二章 ペルセポネの略奪 ④
銀の月が東の空に姿を現し、そして西の彼方に去り、太陽が再びその偉容を現す。
エレウシスは今日も、清々しく平和な朝を迎えた。
豊穣の女神デメテルが神殿の自室で、巫女たちに手伝わせながら身支度を調えているところへ、ペルセポネが顔をのぞかせた。
「お母さま、もうお出かけ?」
鏡に向かって、巫女に髪をすかせていたデメテルは、その肩越しに映り込んだペルセポネに微笑みかける。
ペルセポネは部屋に入ると、母の髪をすく巫女の側に寄って目配せをする。
心得て巫女は微笑み、手に持っていたくしをペルセポネに手渡した。
受け取ったくしで丁寧に髪をくしけずるペルセポネの手つきに身を任せて、デメテルは心地よさそうに目を閉じた。
「今日はどこまでお出かけになるの?」
「西の土地を見回ってくる予定よ。少し遠出になるかもしれないわ」
「お帰りは遅くなる?」
「なるべく早く帰ってこられるようにするわ。
だから心配しないで、いい子でお留守番していてちょうだい」
デメテルの言葉に、ペルセポネは素直にうなずいた。
巫女に手伝ってもらいながら母の艶やかな長い髪をきちんと結い上げ、その出来映えにペルセポネは満足そうに笑顔を浮かべた。
デメテルも目を細めて笑み、振り返って、労うようにペルセポネの髪をなでる。
「ありがとう、ペルセポネ」
デメテルの肩に巫女がマントを着せかける。
白い手で衣の裾を引き、デメテルは優美な足取りで神殿の門に向かった。
神殿の門前には女神の見送りのために、すでに巫女たちが集まっていた。
デメテルは居並ぶ巫女たちにまんべんなく視線を向けて微笑む。
「では、いってきます。留守をよろしく」
「はい、お気をつけていってらっしゃいませ」
整然と頭を垂れてデメテルを送り出す巫女たちの先頭に立って、ペルセポネも神殿から出かけていく母の背中を見送った。
いつもと変わらない神殿の朝の光景だ。
門前の階段を下りて行くデメテルの足元を、涼しい風が吹き抜ける。
ふと、風に吹かれて野の草が騒ぐ様子に、デメテルの胸に予感めいたものが影のようによぎった。
唐突に不安に駆られて、デメテルは思わず出たばかりの神殿を振り返る。
そこにはしかし、いつも通りの笑顔で手を振りながら、自分を見送る愛娘の姿があるだけだ。
ペルセポネの笑顔を見ると、胸に一瞬差し込んだ不安も気のせいに過ぎなかったかのように消え去る。
デメテルは自身の思い過ごしを心の中で笑い、ペルセポネに笑顔を返して、改めて神殿に背を向けると勤めへと出かけていった。
同じ頃、大地の下でも勤めに出向いていく者があった。
冥府の神、ハデスである。
住まいしている館から馬車を駆り、ハデスがやって来たのは冥府の神殿だった。
地上から下りてきたばかりの死者たちは、まずこの神殿に集まり、順に裁かれて、地下世界での身の置き場を定められる。
その裁量を下すのが、ハデスの使命のひとつなのだった。
神殿に到着し、門前に馬車を着けると、灰色の長衣を身にまとった三人の男たちがハデスをうやうやしく出迎える。
彼らはハデスを補佐して死者を裁く役目を持った判官たちである。
「お待ち申し上げておりました、我が主よ」
三人の判官はそろって深々と頭を下げる。
馬車を降りたハデスは、その出迎えに対して黙然とうなずきを返し、神殿の階に足を踏み出す。
その足が、階段の途中で不意に止まった。
判官の一人が、立ち止まって頭上を見上げているハデスに、怪訝そうな視線を向ける。
「いかがされましたか」
「……大地が騒がしい……」
つぶやいたハデスの面は、不穏な気配でも感じたかのように、いつになく険しく引き締まっている。
三人の判官は互いに顔を見合わせ、ハデスの視線を追って頭上を見上げてみる。
だが、暗い地下世界の天井は、常と変わった様子があるようには見えなかった。
「我らには、何も感じられませぬが……」
判官の言葉に、ハデスは視線を下ろして彼らを見やる。
鋭い深紅の双眸に射すくめられるように見られて、判官たちは表情を緊張させて姿勢を正す。
「いや……気のせいだったようだ」
ハデスは前言を撤回するようなことを言うと、そのまま階段を上りきって神殿の門をくぐっていった。
三人の判官は慌ててその後に続く。
気のせい、と判官たちに言ったが、ハデスの胸中には一瞬確かに感じた、頭上の大地が発する気配が不安の欠片となって引っかかっていた。
蠢動するかのような大地のかすかな揺らぎが、変化とは無縁の地下の空気をざわめかせて肌をなでた。
本当に一瞬のことであったし、目に見える異変は見つけられなかったが、気のせいと思いきれるものでもなかった。
しかし、ハデスは胸にかかる不穏な予感を振り払う。
単に、地上で誰か迷惑な者が騒ぎを起こしているだけなのかも知れない。
よしんば、何か大地を揺るがすような異変が起こったとして、それが地下にまで重大な影響を与える事態になるとも考えられなかった。
ハデスはこのときはそう思って、目の前に控えた務めに意識を向けることにした。
大地のざわめきなど、自分に関わりのあるものではないと思い込んで――。
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