三章 冥府への招待 ④
一晩眠り、朝になって起きたはずなのに、窓の外はまだ暗い。
やっぱり不思議なところ――霧に青白い灯りがにじむ風景を眺めながら、ペルセポネは夢見心地にそんなことを思った。
冥府の館で、ペルセポネは滞在一日目を迎えた。
最初に休ませてもらっていた部屋をそのままあてがわれ、部屋でも館の中でも自由に過ごすようにとのハデスの厚意に、ペルセポネはありがたく甘えていた。
霧の漂う地下の風景に見とれながら、ペルセポネの胸はときめいていた。
初めて訪れた世界で迎えた最初の一日。
エレウシスから外に出たのも初めてなら、他者の住まいで客人としてもてなされるのも、宿泊するのも初めての体験だ。
目の前には見知らぬ不思議な世界が広がっている。
ペルセポネは無邪気な好奇心に、自然と頬を紅潮させた。
「――おはようございます」
次の間から声がかかり、ペルセポネは外の景色から振り返る。
無感情な声音はエリニュスに違いなかったが、聞こえたのは一人分だったのでペルセポネは首をかしげる。
「おはようございます。
あなたはエリニュスの……アレクト?」
「……はい、左様です。お側仕えに参りました」
一瞬、驚いたような間があったが、続けて答える声は淡々とよどみない。
「ありがとうございます。
メガイラとティシポネは一緒ではないのですか?」
「他の二名は地上で本来の使命がありますので、本日は私が参りました」
「お忙しいのですね……ハデスさまはどちらにいらっしゃいますか?
朝のごあいさつをしたいのですけれど」
「我が主は、すでにお勤めのために神殿に出かけておいでです」
アレクトの言葉に、ペルセポネは大きな瞳を瞬かせる。
「……もしかして、私、寝坊してしまったんでしょうか」
「いえ、そのようなことはございません。
我が主が、今日は特別早くに出かけられただけのことですので」
「ハデスさまもお忙しいのですね……」
言って、ペルセポネはふっと視線を落として考え込む。
つい好奇心に任せて滞在させてほしいなどと言ってしまったが、もしかしたらハデスには迷惑だっただろうか――昨日のハデスの態度、表情を思い出してみるが、そこから彼が何を思っていたかまでは、ペルセポネにはわからなかった。
自分はとんでもなくわがままだったかもしれない、相手の都合も考えずに――反省するペルセポネの思考をさえぎるように、次の間から扉越しにアレクトの声がかかる。
「お支度はおすみのようですね。
本日はどのように過ごされるか、ご希望をお伺いいたします」
「はい……それでは、早速ですけど、この世界を見て回りたいのです。
案内していただけますか?」
「承知いたしました。では、館の門前にてお待ちします」
「……やっぱり、姿を見せてはくれないのですね」
「申しわけありません、主命ですので」
頑ななほど忠実な態度に、ペルセポネは困惑しつつも感心してしまった。
「あなたさまに不便をおかけはしませんし、きちんとお仕えさせていただきますので、どうぞお許しを」
「いえ、いいのです。
では、門のところで待ち合わせしましょう。よろしくお願いしますね」
扉越しの相手に向かって、ペルセポネは微笑んで見せた。
ともあれ、初めての世界を案内してもらえる。
そう思うと、ただ楽しみで胸が弾むのだった。
その頃ハデスは、自ら手綱を取って、神殿に向かって馬車を走らせていた。
馭者台に座る彼の隣には、ヘルメスがすねたような表情を浮かべて腰を下ろしている。
「ハデスさま、こんな早くに出かける必要はなかったんじゃないですか?」
「…………」
「せめて、ペルセポネさまにあいさつくらいして出てくればよかったのに」
「……いや……彼女と、館の中で顔を合わせるのは……」
ハデスは語尾を濁して視線をうつむける。
ヘルメスはそれを横目で見やって、小さく溜息をついた。
つまり恥ずかしいのだな、せっかくお膳立ては整っているのに――そう思うヘルメスの脳裏に、不穏な笑顔を見せるゼウスの顔が浮かんだ。
せめてあのゼウスの十分の一、いや百分の一の行動力がハデスにあれば、こんなまどろっこしい状況にはなっていないだろうに。
「……ゼウスは――」
そのヘルメスの思考にかぶさるように、ハデスがぽつりとつぶやいた。
「ゼウスはどういうつもりでこんなことを……」
「さあ……僕もゼウスさまが内心どういうつもりなのかは、正確にはわかりませんけど……」
ハデスの疑問に、ヘルメスは走る馬車の心地よい振動に身をゆだねながら、何気なく思いつきを口にした。
「たぶん、ペルセポネさまを冥府の妃にと、お考えなのでは」
「きっ――」
絶句したハデスの手元が狂って、手綱さばきが大きく乱れた。
馬が驚き足並みが乱れた拍子に馬車が揺れ、ヘルメスは派手に座席からずっこける。
「ハデスさま! 安全運転でお願いします!」
「す、すまない……」
抗議の声を上げるヘルメスに謝罪するハデスの顔が赤い。
動揺を抑えて馬車を元通りに落ち着いて走らせながら、ハデスは足元に向かって大きく息をついた。
「……しかし、私は彼女にとっては初対面の相手だ……いきなり、妃などというのは、さすがに……」
「まあ、普通はそうでしょうねえ……」
座席に座り直して、ヘルメスはちらりとハデスの動揺冷めやらぬ表情を盗み見る。
「というか、ハデスさまのお気持ちはいかがです?」
「私?」
「ペルセポネさまを妃に迎えるつもりはありますか?」
「……い、いや……」
「嫌ですか?」
「そっ、そうではない……だが、私などには大それた話だ……」
「そんなことはないと思いますが。
それに、好きなんでしょう?」
「…………」
ヘルメスの言葉に黙り込むと、ハデスは手綱を握った手元に視線を落とした。
「……だめだ、私には分不相応だ。彼女のためにもならない」
「ハデスさま……」
「それに、彼女にその気はないだろう。こんな話は無意味だ」
そう言い切って、ハデスはそれきり沈黙してしまう。
感情をかき消した無表情の中で、深紅の双眸に暗い影が差していた。
その瞳から、ハデスが胸の内に抱えた古傷が見えた気がして、ヘルメスは大人しく口をつぐむ。
大昔の失恋、とゼウスが言っていたのが思い起こされた。
まだ立ち直っていないようですよ、父上――この場にいない相手に向かって、ヘルメスは心の中でつぶやいた。
肝心のハデスがこんな調子では、ゼウスの予想していた通りにとんでもなく時間がかかる羽目になるだろう。
先はまだ長そうだ、と取り持ち役を仰せつかっているヘルメスは、これからの苦労を思ってまたこっそり溜息をついた。
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