二章 ペルセポネの略奪 ③



 地下の世界には昼も夜も訪れない。

 靄々とした闇の世界、変化することのない自らの領土を、ハデスは館のテラスから見下ろしている。


 銀の燭台に灯された青白い炎が、地下の支配者の端正な横顔を照らして、その物憂げな様子を更に引き立てていた。


 その姿をこっそりと、柱の陰からうかがっているのはヘルメスだ。

 深紅の双眸に愁いをたたえて物思いに沈んでいるハデスの様子を観察しながら、ヘルメスはゼウスの言葉を思い出していた。


 ハデスは恋をしている――そう言われれば、恋い慕う相手を想って切なく思い悩んでいる、と見えなくもない。


 冥府の王ハデスは、自身の使命の管轄である地下の統治と死者の統率以外のことには無関心である、というのが地上の神々の共通した認識だった。

 ヘルメスも当然そう思い込んでいたので、ハデスが地上の女神に関心を持つ、それどころか恋をしているというのは、なかなか信じにくいことだった。


 しかし、ゼウスの、こと恋愛沙汰に関する見立てが外れるということも、まずあり得ないのである。


 このことで、ゼウスは何か企んでいるらしい。

 だが、何を企んでいるにしろ、その計画がうまくいくとは思えなかった。

 ヘルメスはゼウスの美貌に浮かんだ笑みを思い出して、小さく溜息をつく。


 ヘルメスは今、そのゼウスの使者としてここにいる。

 正直なところ気が進まないが、ハデスに伝言を届けなければいけない。

 いつまでもこうして様子をうかがっているわけにもいかない――意を決して、ヘルメスは柱の陰から進み出た。


「ハデスさま、お邪魔します」


 遠慮がちにかけられた声にハデスは振り向く。

 その表情にはあまり変化がないが、発せられた声には怪訝そうな響きがあった。


「ヘルメス、何用か」

「たびたびお邪魔してすみません。

実は、ゼウスさまから伝言を預かって参りました。

急ぎとのことでしたので、取り次ぎなしに失礼いたします」

「……それで、伝言とは」


 うながされて、ヘルメスは生唾を呑み込むと、ゼウスから預かった言葉をそのままハデスに伝える。


「『乙女心は男の強引な行動に弱い。私が許す』……以上です」

「…………」


 ヘルメスは息を詰めて、ハデスの反応をうかがう。

 ハデスは表情を変化させないまま、短い伝言を吟味するように黙り込んでしまった。


「……それは、何の話だ……?」


 ややあって、ハデスはわずかに眉根を寄せると、困惑をにじませてヘルメスに問う。

 当然の疑問だろうと、ヘルメスも思う。

 しかし、ヘルメスにはハデスの疑問に対する答えを持っていない。

 何しろ、伝令役を仰せつかったヘルメス自身、この伝言の意味するところの詳細をゼウスから聞かされていないのだから。

 意味を尋ねてみても、ゼウスはただ「そのまま伝えればいいから」としか言わなかった。


 よからぬ企み事を胸に秘めた、策士の笑みを浮かべて――。


「僕は何も知りません。

ただ伝言を届けるようにと、言われてきただけですので」

「……?」


 困惑した様子の冥府の王に向かって、生真面目な伝令の神は、ことさら澄ました表情でそう答える。

 ヘルメスとしては、それ以外に答えようがない。


「それではこれで。失礼します」


 言うべきことを言い終えて、ヘルメスは物問いたげな表情のハデスに背を向けると、逃げるようにその場を後にした。

 不審がる視線が背後から追ってくるように感じたが、振り返らず、一直線に館の扉へと向かった。


 重厚な扉をくぐり館の外へ出て、ようやくヘルメスはほっとして息をつく。

 ともかく、自分のやるべき務めは果たした。

 そのことに安堵しつつも、胸にかかった不安の黒雲は晴れない。


 これから何が起こるのか、知る者は誰もいないのだ――ゼウス以外には。


 ヘルメスは背後にそびえる冥府の館を振り仰ぐ。


 暗闇の中、青白い灯火に照らされ浮かび上がる、漆黒の館の重々しいたたずまいを見上げて、ヘルメスは小さくつぶやいた。


「……どうなっても知らないぞ……」



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