三章 冥府への招待 ③
立ちこめる霧の冷気に、ペルセポネは細い肩を震わせた。
生まれて初めて訪れた地下の世界、それをよく見てみたいと、ペルセポネは好奇心を働かせて一人で館を抜け出していた。
霧のために館のテラスからははっきりと景色を見渡すことができなかったし、独りぼっちで部屋にいるのも不安だったので、さして深く考えもせずに出てきてしまったのだが――。
無表情な岩肌と硬い石だらけの地面、そして地下の全てを覆うような冷たい霧のどこまでも広がる風景を目の当たりにして、ペルセポネは自分の考えなしの行動を後悔し、心細さを感じていた。
地下とはなんて静かで、寂しい場所なんだろう――ペルセポネは霧の中にたたずんで、自分の肩を抱きしめながら思った。
ここまで歩いてきて、一輪の花も一羽の蝶も、萌える若草、さえずる小鳥、ペルセポネがいつも当たり前にふれあっていたものはなにひとつ見当たらなかった。
黒い岩と冷たい霧だけの、頑なな世界。ここに来るまで、ペルセポネは誰とも出会わなかった。
地下の世界に住民はいないのだろうか。
地上の世界はいつも光にあふれて明るく、色とりどりの花が咲き、小川のせせらぎ、鳥の声がにぎやかな音楽となって楽しかった。
ペルセポネの周りはニンフたちが取り巻いて毎日心ゆくまで遊び、神殿には優しい母と、大勢の巫女たちがいて、明るい笑い声とぬくもりが絶えなかった。
世界はどこまでも温かな光に満ち足りていて、誰もがその中で幸福を謳歌していると思っていた、自分と同じように。
ペルセポネは自分の知らないところに、思いもよらない世界が存在していたことを知って、呆然としてしまった。
ふと、この地下世界を統治しているという神のことが思い浮かんだ。
冥府の王ハデス――彼はこの粛々とした世界で、たった独りでいるのだろうか。
地下の支配者として今まで、そしてこの先も永遠に。
それは一体どんな気持ちのするものだろう――ペルセポネは知らぬ間に、言葉も交わしたこともない地下の神の心に思いをはせていた。
石を踏む音に、ペルセポネははっと物思いから覚めた。
何かが近づいてくる。
霧の中にそのものの影が浮かび上がって、じりじりと距離を詰めてくる。
ペルセポネは息を詰めて次第に大きくなる影を見つめていたが、霧の中から現れたその姿を見ると、のどの奥で小さく悲鳴を上げた。
現れたのは大きな犬だった。
だが、普通の犬ではない。
強い漆黒の毛に覆われた強靱そうな体躯には、頭が三つついている。
三つの頭はそれぞれ警戒心をあらわに、炎のように輝く双眸でペルセポネを凝視している。
黒犬の尾は太い蛇のそれで、揺れるたびにぬらりと鱗を光らせていた。
ペルセポネは驚き、うろたえて後ずさる。
しかし、黒犬の視線から目をそらせずにいたために、足元の石に気づかず、つまずいて派手に尻もちをついてしまった。
黒犬が一歩、距離を詰める。
蛇の尾がいらだったように揺れ、三つの頭は鼻面にしわを寄せて牙をむきだした。ペルセポネの心臓が早鐘を打つ。
緊迫した空気の中、また一歩、黒犬が詰め寄ろうとしたとき、その前に素早く人影が立ちはだかった。
自分をかばうように現れたその黒衣をまとった長身を、ペルセポネはこわばった表情で見上げる。
「ケルベロス、下がれ」
厳しい声に打たれて、黒犬は一歩二歩と後ずさる。
ペルセポネを探して間一髪の場面に駆けつけたハデスは肩越しに振り返ると、尻もちをついたまま身を固くしているペルセポネに声を和らげて尋ねた。
「……大事ないか」
気遣わしげな声に、ペルセポネは小さくうなずいて答えた。
ハデスはまだ不服そうに尾を揺らしている黒犬ケルベロスを鋭くにらみつけると、毅然とした口調で命じた。
「ケルベロス、今後この方に今のような無礼は許さぬ。
私に仕えるように、この方にも忠実に従え……わかったな」
王の言葉に、ケルベロスは前足を折り、地に伏せてうやうやしく頭を垂れる。
服従の姿勢を見て、ハデスはわずかに表情をゆるめるとケルベロスの頭をなでた。そして、唖然としているペルセポネに向かって手をさしのべる。
「……恐ろしい思いをさせて、すまなかった……」
謝罪の言葉と共に差し出された手に、ペルセポネは自然に自分の手を重ねていた。
乙女の柔らかな手の感触に、ハデスは一瞬視線を揺らしたが、落ち着きはらった態度は何とか崩さずに、ペルセポネを助け起こすと、そのまま手を引いてケルベロスに改めて引き合わせる。
「二度と先程のようなことはしないと誓っている……許してもらえるだろうか」
地に伏せ、大きな耳をぺたりと寝かせて、ケルベロスは上目遣いにペルセポネを見上げる。
恐ろしげな大きな体が、すっかり小さく大人しくなってしまったようだ。
許しを乞うようにじっと見上げてくる様子が何だかおかしく、可愛らしく思えて、ペルセポネは思わず笑みをこぼしていた。
「そんなに落ち込まないで。
ちょっと驚いてしまったけど、大丈夫、怒ってないわ」
そう言って、ハデスがしていたのをまねして、ペルセポネは三つの頭を順番になでてみた。
黒い毛は見た目よりも柔らかく、その感触は手に心地いい。
首筋をなでてやると、媚びるように頭の一つが舌を伸ばしてペルセポネの手の甲をなめた。
温かいその感触がくすぐったくて、ペルセポネはまた笑みをこぼした。
忠犬ケルベロスが気に入ったらしいペルセポネと、彼女にすっかりなついたらしいケルベロスを、ハデスは胸の高鳴りを押し隠しながら静かに見守っていた――。
その様子を、ヘルメスは岩陰から見守っていた。
発破をかけた責任上、事の成り行きを見届けなければ、とこっそりハデスの後をつけてきたのである。
颯爽とペルセポネをかばった場面には、思わず心の中で喝采を上げていた。
このまま二人は急接近するか、とヘルメスは期待を込めた眼差しで見守っていたが、しかしペルセポネはケルベロスの毛並みに夢中になってしまっているようだ。
何か今の機会に話すべきことがあるだろうに、ペルセポネとうれしそうに尾を振っているケルベロスを、ハデスは黙って見つめている。
黙っていても話進みませんよ、何か声をかけないと、むしろペルセポネさまも気づいて――と、ヘルメスはじれったい思いで見つめた。
その思いが届いたわけではないだろうが、ケルベロスの大きな頭を胸に抱きしめて、ペルセポネはふっとかたわらにたたずむハデスの長身を見上げた。
「あの、あなたは?」
「!」
「この世界にお住まいの方ですか? お名前をうかがっても?」
「……私は……」
ペルセポネの澄んだ瞳がまっすぐに見つめてくるのに戸惑って、ハデスは逃げるように視線をそらす。
岩陰からヘルメスはじりじりとした視線を、口ごもってしまっているハデスに注いだが、それだけではどうしようもない。
ゼウスの言っていた通りだ。奥手で不器用で口下手――つい先程の颯爽とした行動力はどこへやら、だ。
どうにもじれったい状況をただ見守るのにも限界だ。
ヘルメスは意を決して、できるだけさりげない調子を装って、隠れていた岩陰から飛び出した。
「ハデスさま~、よかった、やっと追いつきました~」
そう声を上げて、ヘルメスはハデスのそばに駆け寄る。
突然現れたヘルメスに驚いたような表情をしているハデスに、ヘルメスはにっこり笑ってみせる。
「無事にペルセポネさまを見つけられたんですね。
ペルセポネさま、お怪我もないようでよかったです」
「あなたはヘルメス神、ですよね? 驚きました、お会いできるなんて」
ペルセポネは瞳を瞬かせて、にこにこと笑顔を振りまいているヘルメスを見つめた。
「はじめまして、ヘルメス神。
ペルセポネと申します、お見知りおきください。
でも……よくお姿を見かけていたから、改めてごあいさつするのも何だか不思議な気がします」
「僕もあなたのことはよく知っていますよ、ペルセポネさま」
「え?」
「いえいえいえ、こっちの話で。どうぞ、よろしく」
笑顔を張りつかせて首を横に振るヘルメスを、ペルセポネはきょとんと見返した。
「そんなことより……」
ヘルメスは呆気にとられてたたずんでいるハデスの袖を引っぱると、裾を払って立ち上がったペルセポネと向き合わせた。
「ペルセポネさま、どうぞお礼をおっしゃってください。
冥府の王自ら、あなたを助けにおいでくださったのですから」
「冥府の王……?」
「あれ、自己紹介はまだでしたか? では、僕がご紹介しましょう。
ペルセポネさま、この方が地下世界の支配者、冥府の王のハデスさまです」
ペルセポネの緑の瞳が驚きに見開かれる。
大きな瞳に見つめられてハデスが落ち着かない風に視線を揺らすので、ヘルメスはペルセポネにわからないように、こっそりハデスの脇腹を肘で小突いた。
「ハデスさまは自ら馬車を駆って、地上から落ちてこられたあなたを助けてくださったんですよ。
覚えてませんか?」
「あっ……あのとき、馬車の手綱を取っておられた方……」
「いやあ、災難でしたね、ペルセポネさま。
突然、あんな地割れが起こって、それに巻き込まれてしまうなんて。
自然災害は予測できないものですが、偶然っていうのは怖いですよねえ。
でも、幸い怪我もなくて無事でよかった。
これもハデスさまが助けてくださったおかげですね」
ヘルメスの口から真相とは違った話がぺらぺらと語られて、ハデスは困惑しきってヘルメスのすました顔を見返す。
「ヘルメス……」
「ハデスさまもそう思いますよね? ねー?」
ヘルメスはそう強引にたたみかけ、必死な目配せで物言いたげなハデスを押さえる。
本意ではないが、もうこうなってはゼウスの企みに乗るよりない。
何も知らないペルセポネをだますようで気が引けるが、ここで計画を台なしにするわけにはもういかなかった。
「ペルセポネさま、大変な目に遭われて、さぞかし怖かったでしょう」
「ええ……あんなことは初めてで、とてもびっくりしました……」
「そうでしょうね。
身体に怪我はなかったとはいえ、精神的に受けた衝撃は大きいでしょう。
それに、いつまた大地があんな異変を起こさないともわからない状況ですし……そうだ!」
考え込むふりをして、ヘルメスはわざとらしく手を打つと、ハデスとペルセポネの顔を交互に見やって提案する。
「ハデスさま、状況が落ち着くまで、ペルセポネさまには館に滞在してもらったらいかがです?
ハデスさまの館でしたら、ペルセポネさまにもゆっくり過ごしてもらえるでしょう」
「……ヘルメス……」
「ペルセポネさま、いかがです?
ペルセポネさまは地下の世界を訪れるのは初めてでしょう?
この機会に、知らない世界をゆっくり見学してみたいとは思われませんか。
きっといい経験になると思うんですが」
ペルセポネはヘルメスの言葉を素直に信じ込んでいた。
そして、この提案に心惹かれている証拠に、緑色の瞳が好奇心に輝きだしていた。
初めて訪れた地下の世界、知らない世界とそこに住まう神々、未知との出会いにペルセポネの胸は高鳴っていた。
ペルセポネの瞳を探るようにのぞき込んで、ヘルメスは尋ねる。
「ペルセポネさま、この世界に興味はありませんか?」
「はい、とても……興味があります。
ぜひ、滞在させていただきたいです。
ご迷惑でなければ、この世界を見学させていただけませんか?」
ペルセポネは期待のこもった眼差しでハデスを見つめる。
その純粋な好奇心に満ちた視線を受け止めかねて、ハデスは助けを求めるようにかたわらのヘルメスに視線を向ける。
その視線にヘルメスは、作戦成功とでもいわんばかりの微笑みを浮かべ、片目をつぶって応えた。
ハデスはしばらく考え込むように沈黙していたが、ややあって、あきらめたように小さく溜息をつく。
「……私の館に、招待させていただこう。
地上の女神を、冥府の客人として歓迎する」
「ありがとうございます!」
ペルセポネの面が喜びの笑顔に輝く。
それをまぶしそうに一瞬だけ見やって、ハデスは虚空に向かって呼びかけた。
「……エリニュス、いるな」
「お側に、我が主よ」
影の中から響くように、ぴたりと唱和した三つの女の声が聞こえて、ペルセポネは声の主を探して視線を動かしたが、しかしエリニュスらしき姿はどこにも見当たらない。
不思議そうに首をかしげているペルセポネをよそに、ハデスは姿の見えない配下に向かって命じた。
「彼女の身の回りのことは、エリニュス、お前たちに任せる。
滞在中、不自由のないようにお仕えせよ」
「かしこまりました」
「……配下をあなたの側におつけする。
何かあれば遠慮なく申しつけていただきたい」
「はい、ありがとうございます……あの、エリニュス?」
ペルセポネは見よう見まねで、エリニュスがいるらしき虚空に向かって話しかける。
「お世話になります。どうぞ、よろしくお願いしますね」
「こちらこそ」
素っ気ないほど短い応えに、しかしペルセポネはうれしそうに微笑みを浮かべた。
その花のような微笑みを、ハデスがさりげなく見つめている。
そのことをヘルメスはしっかり確認して、こっそり安堵の息をついた。
とりあえず、二人がきちんと対面を果たしたことで、まずは第一関門突破、と言えるだろうか。
しかし、ここから先がまた難関だろう。
二人を見守りつつ、状況を見極めて、ここぞというときに適切に後押しをしてやらなければ――そこまで考えて、ヘルメスははたと我に返る。
いつの間にか、このじれったい二人の恋の行く末が、本気で気にかかってしまっていたらしい。
ヘルメスは、なにやらたどたどしく言葉を交わしている冥府の王と地上の乙女を見やって、微苦笑を浮かべた。
こうなったら、とことんつき合ってみようじゃないか、この恋の成就まで――。
* * *
乾いた風が大地の上をなでながら吹き過ぎる。
枯れ草と砂埃を巻き上げる風に逆らうように、頼りなげな人影が衣の裾を引きずってさまよっていた。
その人影のまとうのは、艶のない黒の衣。
頭からすっぽりと黒い
足を引きずるようにして、たおやかな身体つきのその人影がさまよう様子は、魂の抜けた亡骸がさまよっているかのようだった。
覆衣の陰から、か細い声がすすり泣くように、たった一人求める、愛しい娘の名をつぶやくのが聞こえた。
「……ペルセポネ――」
哀れにさまよう人影の姿を、天上の太陽だけが見守っていた。
* * *
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