二章 ペルセポネの略奪
二章 ペルセポネの略奪 ➀
風は海で生まれ、空を駆け、水面を渡ってギリシアの大地をくまなく巡る。
山にも森にも町にも、等しく吹きかかる風だが、黒々とした口を開けた洞窟の中にまでは吹き込まない。
まるで、その奥底に存在するものを忌避するかのように。
ギリシアの大地に点在する洞窟は、地下の世界につながっている。
地下の世界、それはすなわち死者の住む冥府である。
地上と冥府は洞窟によってつながり、そしてまた流れる水、川によってもつながっていた。
川は流れのままに流れ、落ちるに任せて落ち行き、洞窟の奥深く地下の底まで旅をする。
そうして作られたゆるい川が、地下の世界には何本も流れている。
満ちて広がる闇の中を川は横切り取り巻いて、いずことも知れない果てに向かって音もなく進んでいく。
その川辺にたたずむ人影がある。
ぽつぽつと灯る仄白い灯りをはじいて、さざ波が時折きらめくのを眺めているのは、背の高い青年である。
青年はその面を覆うように、漆黒の髪を無造作に伸ばしており、着ているものも丈の長い黒の衣であるので、黙然とたたずんでいると、地下の闇の中から溶け出てきたか、あるいは闇の中へ溶け入ってしまいそうに見える。
川面を見つめるその青年の手の中には、一輪の白い水仙の花があった。
「――ハデスさま――」
呼ばれて、黒衣の青年はうつむけていた顔を上げた。
黒髪に縁取られたその面は、青白くも見えるが端正だ。
気品のある面立ちの中で、長い前髪の陰からのぞく切れ長の深紅の双眸が、見る者に畏怖の念を抱かせる。
高貴な風情と憂愁の雰囲気をまとうこの神こそ、冥府の支配者、多くの者迎える王ハデスである。
暗い地下の世界を統べ、死者たちを統率する彼を畏れて、その名を直接に呼ぶ者は少ない。
その数少ないうちの一人が、川辺の岩の上を身軽に伝ってやって来る。
洞窟の暗がりの中でもわかる明るい金色の髪と、少年の面影を残した顔立ちの美青年である。
翼のついたサンダルと青いマントが、彼が伝令の役目を持つ者であることを示している。
ギリシアの地に数多いる神々の中でも、特に偉大な十二の神の一人、伝令の神ヘルメスだ。
ヘルメスは常は地上を駆け、神々の間でさまざまな使者の役を務めている。
また、地上から隔絶された地下の世界に下りていき、地上の様子をハデスに伝え、地下の様子を主神ゼウスに伝達するのも、彼の大切な使命なのだった。
「こんにちは、ハデスさま。定期連絡に来ましたよ」
ヘルメスは跳ぶような足取りでハデスの側までやって来ると、彼の長身を見上げて笑った。
「館にも神殿にも姿が見えなかったので、探してしまいましたよ。
こんなところで何をしていたんですか」
「――別に」
気軽な調子で尋ねるヘルメスに、ハデスはたった一言で素っ気なく答える。
きょとんとするヘルメスを尻目に、ハデスは川面にかがみ込むと、手の中の水仙を黒い水の上に浮かべた。
音もなく流れていく白い花を、ハデスの視線が物惜しそうに追っていく。
「……こちらは変わりない。ゼウスには、そう伝えるといい」
視線は川の流れを見つめたまま、ハデスはヘルメスに向かって無感情に言った。
「は、はい……オリュンポスも何も変わりはありません。
地下も平穏であるなら何よりです」
言いながら、ヘルメスは何とはなしに感じる違和感に困惑していた。
もともとハデスは、決して愛想がいいと言える柄ではない。
無口であるし、表情を崩すことも滅多にない。
しかし、今日の彼はいつにもまして、態度が素っ気なさ過ぎるように思えた。
「ハデスさま、本当にこちらは変わりないですか」
「そう言っている」
「はあ……些細なことでも、ないのでしょうか」
「ない」
言い切られてしまった。
そう言われてしまえば、ヘルメスにはもう食い下がることもできない。
釈然としない気分を呑み込んで、
「何事もなければこれで僕は失礼しますね。
また近いうちに伺います」
そう言って、ヘルメスは地上へ帰ろうときびすを返す。
確かに、ハデスの姿を探して冥府をあちこち見て回ったが、変わった様子は見られなかった。
たぶん自分の思い過ごしだろう――そう結論づけて、自身を納得させたヘルメスだったが。
「――ヘルメス」
背後から呼び止められて、ヘルメスは驚き振り返る。
極端に無口で、自分から口を開くことなどほとんどないハデスに、帰り際に呼び止められたのははじめてだった。
川辺にたたずむ冥府の王を、ヘルメスは意外な気持ちで見返した。
「はい、ハデスさま。何かご用ですか」
「……聞きたいことがある」
ヘルメスはまた驚く。
ハデスが自分から質問してきたことなど、今までにあっただろうか。
「僕にわかることでしたら、何なりと」
「栗色の髪と緑の瞳の、年若い女神を知っているか」
質問の内容に、またまたヘルメスは驚かされた。
今日は一体どういう日だろう、あのハデスさまに女神について聞かれるなんて――驚倒しつつもヘルメスは、つとめて平静な態度でハデスの質問に答えた。
「たぶんそれは、ペルセポネさまではないですか」
「……ペルセポネ」
「はい、豊穣の女神デメテルさまの一人娘です。
若い女神で、栗色の髪と緑に瞳というなら間違いないです。
花がお好きな、かわいらしい方ですよ」
「……そうか……」
ペルセポネ――その名を聞いたとたん、ハデスは何か考え込む風に沈黙してしまった。
ヘルメスは怪訝な表情を浮かべて、ハデスの白い面を見つめる。
「あの、ペルセポネさまが何か……」
遠慮がちな調子でヘルメスが尋ねると、ハデスは我に返った様子で、ふいと視線をそらした。
「……なんでもない。引き留めて、すまなかった」
それだけ言うと、ハデスはさっと長身をひるがえして、冥府の彼の館へと足早に去っていってしまった。
常日頃、何にも動じる気配も見せない落ち着きはらった彼らしからぬ、まるで逃げるような慌ただしい態度に、ヘルメスは心底呆気にとられて、しばらくその場に硬直してしまったのだった。
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