの木の真っ白な姿がちらついている。


 そして、ハデス――あの瞳、傷ついた赤い瞳、影のように寂しげな姿。

 どうして、こんなに気になるのだろう。


「アレクト、私、エリュシオンにまた行ってみたいです」


 思い切って口にしたペルセポネの希望に、しかしすぐには返事がなかった。

 沈黙してしまった扉を不安そうに見つめて、ペルセポネはおずおずと問いかける。


「あの……だめ、ですか?」

「……いえ。ペルセポネさまのご希望を叶えるのが我らの務め。

そして、我が主の命ですので」

「連れて行ってくれるのですか?」

「はい、お望みとあれば。

よろしければ、すぐにお出かけになりますか?」


 アレクトの言葉に、ペルセポネは素直に表情を輝かせた。


「はい! よろしくお願いしますね」




 二頭の黒馬がひく馬車が、車輪の音を響かせて走っている。

 冥府の神殿に向かっていく馬車を天井から見つけて、ヘルメスはサンダルの翼を羽ばたかせると、駆ける馬車を追いかけた。


「ハデスさまー!」


 追いついて、ヘルメスは手綱を取るハデスの隣に舞い降りた。

 図々しく馭者台に乗り込んだヘルメスは、にんまりとした笑みを向けてハデスに尋ねる。


「ハデスさま、いかがでしたか、首尾は」


 ヘルメスの顔に、押さえきれない野次馬根性が、にやにやとした笑みとなって浮かんでいる。


 昨日、二人きりで出かけていったハデスとペルセポネ――そのデートの結果が気になって仕方なく、ヘルメスは朝一番に館を訪ねていったのだ。

 だが、いつになく早くハデスは館から出かけてしまっていたので、慌てて後を追ってきたというわけだった。


 ヘルメスの期待満々たる表情には一瞥もくれず、ハデスは黙々と馬車を走らせている。

 そのハデスの沈黙に気づかずに、ヘルメスは獲物を見つけた猫のようににじり寄りながらまた尋ねる。


「ペルセポネさまは喜んでくださってましたか? 

きっとお二人共、楽しく過ごしたんでしょう? 

どんなことをお話ししたんです? 

もったいぶらずに教えてくださいよ、ハデスさま~」


 何とかネタを引き出してやろうと、ヘルメスは嫌らしくハデスをつついてみる。

 アスポデロスの咲く神秘の野。

 そこで二人きり、どんな楽しい時間を、いや、甘い時間を過ごしたのか。


 お膳立てを整えて送り出してやった自分に、ごほうび代わりにのろけ話のひとつも聞かせて欲しい――ヘルメスはすり寄っていきながら、ハデスの横顔を見上げた。


 が、そのヘルメスの動きがはたと止まる。

 見上げたハデスの横顔から、表情が消えていた。

 心に分厚い幕を下ろして、その奥に感情を隠してしまったかのように。


「ハデスさま……?」

「ヘルメス、下りてくれ。お前に話すことは何もない」

「どうしたんです? 何かあったんですか、昨日」

「何もない」


 冷ややかな声にはねつけられて、ヘルメスは愕然とする。

 何もない――ハデスは今そう言ったのか――?


 不意に、ハデスは手綱を繰って馬車の速度を上げる。

 車輪が大きく揺れて、ヘルメスははじき出されるように馭者台から飛び上がった。

 呆然として、ヘルメスは宙で翼を羽ばたかせながら、走り去っていく馬車の姿を見つめた。


 何もない、だと――?


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