三章 冥府への招待 ⑤



 天井の青白い灯りを反射して、さざ波が銀色に輝いている。

 静謐な闇の中をさらさらと流れていく川の、流れの生まれてくるところを確かめに行こうとするように、ペルセポネの足は川辺を逆にたどっていった。


 その後ろから、鳥の羽ばたきに似た音がついてきている。

 それがアレクトの発するものだということに、ペルセポネは気づいていた。

 姿は見えなくとも、その音で確かに彼女がいるということがわかって、ペルセポネは安心して地下世界を歩き回ることができた。


 羽音をさせているからには、エリニュスと呼ばれる彼女たちは翼を持つのだろう。

 それはどんな色の翼だろうか――初めて目にする風景を興味津々に見物して、アレクトに質問をしながら、ペルセポネはまだ見ぬ相手の姿を想像してみるのを楽しんでいた。


 不意に、元気のいい吠え声と駆けてくる足音とがペルセポネに向かって近づいてきた。

 ペルセポネが視線を向けた先から、三つ頭の黒犬ケルベロスが勢いよく駆けてくる。

 三つの顔を喜色に輝かせて、ケルベロスは一直線にペルセポネの元まで駆け寄ってくると、太い蛇の尾をちぎれんばかりに左右に振る。


 全身から喜びをあふれさせて自分を見上げてくるケルベロスの姿に、ペルセポネは思わず笑みをこぼした。


「私に会いに来てくれたの? ケルベロス。いい子ね」


 ペルセポネがかがんで三つの頭を順になでてやると、ケルベロスは更にうれしそうに尾を振った。

 ペルセポネの足に身をすり寄せ、子犬のようにじゃれかかるケルベロスを、アレクトの声が制止した。


「ケルベロス、使命をおろそかにすることは許されない。

いつまでも浮かれていないで、早く持ち場に戻りなさい」


 冷ややかな声に打ちすえられて、ケルベロスの尾はたちまち元気をなくして垂れ下がってしまった。

 大きな耳もしおしおと寝てしまって、ケルベロスは情けない表情になってペルセポネを上目遣いに見上げる。


「お仕事があるのね、ケルベロス。いってらっしゃい」


 ペルセポネが頭をなでて励ましてやると、ケルベロスは渋々といった様子できびすを返す。

 力なく垂れた尾を引きずって歩いて行きながら、ケルベロスは名残惜しそうに一瞬振り返る。

 ペルセポネはその悄然とした姿に向かって笑顔で手を振った。

 ペルセポネの笑顔に元気づけられたらしく、ケルベロスは一声吠えてみせると、尾を振りながら霧の向こうに駆け去っていった。


「アレクト、ケルベロスはどんなお仕事をしているのですか」

「あれは冥府の番犬です。

冥府に許しなく立ち入り、また出て行く者がないように見回るのが使命です。

それゆえ、あなたさまに最初出会ったとき、大変な無礼を働いてしまいました」

「お仕事だったのだから仕方ないことです。私は気にしてませんから」

「恐れ入ります」

「アレクト、あなたたちの使命は? 

メガイラとティシポネは本来の使命があるといっていましたけど」

「我々は常は地上で務めを果たしています。

罪人を追うのが我々の使命ですので」

「罪人?」

「殺人の罪を犯しながら地上での罰を免れた人間を、冥府に追い立て、裁きを受けさせるのが使命なのです。

ゆえに、我々は罪人を追う女神エリニュスと呼ばれています」


 耳なじみのない殺伐とした単語に、ペルセポネは戸惑って言葉を失った。

 そのペルセポネの沈黙を非難と受け取ったのか、アレクトの羽音が空気を揺らして、深々と頭を下げる気配が伝わった。


「申し訳ありません。

あなたのような方にお話しするべきことではありませんでした」

「いいえ……大変なお仕事をされているんですね……。

その裁きというのも、あなたたちが?」

「罪人の裁きは我らが主と、補佐を務める判官たちが行います。

そのための神殿が建てられているのです」

「神殿……では、ハデスさまは今、その神殿にいらっしゃるのですね。

ごあいさつに行っても構わないでしょうか?」

「問題ないかと。ご案内しましょうか」

「はい、ぜひ」


 ではこちらへ、とペルセポネを導くように、羽音が先に立って進んでいく。

 ペルセポネはその後を追って、導かれるままに足を進めていった。



 黒馬のひく馬車が神殿に到着したとき、いつも通り出迎える三判官の他に、門前でハデスを待ち構えていた者があった。


 手綱をヘルメスにあずけて馭者台から下りたハデスは、門前でたたずむその美女にいぶかしそうな表情を向けた。


「ヘカテ……」

「お早いお着きで助かったよ。

わざわざ出向いて待ち構えていたかいがあったね」


 冥府の支配者に向かって気安い物言いをし、美女は挑みかかるような微笑を浮かべた。


 短く切りそろえた黒髪が白い面を縁取り、きらめく紫の瞳がその美貌を神秘的な印象にしている。

 ほっそりとした長身にまとった黒の衣装に映えて、むき出しの腕や胸元の肌の白さが艶めかしい。

 全身から妖艶な雰囲気を醸し出しているこの美女は、冥府に住まう神の一人、呪術を司る女神ヘカテである。


「……お前が出てくるとは珍しい」

「それはこっちの台詞さ。

昨日から冥府の空気が騒がしいったらないじゃないか。

珍しいどころの話じゃないだろ、大地が割れるなんて。

何が起こっているのか、あんたを問い詰めてやろうと思ってね」


 ヘカテは真っ赤な唇の端をつり上げて、ハデスの顔を真正面からねめつけた。


「……それは……」

「あっ、ハデスさま」


 ヘカテになんと説明したものか、ハデスが考え込むのをさえぎって、ヘルメスが不意に声を上げる。

 袖を引かれて振り向くと、ヘルメスが示す方からペルセポネが神殿に歩いてくるのが見えて、ハデスは目をみはった。

 やって来るペルセポネの方でもハデスの姿を見留めたらしく、門前までの残った距離を小走りに駆けてくる。


 微笑みを浮かべて駆けてきた乙女を、ハデスは戸惑い気味に迎えた。


「ハデスさま、お会いできてよかった」

「……どうしてここに」

「今、アレクトにこの世界を案内してもらっていたんです。

それで、ハデスさまは神殿にいらっしゃると聞いて、ごあいさつしたくて」

「それは……わざわざすまない……」

「へえ、これはこれは……」


 朗らかな微笑みを向けてくるペルセポネと、ぎこちなく言葉を返すハデスの間に、愉快そうな表情を浮かべてヘカテが割って入ってきた。


「ちょっと、坊や、この子はどちらさま? 

あたしにも紹介してもらいたいね」


 ペルセポネは初めて顔を合わせる美女の登場に、きょとんとした表情をする。

 聞き間違いでなければ、この美女は今、ハデスのことを坊や呼ばわりした。

 怪訝に思いながらも、ペルセポネはヘカテに向かってしとやかに礼を取った。


「はじめまして、私、ペルセポネと申します」

「おや、地上の女神さまがおいでとは知らなかった。

あたしの名前はヘカテ。覚えておいてもらえるとうれしいね。

それで、お嬢ちゃんはこんな湿っぽいところで何をしておいでだい?」

「昨日、大地の異変に巻き込まれたところを、ハデスさまに助けていただいたのです。

それで、ハデスさまのご厚意で、今はこちらに滞在させていただいています。

私は地下の世界は初めてですので、たくさん見学させていただきたくて」

「……ははん、なるほどねえ……」


 ヘカテは紫の瞳をすがめると、顔を背けているハデスと、やはりそっぽを向いているヘルメスとを交互に見やる。

 そして、まるでそれだけですべてを察したような顔つきで、


「では、このお嬢ちゃんは坊やのお客人というわけだ。

それじゃ、あたしももてなして差し上げようか」

「ヘカテ」


 驚いたような声を上げるハデスを、ヘカテは妖しげな笑みで制した。


「構わないだろう。

坊やはこれからお仕事なんだ。

その間、お客をほったらかしにするのは申し訳ないから、あたしが代理で接待してあげるだけさ。

エリニュスに任せっぱなしは心許ないしね」

「…………」


 ハデスはペルセポネとヘカテを見比べて迷っているようだったが、ややあって溜息と共にうなずいた。


「……お前に任せる。私はもう行かなければならないので――」

「ハデスさま」


 神殿の門をくぐろうとするハデスを、ペルセポネの声が呼び止めた。振り返ったハデスにペルセポネは微笑みを向けて、


「いってらっしゃい。お仕事、がんばってくださいね」


 そう言って小さく手を振った。

 ハデスは一瞬、硬直して動きを止めたかと思うと、浮かんだ表情を隠すように顔をうつむけ、そそくさと神殿の中に逃げ込んでしまった。


 返事もせずに去っていくハデスの背を見送って、ペルセポネはわずかに気落ちしたような表情でつぶやく。


「……やっぱり、ご迷惑だったんでしょうか。

あんなに急いで行ってしまわれて……本当にお忙しいんですね」

「いやー、あれは単なる照れ隠しですよ」

「え?」

「はっはー、おもしろいものが見られたねえ。

坊やがあんな顔するなんて、あれこそ天変地異だ」


 ヘルメスとヘカテがそれぞれ言うのを聞いて、ペルセポネは不思議そうに小首をかしげる。

 そんなペルセポネをよそに、ヘカテはヘルメスの肩に手をかけてその耳元にささやいた。


「それで、オリュンポスの坊やは、今度は何を企んでるんだい? 

まあ、この状況を見ればだいたい察しはつくけどね」

「ヘカテさま……なぜ、おわかりに?」

「あたしは呪術を司る者だよ。

呪術は人の心を読み、操るのが基本だからね。これくらいわかって当然さ」

「なるほど……さすがです」

「あんたも毎度、災難だねえ。

坊やの思いつきのせいで、あっちこっち使いっ走りさせられて」

「はい、まったく」

「ははっ、同情してあげるよ」

「あのー……」


 気心知れた者同士らしく言葉を交わしている二人の間に、おずおずとした声が割って入る。

 すっかり蚊帳の外に置かれてしまったペルセポネは、困惑しきった表情でヘカテとヘルメスの顔を交互に見比べている。


「ああ、すまないね。お嬢ちゃんをほったらかして」

「いえ……お二人は仲がいいのですね。

ヘカテさまはハデスさまとも、その……親しそうでしたし」

「お嬢ちゃんは、あたしが冥府の王を坊や呼ばわりしていたのが気になったんだろう」


 見透かしたように言って、ヘカテはペルセポネにいたずらっぽい笑みを向けた。

 ヘカテの言葉を引き取って、苦笑を浮かべたヘルメスが説明する。


「ペルセポネさまはティターン神族をご存知ですか? 

ゼウスさまが世界の支配者となる前にその地位にいた、クロノス神を筆頭とする神々の一族です。

ヘカテさまはそのティターン神族の末裔なんですよ。

つまり、ゼウスさまやハデスさま方よりも古い時代からの神なんです」

「ちょっと、この使いっ走り。あたしを年増みたいに言うんじゃないよ」


 ヘカテに思いっきり頭を小突かれて、ヘルメスは慌てて首を振る。


「いやいや、そういうつもりじゃ……とにかく、由緒ある系譜に連なる方で、主神三兄弟を坊や呼ばわりできる唯一の女神というわけです」

「ま、今は冥府の坊やの敷地に、間借りしている身の上だけどね」


 そう言ってさばさばとした調子で笑うヘカテを、ペルセポネは少し呆気にとられて見つめた。


「さてと、それじゃあ早速行こうか。

お嬢ちゃんに冥府を案内してやらないとね」

「ヘカテさま、どちらに?」


 ヘカテがなれなれしくペルセポネの肩に手を置いて出て行こうとするのを、ヘルメスが慌てて呼び止める。

 ヘカテはその声に鋭い視線を向けて、


「おっと、あんたは馬車を裏に連れておいき。

あたしはこの子と二人きりで話してみたいんだ」

「しかし……」

「心配しなくても、坊やたちの意に背くことはしないよ。

エリニュスがついてるわけだしね」


 そう言い残すと、ヘカテは呆気にとられているペルセポネと連れだって、さっさと神殿の前から去っていく。


 ヘルメスはその後ろ姿を見送りながら考え込んだ。

 ヘカテは呪術を司るという役目上、恐ろしい女神とみられている。

 だが、偉大な力を持ってはいても邪心のある女神ではないので、滅多なことはないだろうと思われる。


 彼女の言葉は信用してもいいだろう。

 しかし、容易に本心を明かさない女神でもあるので一抹の不安が残った。


 ヘルメスは、地上と地下の女神二人が去っていった先を見つめながらつぶやく。


「ちょっと心配だなあ……」


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