二章 ペルセポネの略奪 ⑤
神殿から出かけるデメテルを見送ったペルセポネは、ニンフたちと共にエレウシスの野に遊びに出ていた。
「ペルセポネさま、蝶が飛んでいますよ。可愛らしい――」
陽気に誘われてか、真っ白な蝶が数羽、花々の間を優雅に飛び交っている。
ニンフたちは花摘みの手を止めて、蝶のまねをして若草の舞台で踊り出した。
白い衣の裾がひらひらとひるがえり、野原の上に笑い声がはじける。
その楽しそうな様子に惹かれて、ペルセポネは編み上げた花冠を手に立ち上がる。
ニンフたちの踊りの輪に加わろうと歩き出した足が、ふと何かに気づいて立ち止まった。
ペルセポネの視界に止まったのは、白い水仙の一輪だった。
六枚の花びらが輝くばかりに白く、すらりとたった一輪だけで咲く気高い風情に、ペルセポネの心は逆らい難い呼び声を聞いたかのように、その水仙に引きつけられていた。
踊りのことなどすっかり忘れてしまって、ペルセポネは水仙の花に歩み寄った。
やや大ぶりな花は、混じりけのない真っ白な色といい、きちんと整った姿形といい、このエレウシスの野に咲くどの花よりも美しかった。
かがみ込んで顔を寄せると、清涼な香りが優しく鼻腔をくすぐって、ペルセポネはうっとりと夢見るような表情を浮かべた。
この水仙をお土産に摘んでいったら、お母さまはきっと喜んでくださる――そう思ってペルセポネは、その比類ない一輪を手折ろうと手を伸ばした。
そのとき。
不意に、地の底から低く、猛獣のうなり声に似た音が聞こえてきた。
音はどんどん地表へと近づき、大きくなって、その地鳴りと共にエレウシスの野は激しく揺れはじめる。
突然の地震に驚き、揺れのあまりの大きさに立っていることができず、ペルセポネは身をこわばらせて草の上にうずくまる。
ニンフたちも踊りを止めて、今までに起きたことのない大地の異変に、何事かと身を寄せ合って縮こまった。
響き渡る地鳴りの音に耐えきれず、思わず耳を覆ったペルセポネの目の前で、揺れる大地が突如崩れる。
若草と野花を敷きつめて美しく整えられたエレウシスの野が、無残に引きちぎられて黒い地肌があらわになる。
ニンフたちが恐怖に思わず上げた悲鳴が、大地の起こす轟音に混ざって野に響く。
大地が激しく身をよじる度、黒い地肌が盛り上がり、あるいは崩れて穴を開ける。
隆起し、陥没する地面に、見つけた水仙の一輪が呑み込まれようとしているのを、ペルセポネの視線が捕らえる。
何が起きているのかわからないまま、ペルセポネはとっさに崩れる大地に向かって身を乗り出し、手を伸ばした。
呑み込まれようとする寸前、ペルセポネの細い手が水仙の茎をつかんだ。
水仙を救い上げてほっとした瞬間、
「ペルセポネさま――!」
ニンフたちの叫び声が遠く聞こえた。
ペルセポネの身体が宙に浮く。
水仙に気を取られていたペルセポネの身体は、真っ二つに裂けた大地の上に投げ出されていた。
盤石のはずの大地は、今や無情の奈落となっていた。
足場も手がかりもない。伸ばした腕はなすすべもなく虚空をかいた。
見開いた瞳に映るエレウシスの野がたちまちに遠ざかる。
底の知れない真っ暗な大地の口が、落下する無力な乙女を呑み込もうと大きく開かれる――。
地下世界、冥府の神殿にて。
そのときハデスは神殿での勤めを滞りなく終えて、次の勤めに向かうために神殿の門を出たところだった。
門前にはすでに、二頭の黒馬をつないだ馬車が引き出されており、主人の戻りを待ち構えていた。
ハデスが馬の手綱を取り上げたとき、神殿から慌ただしい足音が聞こえてきた。
振り返ると、三判官の一人がハデスに向かって走ってくる。
普段、何事にも冷静である判官の、初めて見せるうろたえぶりに、ハデスは不審そうに眉をひそめた。
「我が主よ、大地が――」
その言葉も言い切らないうちに、突然、足元が音を立てて揺れ出した。
はじめは痙攣するように小刻みだったのが、次第に音も揺れも大きくなっていく。
足元が崩れるかと思うような揺れに、ハデスはとっさに馬車にすがって身を支えた。
響く轟音とうねる振動に、馬は怯え狼狽して、鋭いいななきを上げて足を踏みならす。
判官も立っていられずに神殿の柱にしがみついているが、神殿自体もまた耳障りな音を立てて揺れている。
冥府全体が、悲鳴のようなきしみを上げて揺れ動いていた。
「何事――」
異変の元凶を求めて視線を周囲に巡らせるハデスの頭上で、次の異変が起こった。
暗い地下世界の天井に、白刃が振り下ろされたかのように亀裂が走る。
真っ二つに裂けた天井から降り注ぐ、強烈な光のまぶしさ。
ハデスは手をかざして反射的に目をきつく閉じた。
天地開闢以来、はじめてのことだ。地の底が太陽の光を受けるのは。
かざした手の下から、ハデスは目をすがめて裂けた大地を振り仰ぐ。
裂けた大地の向こう、遥か高みに青空が見える。
降り注ぐ陽光の中に、小さな影がよぎる。
鳥影と思われたそれは、しかし大地の裂け目から見る間に地底に近づき――落下していた。
ハデスの見開いた深紅の双眸に、白い衣を羽のようにはためかせて落ちてくる、乙女の姿が今やはっきりと映っていた。
落ちる――。
身体を包むその感覚に、ペルセポネの頭の中は真っ白になっていた。
一瞬、身体が浮き上がったと感じたら、次の瞬間にはもう地底に引っぱられるように落下していた。
緑の野原が遠ざかり、青空が裂け目の向こうに小さくなっていく。
ニンフたちの声も聞こえず、ペルセポネが声を上げたとしても、もう彼女たちには届かない。
手を伸ばしてもすがれるものはなく、ただこの目に見えない力に身をゆだねるほかにない。
誰か――。
底の見えない、果てしない黒で埋め尽くされた大地の口。
そこに呑み込まれながらペルセポネの発した叫びは、声にならずに頭の中で反響していた。
助けて――。
乙女の叫びは報われないものになるはずだった。
しかし、虚空にこだまするその助けを求める声を聞いたかのように、地の底から力強い音を響かせて近づいてくるものがあった。
ペルセポネは必死に音の方へ目を向ける。
それは馬蹄と車輪の響きだった。
暗い大地の底から馬蹄を響かせて駆け上がってきたのは、黒馬に引かれた黄金の馬車だった。
二頭の力強い黒馬が威風あふれる黄金の二輪馬車を引き、岩壁を蹴立て、空を駆けてあっという間にペルセポネのかたわらに舞い上がる。
その馭者台で手綱を取る長身の青年が、すばやく腕を伸ばして落下するペルセポネの細腕をつかんだ。
空中で縫い止められたように、青年とペルセポネの視線が出会う。
黒衣をまとい、黒髪をなびかせて巧みに手綱を操る青年の、まっすぐ見つめてくる瞳の赤に、ペルセポネは意味もわからないままじっと見入ってしまっていた。
青年の思いがけず力強い腕がペルセポネの華奢な身体を馬車に引き上げ、持ったままでいた花冠がペルセポネの手から投げ出されて無残に散る。
見知らぬ力強さを持った腕にしっかりと抱きとめられ、そこで初めて乙女は悲鳴を上げた。
まるで、冥府の馬車が乙女を救い上げるのを見計らったかのように、大地は開いたときと同様に、大きな音と揺れを起こしながら、おもむろにその口を閉じ始めた。
地上を目指して駆け出そうとしていた黒馬は、その大地の動きに阻まれて、宙で空しく足を踏みならす。
馭者台から唖然と見上げるハデスの眼前で、大地は瞬く間に自ら作った裂け目を閉ざしていく。
仰ぎ見る青空は細くなり、太陽の光はさえぎられる。
乙女を地上に帰すまいとするかのように。
大地は馬車を呑み込むと、地響きを上げてその口をぴたりと閉ざす。
わずかの継ぎ目も見えないくらいにぴったりと。
地上の光のほんの欠片も地下に降ることのないように。
地下に押し隠したものがほんの一瞬でも、地上から見とがめられることがないように。
今までの異変が何かの冗談か夢であったのかと錯覚してしまうほど、大地が静まった後には、何の変哲もない緑の大地が広がっていた。
柔らかな風が吹きすぎる穏やかなエレウシスの風景の中で、衝撃に青ざめて立ち尽くすニンフたちだけが残された。
その一部始終を目撃していた太陽は、無言でその上に照り映えていた。
この事件を最初から最後まで見届けていた者がもう一人。
「……とんでもないことになった」
ヘルメスはエレウシスの上空で、サンダルの翼を羽ばたかせながらそう独りごちた。
ゼウスから、エレウシスに待機してそこで起きることを見届けるように、との指示を受け、言われるままに朝から上空で、何が起こるのかと待ち構えていたのだったが。
とんでもないことを目撃する羽目になった。
ヘルメスは、オリュンポスの宮殿で今頃ほくそ笑んでいるであろう、迷惑な父にして主の顔を思い浮かべて盛大な溜息をついた。
これがおそらく、ゼウスの企んでいた計画なのだろう。
なんと派手で人騒がせな企みだろうか。
しかし――ヘルメスはエレウシスの野を見下ろして、頭痛をこらえるような表情を作った。
ペルセポネの取り巻きのニンフたちが、ようやく衝撃から我に返って、手を取り合いながら逃げるように野原を駆け去っていくのが見える。
向かう先は当然、女神デメテルの神殿だろう。
彼女たちは、自分たちの目の前で起こったことを、女神になんと報告するだろうか。
ヘルメスにはそれがひどく気がかりだった。
この事件の背景を知らない者――ゼウスの企みだと知らない者には、ハデスが無理矢理、ペルセポネを地下にさらっていったように見えはしないか。
事件がペルセポネの略奪として、地上の神々の間に知れ渡ってしまったら――そこまで考えて、ヘルメスは想像される嫌な展開を振り払うように、明るい金髪を手でかき回した。
全知全能と自称するゼウスが、どこまで先を読んで計画を立てているかに期待しよう。
ともかくヘルメスに今できることは、報告のためにオリュンポス山に飛んで帰ることだけだった。
ヘルメスは青いマントをひるがえすと、風に乗ってその場を飛び立った。
大地の不穏な気配と、言いしれぬ不安を胸に感じて、デメテルは勤めを早々に切り上げると神殿へと慌ただしく帰還した。
とてつもなく恐ろしい予感に胸中を支配されて、デメテルは一刻も早く愛娘の顔を見て安心したかった。
ペルセポネの顔を見ればこんな不安など消えてしまう。
あの子がいつもと変わらない、花のような笑顔を見せてくれれば――そう思って神殿に帰り着いたデメテルを出迎えた中に、しかしペルセポネの姿はなかった。
「あの子は……ペルセポネはどこ。どこにいるの」
女神の必死な問いに、巫女たちは悲嘆に顔をうつむけて答えない。
ペルセポネの取り巻きであるニンフたちは、青ざめた頬に涙を幾筋も流して、肩を寄せ合い震えている。
デメテルの肩に、絶望的な恐怖ががっちりとつかみかかる。
心臓がさっと凍りつき、血の巡りも呼吸も止まってしまう。
デメテルは血の気の引いた顔で、長い衣の裾をからげて神殿を飛び出した。
ペルセポネの姿を求めて、彼女がいつも遊んでいた花咲く野原に駆けつけるが、野花と若草が広がる大地の上に、愛しい娘の姿は見つけられなかった。
「ペルセポネ――」
娘の名を呼びながら、デメテルは野原をさまよう。
声を枯らして呼びかけ、髪を乱して探しても、ペルセポネのいた名残さえ見つけることはできなかった。
娘を求める母の、気も狂わんばかりの叫びが、空しく野の上に響いた――。
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