三章 冥府への招待 ②



 ぬるま湯のような空気の中に、細い一本の糸につるされて意識の塊が浮かんでいる。

 ゆらゆらと意識をつり下げて揺れていた糸は、不意に音を立てて切れた。

 意識は真っ逆さまに、底の見えない暗闇の中へ落ちる――その寸前、ペルセポネは自分の上げた悲鳴のために目を覚ました。


 目覚めて、ペルセポネは身体を横たえたまま、自分の呼吸と鼓動が響くその部屋をぼんやりと見回した。


 銀の燭台に青白い炎が灯って、見慣れない部屋の中を淡く照らし出している。

 恐る恐る身を起こした拍子に、肩までかけられていた毛皮の上掛けがすべり落ちた。

 寝かされていた寝台もかけられていた上掛けも、しっかりとしたしつらえの上等なものだ。


 毛皮の手触りのよさを確かめるようになでるペルセポネが、ふと枕元に目を向けると、そこには一輪の真っ白な水仙が生けられていた。

 花びらが輝くばかりに美しい、水仙の花――。


 そこでようやく、ペルセポネは自分の身に降りかかった出来事を思い出した。

 いつもと同じエレウシス、突然の地震、ひび割れた大地、宙に投げ出され、落下していく身体。

 その身体を救い上げたのは、地下から躍り出た馬車だった。

 力強い二頭の黒馬の引く、黄金の馬車。その馭者台に駕した黒衣の青年の、腕の強さが肌の上によみがえる。

 間近で見つめ合い、深紅の双眸に見入ったあの瞬間――。


 ペルセポネは不安げに瞳を瞬かせた。

 あの後、今この部屋で目覚めるまでの間のことが思い出せない。

 あの後、一体何があったのか。自分はどうしてここにいるのか。

 そもそもここはどこなのか。


 立派な様子の居心地はよさそうだがなじみのない一室で、ペルセポネは途方に暮れてしまった。


 青い灯火に照らされる室内は、ゆったりと広く、上品な調度品がしつらえられていて、落ち着いた雰囲気で整えられている。


 部屋の外にはテラスがあった。

 興味を引かれるままにテラスに出ると、そこから見える景色にペルセポネは不思議な心地で見とれた。

 白い霧が薄く立ちこめる中に仄白い灯りがともっていて、黒い岩肌を硬質に照らしている。

 どこからか水音が聞こえるのは、近くに川が流れているからだろうか。

 澄んだその水音以外には、何の音も聞こえてこない。

 頭上を見上げると、岩の天井にも青白い星のような灯りがぽつぽつとともっている。


 ここはとても静かで、物寂しい気持ちにさせられる世界だった。


「失礼いたします」


 ぼんやりと外の景色を見渡していたペルセポネは、唐突に声をかけられ、飛び上がらんばかりに驚いた。

 声のした方を振り返ったが、誰の姿も見えない。

 テラスから部屋の中に戻ってみたが、部屋の中にも誰もいなかった。

 ペルセポネが戸惑っていると、再び同じ声がする。


「お加減はいかがですか?」


 尋ねる声は部屋にある扉の一つから聞こえた。

 どうやら扉は次の間につながっているようで、ペルセポネは気づいていなかったが、そこに誰か控えていたらしい。

 扉の外からかけられたのは若い女の声だったが、感情を殺したような印象を受けるもので、身を気遣う言葉とはちぐはぐに響いた。


 姿の見えない相手にペルセポネが困惑して、何も答えられないでいると、また声が扉の向こうから問いかけてくる。

 しかし、今度の声は先のものとは違う女の声だった。


「どこかお加減の優れないところはございませんか」

「……いえ、あの……具合の悪いところはありません。大丈夫です」

「それならば結構です。安心いたしました」


 ペルセポネの返事にそう応えたのは、また違う女の声だ。

 声は違うが、三つの声音は事務的で淡々とした調子がよく似ていた。

 ペルセポネは困惑から抜け出せないままに、扉越しの相手に問いかける。


「あの、どちらさまでしょう」

「申し遅れました。私の名はアレクト」

「ティシポネと申します」

「メガイラとお呼びください」

「我ら三人、合わせてエリニュスと呼ばれております。

我が主より、あなたさまのお世話を言いつかって参りました」


 三人の内の一人が代表してペルセポネに答える。

 無感情だが礼儀正しい様子に、ペルセポネはほっと肩の力を抜いた。


「ここはどこです? 私はどうしてここにいるのでしょう?」

「ここは我らが主の館です。

あなたさまは馬車で気を失われたので、今までこちらでお休みいただいていたのです」

「気を失って……随分、長い間、休ませてもらっていたのでしょうか?」

「いえ、それほどの時間は経ってはおりません」

「そうですか……親切にしていただいて、ありがとうございます」

「恐れ入ります。お怪我がないようで何よりでした」


 ペルセポネの言葉に応える相手の声はよどみない。

 だが、扉越しに何事もなく交わされる会話に、ペルセポネは困ってしまった。


「……あの、こちらに来ていただけませんか。

姿が見えないと、その、ちょっとお話ししにくいのですけれど」

「いえ、それはいたしかねます」

「……なぜです?」

「御前に姿をさらしてはならぬと、我が主より命じられておりますので」


 堅苦しい物言いに、ペルセポネは戸惑って扉越しの相手に向かって首をかしげた。


「主、とはどなたです?」

「地下を支配する冥府の王、多くの者迎える王ハデスさまでございます」

「ハデスさま……」


 その名前はペルセポネにも聞き覚えがあった。

 主神ゼウスの兄で、地下世界の支配者。

 冥府を統率する冷厳な恐ろしい神だと、ニンフたちから聞いたことがあった。


 では、ここは――。


「――ここは、地下の世界……冥府なのですか」

「左様です」


 淡々とした口調がペルセポネの問いを肯定する。


「この部屋ではご自由になさってください。

我らはあなたさまのお目覚めを我が主に知らせて参りますので、どうぞこちらでお待ちを」


 それでは――そう言い残し、鳥の羽ばたきに似た音がしたかと思うと、それきり次の間はしんと静かになってしまった。

 耳を澄ましても衣ずれの音も聞こえない。


 ペルセポネは一人、見知らぬ世界に取り残された心地になって、不安げにテラスの外へと視線を向けた。



 そのときハデスは、自室で一人、彼らしからぬ落ち着きのなさを露呈していた。


 椅子に身を沈めて何か深く考え込んでいたかと思うと、不意に立ち上がって部屋の扉へ向かう。

 が、扉に手をかけようとしたところで急に制止し、何か思案したかと思うと、回れ右をしてまた椅子に座り込んでしまう。

 そしてしばらくまた何事か考え込み、かと思うと立ち上がり――と、先ほどから同じことを何遍も落ち着きなく繰り返している。


 その様子を、窓枠の影からこっそり観察しているのはヘルメスだ。

 窓の外の観察者の存在にまるで気づいていないハデスは、溜息をついたり考え込んだりしながら、部屋の中を行ったり来たりしている。


 見ているこちらが何だか居たたまれなくなってくるな――ヘルメスはつられて小さく溜息をついた。

 しかし、この状況、やはりただ様子を見ていればいいものではないようだ――ヘルメスは覚悟を決めて、窓を拳で軽く叩いた。


 音に気づいて、振り向いたハデスはさすがに驚いた表情を浮かべていた。


「ヘルメス……なぜここに」

「いやあ……何と言いますか……」


 ハデスが開けてくれた窓から部屋に這い上がって、ヘルメスは金髪をかき上げながら笑った。


「ゼウスさまに言いつけられまして……様子を見に来ました」


 その言葉に、ハデスの表情はたちまち険しくなる。


「ヘルメス、これは一体どういうことだ」

「はい?」

「あの大地の異変、普通ではない。

ゼウスが何かやらかしたのではないか。

今度は、あれは何を企んでいる」


 うわあ、バレてるよ――鋭く言い当てられて、ヘルメスは思わず天井を仰いだ。

 さすが兄弟。

 短いつきあいでもなし、何かあるとその元凶にすぐさまゼウスが思い当たるというのはさすがだ。


 しかしこれでは、さりげなく後押しする、ということは無理なようだ。

 ヘルメスは早々に、ゼウスの計画をハデスに打ち明けてしまうことに決めた。


「ハデスさまの推察通りです。

これはゼウスさまが、ペルセポネさまを冥府に招くために企んだことで」

「なぜ」

「ゼウスさまは、ハデスさまがペルセポネさまを見初められたと、そう思って、お二人を引き合わせるために、こんな大がかりなことをしでかした次第です」


 開き直ったヘルメスは、ゼウスの計画をあっさり暴露する。

 ハデスは一瞬その双眸を見開くと、眉間にしわを寄せて顔を背け、床に向かってぼそりとつぶやいた。


「……余計な世話だ……」

「はあ、全くもって、それは僕も同感です」


 思わず心からの同意を示して、ヘルメスはしかし、ハデスの言葉からそれにふと気がついた。


「ハデスさま、もしかして図星なんですか?」

「…………」

「ペルセポネさまのことがお好きなんですか?」

「…………」

「好きなんですね?」

「…………」


 ヘルメスが一言言うごとに、ハデスのそらした視線がどんどん床に引っぱられるようにうつむいていく。

 無造作に伸ばしている髪に隠れて、その表情は確かにはわからなかったが、顔がわずかだが赤く染まっているようにヘルメスには見えた。


 図星だ、当たりだ、ゼウスの見立ては大当たりだったのだ――ヘルメスは心底驚いて目をみはった。

 と、同時に、いつハデスはペルセポネのことを知ったのか、何がきっかけで想いを寄せるようになったのか、ペルセポネのどこを気に入ったのだろうか――と、野次馬めいた好奇心がヘルメスの胸にわき起こった。


 突っ込んで聞いてみたいが聞かずにいるべきだろうか、けど聞きたい、とヘルメスがうずうずしていると、部屋の外から女の声がかかった。


「失礼いたします。我が主はいらっしゃいますか」

「エリニュスか。どうした」


 配下の声に、ハデスは冥府の王の顔になって応える。

 慇懃な女の声は、平素の沈着さをどこか欠いている様子だった。


「ペルセポネさまがお目覚めになったので、知らせに参ったのですが……」

「何か問題か」

「申し訳ございません。

ペルセポネさまのお姿が見当たらないのです」

「なに」

「どうやらお一人で館の外に出て行かれてしまったらしく。

我らの落ち度です。お許しください」


 エリニュスの言葉に、ハデスの面に緊張が走った。


「我が主のお許しがいただけますなら、すぐにお探しして館まで無事にお連れいたしますが」

「……いや」


 その申し出に、ハデスはかぶりを振って応えた。


「言ったはずだ、お前たちは姿を見せてはならない……」

「しかし、それではいかがいたしますか」


 思案するハデスの横顔を盗み見て、ヘルメスはふとあることを思いついた。

 これはいい機会かもしれない――。


「ハデスさま、これは大変ですよ。急いで探しに行ってあげないと」

「ヘルメス」

「地下の世界はとてつもなく広い。

この世界に不慣れなペルセポネさまがたったひとりでは、どこに迷い込んでしまわれるかわかりませんよ。

さあ、急いで探しに行かないと」


 そう言ってヘルメスは、ハデスの背を扉へ押しやる。


「あなたはここの王でしょう。誰よりもこの世界のことを知っている。

あなたが行かなくて誰が行くんです。

さあ、行って行って。ほらほら、さあさあ――」


 ぐいぐいと背を押されて、ハデスは戸惑った表情を浮かべていたが、ややあって、意を決した様子で表情を引き締めた。


「――わかった、私が行く」


 そう言って、ハデスは颯爽と、足早に部屋を飛び出していった。

 その後ろ姿を見送ってから、ヘルメスは微苦笑を浮かべて独りごちる。


「……父上の変なところが似てしまったかなあ、僕」


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