一章 エレウシス、箱庭の楽園 ②
海を渡って吹く風が、花咲き乱れる緑の草原を駆けていく。
風は柔らかな若草を揺らして、乙女のほっそりとしたくるぶしをくすぐった。
野花を摘むのに夢中になっていたその乙女は、足元で戯れるそよ風と草の感触に、くすぐったそうに笑みをこぼした。
乙女の無邪気な微笑みに惹かれてか、そよ風は白い
華奢な身体にまとった長衣をはためかせるそよ風に合わせて、乙女は摘んだ花を胸に抱いて、踊るように草の上で小さく飛び跳ね足踏みをする。
長く艶やか栗色の髪が、日の光をはじいて輝く。
そよ風が乙女の髪にも戯れかかって、鳥の翼のようにふわりと広がった。
野花で彩られた舞台で踊る乙女の微笑む顔は、ほころぶ前の花のつぼみに似て、初々しく愛らしい。
「ペルセポネさま――」
離れたところで花を摘んでいた、少女の姿をした水の妖精――ニンフたちが、その風と踊る乙女の女神ペルセポネの元に、摘んだ花を手に手に持って集まってきた。
「ペルセポネさま、楽しそうになさって」
「どうなさいましたの」
ニンフたちが口々に問うのに、ペルセポネは踊りの足を止め、白い頬をほんのり上気させて笑った。
「風がいたずらをするんですもの」
踊りが終わってしまって、そよ風は名残惜しそうにペルセポネの髪をなでると、草原を吹き抜けて去っていった。
「風神アイオロスがご機嫌のようですね」
「ペルセポネさまの気を惹いて、お近づきになりたかったんでしょう」
吹き過ぎる風を見送って、ペルセポネとニンフたちはくすくすと笑みを交わし合った。
つぼみにも似た顔の乙女の笑顔を、陽光が縁取って更に輝かせる。
未だ神と人とが分かたれることなく、ひと続きの大地に共に暮らし、交わることのできた時代である。
真っ青な海に囲まれたギリシアの大地、その中心に位置する都市アテナイの北西にエレウシスという名の土地がある。
緑が広がるエレウシスに神殿を構えるのは、大地の豊穣を司るおごそかなる女神デメテルだった。
ペルセポネはそのデメテルの一人娘である。
栗色の髪と明るい緑色の瞳を持つこの年若い女神は、母神と共に、他の神々や人間たちから敬われている。
偉大な女神の一人娘として生まれ落ちたときから、多くの人々に見守られて、ペルセポネは健やかに成長した。
可憐に成長したペルセポネを、人々は
母神デメテルの膝元で、ペルセポネは取り巻きのニンフたちと、穏やかな日々を無邪気に謳歌している。
この日もまぶしい日差しと花の香りに心躍らせて、ペルセポネはエレウシスの野に遊んでいた。
ニンフたちと共に軽やかな足取りで、咲き乱れる野花の間を飛び交う蝶のように、あちらへこちらへと戯れ合いながら。
「ペルセポネさま、向こうに菫が咲いていましたよ」
「見てください、こちらは野薔薇がとてもきれい」
「花冠を作りましょうね。ペルセポネさまに差しあげましょう」
ニンフたちはペルセポネを喜ばせようと、競い合って野花を摘むので、乙女の白い細腕に抱えきれないほどの花束が、あっという間にできあがる。
愛らしい様子の野薔薇に、紫色の可憐な菫、薫り高いヒヤシンス、そして白く清らかな水仙――ペルセポネはどの花も大切そうに受け取って、甘やかな香りをいっぱいに吸い込むと、花びらのような唇をほころばせた。
「みんなきれいね。お母さまのお力が、大地に満ち足りているおかげだわ」
そう言うペルセポネの表情は誇らしげだ。まさしく、その通り、とニンフたちはペルセポネの言葉にうなずき合う。
デメテルとペルセポネの母娘は、非常に仲がいいことでも有名だった。
ペルセポネは豊穣の女神である母を心から尊敬し、慕っている。
ペルセポネは尊敬する母に対してはどこまでも従順で、その無垢な様子を、取り巻きのニンフたちは微笑ましく思っているのだった。
ペルセポネとニンフたちは若草の上に腰を下ろすと、摘んだ花を器用に編み始めた。
野薔薇で作った花冠を戴いて、互いの髪に野花を飾る。
花をまとった乙女たちが若草の上でじゃれ合って、明るい笑い声を立てるのを、青天で輝く太陽が見守っていた。
海から一陣の風が草原を吹き過ぎ、ペルセポネの髪をなびかせる。
その拍子に髪に飾った花の中から水仙が一輪、風にあおられ小川に落ち、くるくると踊るようにしながら流れていった。
ペルセポネは、不意に頭上をさっと横切る影に空を仰ぐ。
鳥かと思って見上げると、空を駆けていくのは人影だった。
青いマントをなびかせ、翼のついたサンダルで鳥のように軽やかにその人影は空を行く。
「ヘルメス神だわ」
ペルセポネは大きく手を振ったが、空を駆ける伝令の神ヘルメスは、たちまちのうちに通り過ぎて、その姿は見えなくなってしまった。
「……行ってしまったわ。気づかなかったみたい」
残念そうにヘルメスの駆けていった先を見つめるペルセポネに、
「仕方ありませんわ、お急ぎのようでしたもの」
「きっとゼウスさまのお使いの途中だったんでしょう」
ニンフたちはそう口々に慰めながらも、内心では少し安堵していた。
デメテルは一人娘のペルセポネを溺愛している。
大切にかわいがるあまり、過保護な面も多々あった。
自身の神殿のあるエレウシスの地からペルセポネを出さず、女神の務めのために神殿を留守にするときは、ニンフたちを側に置かせて決して一人きりにはしない。
そして、ペルセポネに男神が近づくことを許さないのだ。
ペルセポネの周りを常にニンフたちが取り巻いているのは、愛らしい女神に不届きな男神を近づけさせないためなのだった。
ただ通りすがりに談笑しただけでも、厳格なデメテルは快く思わないだろう。
「――あ、いけない」
空を見上げていたペルセポネが小さく声を上げる。
太陽が西に傾きつつあるのを見て、神殿に帰らなければならない時間が迫っていることを知ったのだ。
「お母さまがお戻りになる前に帰らないと――」
ペルセポネは花束を抱えると、細い足で草原を駆け出した。
「ペルセポネさま――」
「みんな、早く帰りましょう。神殿まで競争よ」
朗らかに笑って駆けていくペルセポネの後を、ニンフたちも摘んだ野花を抱えて笑い合いながら追いかける。
にぎやかな声が去った後で、乙女の残した真っ白な水仙の花が、静かに小川を流れ去っていった。
* * *
野を流れる小川は、さらさらと穏やかに進む。
その川面に乗って、水仙の花もまたよどみない流れと共に大地を下っていった。
草原を通り過ぎ、乾いた大地を横切り、白い岩間を滑り落ちると、川は地下へと続く洞窟へと流れ込む。
洞窟の先、ひたすらに奥へ奥へと下っていくとたどり着く――地上の光、音、ぬくもりからもかけ離れた、暗闇で満ち、ひやりとした静謐が支配する、そこは地下の世界。
地上から流れ落ちた一筋の小川は、地下の世界を流れるいくつかの川のうちの、あるひとつと合流する。
流れのままに運ばれて、とうとう沈むことなく地下にやって来た水仙は、その黒い川の上をまた流れていく。緩やかな流れに身を任せてどこまでも行くかと思われたが、川縁の石に引っかかって、水仙はその旅路を終えた。
水面で頼りなく揺れるその水仙の花を、壊れものでも扱うかのように、そっとすくい上げる者がいた。
仄白い灯りに照らされて、ぬれた花びらが艶めいて輝く。
手の中でしっとりとした光を放つ水仙を、その者は物憂げな眼差しでいつまでも見つめていた――。
* * *
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