一章 エレウシス、箱庭の楽園 ③



 太陽が赤々と輝きながら西の空へと行進を速める頃、豊穣の女神の神殿では、一日の務めを終えて帰ってくる主を出迎えるために、慌ただしく活気づく。


「お帰りなさいませ、デメテルさま」

「お帰りなさいませ」


 そろいの白い装束に身を包んだ巫女たちが、神殿の入り口に並んでうやうやしく頭を垂れる。

 神殿の主の帰還である。


「――ただいま」


 斜陽を背に受けて神殿に現れたのは、堂々とした貫禄と魅力にあふれた身体つきの、妙齢の美女だ。

 美しいひだを作ってその肢体を包む長衣の裾を引いて、神殿の門をくぐりながら、美女は行儀よく居並ぶ巫女たちに労いの微笑みを向ける。

 豊かな栗色の髪をきっちりと結い上げて、装いに高貴な風情のあるこの美女が、神殿の主、豊穣の女神デメテルである。

 たおやかな身体に羽織った女神のマントを、巫女のひとりが丁寧に脱がせながらデメテルに尋ねる。


「本日のお勤めはいかがでしたか、デメテルさま」

「滞りはないわ、もちろん。

今年も大地のすみずみまで、豊かな実りがもたらされることでしょう」


 威厳と慈愛を宿した緑色の瞳を細めて、デメテルは巫女に答えた。

 大地の実りを司るデメテルは、オリュンポス十二神の中でも特に女神としての務めに熱心で勤勉である。

 男神にも負けず劣らず、精力的に毎日ギリシアの大地を見回って、女神の恩恵に偏りがないように地上の営みを監督している。

 大地が荒廃することなく、人々も小さな生き物たちも飢えることなくいられるのは、デメテルの力あってこそなのだった。


 マントを脱ぎ、気楽な長衣姿になってくつろいだ表情を浮かべたデメテルは、ふと誰かを探すように周囲を見渡して言った。


「あの子はどこにいるの」


 巫女がそれに答えるより先に、軽快な足音が神殿の奥から駆けてきた。

 白い衣をなびかせて現れた愛娘ペルセポネの姿に、デメテルの表情が柔らかくほころぶ。


「お母さま――」


 駆け寄ってきた愛娘の華奢な身体を、デメテルは豊満な胸に抱きとめて微笑んだ。


「お母さま、お帰りなさい」

「ただいま、ペルセポネ」


 満面の笑みを浮かべて子供っぽくしがみついてくるペルセポネを、デメテルは愛おしそうに見つめて、自分とおそろいの栗色の髪を優しくなでた。


「ペルセポネ、あなたから花の香りがするわよ。いい香り」

「昼間、みんなでたくさんお花を摘んだの。

それでね、お母さまにもお土産に持ってきたの」

「あら、うれしい」

「みんなでお部屋に飾ったから、楽しみにしててね、お母さま」

「ありがとう、ペルセポネ」


 笑って、デメテルはペルセポネの頭を胸に抱き寄せた。麗しい母娘の仲むつまじい様子を、巫女たちは微笑ましく見守っている。

 ペルセポネの細い肩を抱いて、デメテルは部屋に向かって歩きながら言った。


「それじゃあ、部屋でゆっくり、今日は何をして遊んだのか、お母さまに聞かせてちょうだい」




 陶製の器に飾られた色とりどりの野花が、ほのかに甘やかな香りを部屋中に漂わせている。

 無事の帰還を歓迎し、一日の勤めを終えた身体を癒やすその色と香りに、デメテルは身も心もほぐされた心地で、自然と微笑みを浮かべていた。

 部屋の柱に提げられた花器、テーブルに飾られた器、床に置かれた水瓶、それぞれに丁寧に生けられた花々から、ペルセポネの心遣いが温かく感じられた。


「お母さま、どうぞ」


 巫女が捧げ持ってきた盆から神酒ネクタルを満たした杯を受け取って、ペルセポネはそれをデメテルに差し出した。

 娘の手から杯を受け取ると、デメテルはペルセポネの細い肩を抱いて織物を敷いた寝椅子に誘う。

 寝椅子に母娘が並んで腰をかけると、母娘水入らずの時間を邪魔しないように、巫女は一礼して静かに退室した。


 部屋の窓から望むエレウシスの野は、地平に帰り行く夕日に照らされて黄金色に染まっている。

 ゆるく吹き込んでくる風は、夜の気配を伴って涼しい。

 デメテルは自らの聖域の風景を見渡して、満ち足りた笑みを浮かべると杯を口に運んだ。


「今日も一日お疲れさまでした、お母さま」

「ありがとう。

でも、疲れてなどいないわ。

女神としての務めを果たせることは、私にとって喜びですもの」


 ペルセポネの気遣いの言葉に、デメテルは笑んで応える。


「ペルセポネ、あなたこそ疲れたのではなくて。

こんなにたくさんの花を摘んで、部屋中にきれいに飾ってくれたのですものね」


 デメテルの温かな手が、ペルセポネの柔らかな栗色の髪をすくようになでる。

 くすぐったそうに微笑んで、ペルセポネは母の肩に甘えた様子でもたれかかった。


「そういえば……」


 ペルセポネの緑色の瞳が、上目遣いにデメテルの顔を見つめる。

 花摘みの話から思い出したことを、何の気なしにペルセポネは話題に上らせた。


「今日、みんなでお花を摘んでいたときに、ヘルメス神を見かけたの」

「ヘルメス――」


 髪をなでていた手の動きが止まり、デメテルの声がわずかに緊張する。


「――ヘルメスと、何か話をしたの」

「いいえ。お仕事の最中だったみたい。

手を振ってみたのだけど、気づかないで飛んで行ってしまったわ」

「そう、それならいいの」


 ペルセポネの答えに、デメテルはほっと安堵した様子で息をついた。

 その母の様子を不思議そうに見やって、ペルセポネは小首をかしげて尋ねてみる。


「お母さま、ヘルメス神ってどんな方?」

「……どうしてそんなことを聞くの」

「よくお姿を見かけるけど、いつも忙しそうにしていてお話しできたことがないから。

どんなお仕事をしているのかしら。

鳥のようにすばやくて、空を飛んで、どんな場所に行くのかしらと思って」

「あなたの気にすることではなくてよ、ペルセポネ」


 答えるデメテルの固い声音に、ペルセポネは驚いて瞳を瞬かせる。

 デメテルは小さく溜息をつくと、幾分口調を和らげて言った。


「いつも言っているでしょう。

エレウシスの外の他の神々、特に男神には親しんではいけないわ。

どこに悪い考えを持った者がいるかわからないのですから」

「ヘルメス神は、悪い方?」

「ヘルメス自身は悪い男ではないけれど……でも、彼はあの男の伝令役で、言いなりですからね。

あの男のことを考えると、近づかないにこしたことはないわ」

「あの男って、どなたのこと?」

「……あなたは知らなくていいことよ」


 デメテルのこわばった声と表情に、それ以上尋ねてはいけないと察して、ペルセポネは素直に花びらのような唇をつぐんだ。

 愛娘の聡い態度に、デメテルは艶っぽい口元をゆるめて満足げな表情を作ると、神酒の杯をその口元に持ち上げる。

 杯を傾けるデメテルの優美な所作と横顔に見とれながら、ペルセポネは別の話題を頭の中から見つくろった。


「お母さま、オリュンポス山はどんなところなの?」

「オリュンポス? どうして?」

「お母さまはオリュンポス十二神のお一人でしょう。

オリュンポス神族の中でも、特に偉大な十二の神々……ヘルメス神もそのお一人なのよね。

他には城市の守護神アテナさま、鹿射る神のアルテミスさまとか……。

オリュンポス山は、エレウシスからだと遠くに見えるだけだから、どんなところなのかしらって」

「あなたがそれほど興味を持つようなところではないわよ。

雪に覆われた、殺風景な山ですもの」

「そうなの? 

でも、宮殿があるのでしょう。主神ゼウスさまがおわします、神々の立派な宮殿が」


 ペルセポネの口から出たその名前に、デメテルは片頬を引きつらせて、麗しい容貌に似つかわしくない表情を浮かべた。

 だが、それも一瞬のことで、ペルセポネは気がつかないまま、素朴な好奇心を言葉にして続ける。


「宮殿にはきっとたくさんの神々が集まるんでしょうね。

どんな方たちがいらっしゃるのかしら。

お母さまも、お勤めでオリュンポスの宮殿に行かれるんでしょう」

「今日は随分聞きたがりね。

お母さまの女神の務めに興味があるの、ペルセポネ」


 デメテルは微笑んで、さりげなく話題をそらそうとしてそう言った。

 母の笑みにつられて、ペルセポネも微笑んでうなずく。


「ええ、もちろん。

お母さまが毎日どんなお仕事をされているのか、どんな土地を巡ってこられるのか、とても興味があるの。

ねえ、お母さま、今度、私もお母さまのお仕事に連れて行ってはもらえない?」


 控えめにそうねだるペルセポネに、しかしデメテルは首を横に振った。


「それはできませんよ、ペルセポネ。

あなたはここで留守番をしていてくれなくては」


 優しい口調できっぱりと言われた母の言葉に、ペルセポネの面から微笑みがしぼんで消える。


「ペルセポネ、よく聞いて。

広い世界には心根のよい者もいれば、そうでない者もたくさんいる。

そんな者たちのためにあなたがよからぬ目に遭わないように、お母さまは守ってあげたいのです。

このエレウシスにいる限りは大丈夫。

ここは私の聖域で、みだりに他所者は立ち入ることができないのですから。

ここにいれば安全、わかるでしょう」

「はい……」

「側仕えのニンフたちがいれば、身の回りのことも不自由しないし、遊び相手にも不足はないから退屈しないでしょう。

それでも、何かほしいものがあれば、遠慮なくお母さまにおっしゃいなさいね。

必ず整えてあげますから。だから、外へ行きたいなどとはもう言わないわね」

「ええ、お母さま……ちゃんとお言いつけに従います」


 デメテルは笑みを深くして、素直な返事をほめるように、ペルセポネの髪を優しく何度もなでた。

 くすぐったそうに笑うペルセポネの表情は、しかしつい先程までと比べてくすんでしまっている。


「女神の務めに興味があるのなら、そのうちゆっくりお話ししてあげましょうね。

でも今日は、お母さまはあなたのお話を聞かせてほしいわ、ペルセポネ」

「はい、お母さま」

「いい子ね」


 あふれる愛おしさを込めてささやかれたデメテルの言葉に、ペルセポネは微笑みながらも、視線を床にそらしていた。




 今日一日の他愛もない出来事を、デメテルが満足するまで話して聞かせて、ペルセポネが自分の部屋に引き取ったときには、もう外はすっかり夜の帳が下りていた。


 部屋の中は、ニンフたちがあらかじめ準備しておいてくれたのだろう、ろうそくに火が灯されて、寝具もきちんと整えられていた。

 寝台の側からほのかに清々しい香りが漂ってくるのは、昼間に摘んだ水仙の花が生けられているからだ。

 灯火を受けてぼんやりと輝いて見える白い花びらに指先で触れて、ペルセポネは柔らかく微笑んだ。


 燭台に近づいて、ペルセポネは赤く灯った火にふっと息を吹きかける。

 ろうそくの火が吹き消されても、部屋の中は仄明るい。

 窓の外から、夜空にきらめく月と星の灯りが注がれてくるのだ。


 ペルセポネは窓辺に寄ると、膝を抱えてその場にしゃがみ、窓の外に広がる夜空を見上げた。

 藍色の絹織物を一面広げたような空に、銀砂をまき散らしたかの如く星がきらめいている。

 そして、その夜空の高いところには、鏡のような銀色の月が清楚な風情で浮かんでいる。

 ペルセポネはその月を、憧憬を宿した瞳でじっと見つめた。


 毎夜、月の運行を司っているのは、セレネという名の女神だという。

 輝くたてがみを持つ馬に馬車を引かせ、月の道行きを先導しているのだ。

 遥か夜空の高見から、見下ろす地上はどんな風に見えるのだろうか。

 眼下に広大な大地を見渡すのは、どんな気分になるのだろうか。


 天上を馬車で駆けるのは、きっと気持ちがいいのだろう――そんなことに思いをはせながら月を見つめるペルセポネの頬に、窓から音もなく忍び込んできた夜風が、そっと触れて吹き過ぎていった。


 風――海の彼方の見知らぬ土地からやって来る風。

 行ったことのない、広い大地の上を渡ってくる風。

 そして、決して見ることのないかもしれない、遥かな異国に旅立ってしまう風。

 肌に感じたと思うと一瞬で、追いかけることのかなわない遠い場所まで駆け去っていってしまう。

 風はきっと、ペルセポネの知らない土地を、これからも知ることのないかもしれない土地を、自在に駆け巡っていくのだろう。

 その来し方、行く末は、ペルセポネには想像することもできない。

 ただ淡い憧れと羨望の思いで、吹き過ぎるその一瞬を感じることしかできないのだった。

 風はきっと、世界中を巡って多くのものを見るのだろう。

 多くの人に出会うのだろう。

 それは、ペルセポネがどんなに願っても得られないものなのだ。


 デメテルは偉大なるその力で、自らの聖域を申し分なく整えている。

 ペルセポネにとってここは、平和で安全な我が家、優しく美しい楽園だった。

 優しく偉大な母に愛され、絶対に守られている毎日の暮らしは安心できる。

 神殿の巫女たちは皆、かいがいしく世話を焼いてくれるので不自由を感じたことはないし、ニンフたちとも仲よく、他愛のない遊びに夢中になっているのは楽しい。


 不満も不足もない。

 ただ、近頃ペルセポネは思うのだった。


 知りたい、と。


 世界は広いという。

 世界がどれほどに広いものか、ペルセポネは知りたかった。

 風がどこからやって来て、どこに向かっていくのかを知りたいと思うようになった。

 この世界には多くの生き物、さまざまな人間、いろいろの力を司る神々がいるという。

 ペルセポネは、その見知らぬさまざまな者たちに出会ってみたいと思うようになった。


 ――世界には、自分の知らないものが、出会いのときを待っている。


 いつの頃からか、ペルセポネの胸にはそんな思いが芽吹き、日に日に憧憬と好奇心を糧にして、外の世界へと向かって枝葉を伸ばしているのだった。


 ペルセポネはしんと静まりかえった夜の風景を、いつまでも飽くことなく眺めていた。

 夜空の星々が乙女の瞳にも降り、外の世界へと向けられた眼差しをきらめかせていた。

 そのきらめく眼差しが見つめる先には、雪をいただく霊峰が、天を突かんとばかりにそびえていた。

 風が、眠る草花たちを愛撫して過ぎる。

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