二章 ペルセポネの略奪 ②



 地下から地上に戻り、諸々の使いの任務を終えたヘルメスは、青いマントをなびかせて夕焼けの空を駆けていた。


 目指す先は、万年雪を抱えそびえる霊峰オリュンポス山。天突くオリュンポス山の頂には壮麗な極彩色の宮殿が、威厳にあふれる姿を見せている。

 その宮殿に住まうのは、ギリシアの神々の頂点に立つ主神ゼウスである。



 オリュンポス山の宮殿に降り立ったヘルメスは、奥の部屋を目指して廊下をまっすぐに進んでいく。


 宮殿の中は神々の笑いさざめく声や、明るい音楽があちこちから聞こえてきてにぎやかだ。

 宴好きの神々のために、宮殿ではほとんど毎日、多くの神々が集って宴が開かれている。

 今も広い宮殿のどこかの広間で、盛大に宴が催されているのだろう。

 杯を交わし合う様子、女神たちの笑い声、響き合う音楽には、しかし、ヘルメスは足を止めずに、迷うことなくこの宮殿の主の部屋へと向かった。



 その部屋は宮殿の一番奥にあり、厚い雲の帳が下りていた。

 帳越しに声をかけようとしたヘルメスは、口を開きかけて制止する。


 部屋の中から話し声が聞こえる。

 男の声と若い女の声が、なにやら甘やかな雰囲気で言葉を交わし合っているようだ。


「……ようやく二人きりになれた……さあ、こちらにおいで……」

「でも、私……まだ心の準備が……」


 漏れ聞こえる艶めかしい会話の様子に、ヘルメスは思わず天井を仰ぐ。

 声をかけるべきかこのまま立ち去るべきか――ヘルメスは眉間にしわを寄せて逡巡したが、結局、役目を優先させることに決めた。

 ヘルメスはわざとらしいせき払いで気合いを入れると、部屋の主の名前を呼ぶ。


「――ゼウスさま」

「恥ずかしがることはない。可愛いね、そんな風に頬を染めて……」

「ゼウスさま」

「君は先ほど、その心を私に明かしてくれたね、その花びらのような唇で。

心を打ち明けてくれたように、その身体も私にゆだねてくれればいい……」

「父上」

「恐いのかい。震えているね……って、ん、何だ、そこにいるのはヘルメスか」

「そうですよ」


 ようやく部屋の主の注意が外に向いて、ヘルメスはほっと溜息をつく。

 このまま延々と口説き文句を聞かされてはたまらない。


「定期連絡の報告に参りました。入ってもよろしいですか」

「ああ、待った……今、ちょっと取り込み中……うん、悪いね、気の利かない奴で……ヘルメス、そこで待ってて……気を悪くしないでくれるかな。

今度また、近いうちに落ち着いて会おう、必ず……ああ、約束しよう。

そのときまでに、君は心の準備を整えておいてくれるね。

私に身も心もゆだねてくれると――」

「入りますよ」


 長い口説き文句が再開されそうな気配を察し、ヘルメスは強引に雲の帳を押しのけた。

 広い室内に足を踏み入れると、虹の帳の向こうに慌ただしく逃げ去る、若い女の後ろ姿がちらりと見えた。

 ヘルメスは小さく溜息をつくと、雲を集めて作られた寝台に悠然と寝そべる男に視線を向ける。


 長い金髪を寝台の上に散らして、着崩れた衣もそのままに身を起こした男は、風格のある美貌の持ち主だ。

 見つめられるとどんな女も恋に落ちると言われる精悍な青い双眸を細めて、男は全く悪びれる様子もなく、かといって怒った様子もなく、ヘルメスの視線を受け止めている。

 彼こそオリュンポス十二神の筆頭、神々の父、遠き方まで雷鳴響かせるゼウスである。


「いいところを邪魔してくれたなあ、ヘルメス」

「こっちも仕事ですから。

報告を済ませないと、今日の仕事が終えられません」

「真面目ね、お前は。一体、誰に似たんだか……」

「僕は一応、あなたの息子ですけど」


 憮然とした表情でヘルメスは言う。

 ヘルメスはギリシア中に数多いる、ゼウスの息子たちの一人なのである。


「じゃあ、お前は母親似だな。

で、報告だっけ」

「はい、冥府の定期連絡について」

「て言っても、どうせ地下は何も変わりないだろう。

わざわざ律儀に報告に来なくてもいいさ」


 主神ゼウスは、掟を携えて秩序を守る神とされているが、その神格にあるまじき台詞を平気でのたまって、たびたびヘルメスを呆れさせる。


「確かに、冥府は変わりないようでしたが……」


 言いよどむヘルメスの様子に興味を引かれたらしく、ゼウスは身を乗り出してきた。


「どうした」

「いえ、ハデスさまの様子が、ちょっとおかしかったかな、と」

「へえ……ハデスがどうしたって」

「何か物思いにふけっていたというか……心配事でもあるのかと思ったんですけど、聞いても何でもないと言われるし。

だけど、ペルセポネさまのことを聞かれたんですよね」

「ペルセポネのこと」

「はあ、栗色の髪と緑の瞳の若い女神を知っているか、と。

それで、それはきっとペルセポネさまですよ、とお答えすると、また何か考え込まれてしまって」


 ゼウスの口元に嫌な笑みが浮かんでいることに気づいて、ヘルメスは口をつぐんだ。


「へえ、あのハデスがねえ……ペルセポネをねえ……」

「ゼウスさま、どうかしましたか」

「お前は気がつかないのか、ヘルメス」

「さあ……何のことだか」

「察しろよ、我が子ともあろう者が情けないなあ」


 ゼウスの言葉にヘルメスはただ首をかしげるしかない。

 ゼウスが更に身を乗り出してくるのにつられて、ヘルメスも思わず寝台の側に身をかがめる。


「ハデスは恋をしているんだ」

「恋――」


 世界の根幹に関わる重大事を打ち明けるような調子で言われた言葉に、ヘルメスは思わず絶句する。


「……あのハデスさまが」

「そう、あのハデスが」

「恋って、誰に」

「察しろよ」

「まさか、ペルセポネさま……」


 顔がにやつくのを押さえられない様子で、ゼウスは唖然とするヘルメスをおかしそうに見つめる。


「意外……というか、いつの間に……」


 ヘルメスはただただ驚き、その驚きをうまく言葉にできなかった。


 伝令のために冥府には定期的に訪れていたが、ハデスの変化には今日の今日まで気がつかなかった。

 まして恋をしているそぶりなど、今まで片鱗も見せたことはなかったのに。


 それに、取り合わせも意外だ。

 冥府の支配者としてほとんどの時間を地下世界で過ごし、地上に出ることなど本当に稀なハデスと、地上の世界で母親の治める聖域から外に出たことのないペルセポネでは、まるで接点がない。


 思いもよらないことに、戸惑うというよりはもう混乱してしまっているヘルメスを、ゼウスはにやにやと意地の悪い笑みで見やる。


「だなー。いつの間に見初めたんだか。

まったく、油断も隙もないっていうのはこのことだな」

「それをあなたが言いますか」


 白々しくのたまうゼウスにヘルメスは冷静に突っ込む。

 美女に出会った際のゼウスの瞬発力の高さ、恋愛事に関する反射神経の鋭さを知る者が聞けば、誰でもヘルメスと同じ台詞を発しただろう。

 しかし、当のゼウスは気にする様子もなく聞き流して、


「けど、見る目あるな、ハデス。さすがは我が兄。

これは、私の知らないところで誰か、ハデスとペルセポネを引き合わせようとしてる者がいるのかな」

「誰か、とは」

「さあねぇ。うん、でも似合いの二人だと思うな、私は。

ヘルメス、お前はハデスとペルセポネ、どう思う?」

「いや……僕に聞かれても」

「ペルセポネはいい子だよ。

少し幼いところもあるけど、容姿は間違いなく美少女だし、性格は朗らかで、思いやりがあって優しい。

箱入り娘なせいで世間知らずだから、すれたところが全くなくて、素朴なところが一緒にいて安心できる。

わがままなことは言わないし、ややこしいところも裏表もない素直さが可愛い。

お人好しな面もまた可愛くて、でも他人の考えや感情をよく察する頭のいい子だ。

乙女コレーと呼ばれて、皆から慕われるだけのことはあるよな。

野原で無邪気に花や蝶と戯れるあの子を、独り占めにして毎日愛でて暮らせたら、さぞや幸せだろうなあ」


 滔々とペルセポネの評価をするゼウスの顔を、ヘルメスは瞳を瞬かせてまじまじと見つめた。


「随分とくわしいんですね、ペルセポネさまのこと」

「もちろん。

このギリシアに暮らす女神については、その情報は余さず詳細に収集しているからな。

ほら、私は主神だし、全知全能だし。

自分の統治下にあるものについて、知っておくのは当然というか」

「……さすがです」

「こんなことくらいでほめるなよ」


 笑うゼウスに答える代わりに、ヘルメスは渋い表情で溜息をついた。

 困り者の父にして主を持ってしまったヘルメスの内心などお構いなしに、ゼウスは指先で金髪をもてあそびながら、思案顔を明後日の方に向ける。


「……そうだな、あの子ももう年頃だな……誰かふさわしい者に娶せてもいい時期かな……しかし、何かうまい手を考えないと……」


 独り言を言いながら考え込むゼウスの横顔を、ヘルメスは一抹の不安を抱えながら見返す。

 ゼウスの美貌に、さっきから嫌な笑みが浮かんでいる。

 彼がこういう表情をして何かを企んでいるとき、ヘルメスは大概、厄介な役目を与えられてしまうのだ。

 ややあって、ゼウスの青い双眸がヘルメスの面を見据える。


「ヘルメス、ちょっと頼まれてくれるか」


 来た――このゼウスの頼みは、断りたくても断れるものではない。

 嫌な予感を感じつつも、ヘルメスは小さくうなずいた。


「はあ、何でしょうか」

「伝言を頼む。大至急、冥府まで」


 ゼウスはそう言って不穏に微笑んだ。

 たちの悪いことに、彼のこの笑みはとても魅力的なのだった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る