暗闇の中で嵐が猛威を奮っていた。

 洋館の全ての窓硝子は、大粒の雨に激しく叩かれて悲鳴を上げている。

 不破は大広間のソファに腰を下ろして軽く吐息を漏らした後、窓越しに外の暗闇に目を向けた。

 そこへ、先刻までの所帯じみていた服装を脱ぎ、代わりに胸元の広いあさぎ色のブラウスを纏った美女が、両手で持つスチール製のトレイにワインとグラスを二組載せて現れた。

「先程TVのニュースで、台風は今夜夜半頃に関東を抜けると言っていましたわ」

 そう言いながらテーブルにトレイを置く美女は、まだワインを口にしていないハズなのに紅潮していた。

 その顔は、ソファに凭れる美丈夫の妖艶な美貌に釘付けになっていた。

「そうですか。それは良かった。――ところで相馬さン。ここは貴女お独りで御住居なのですか?」

 相馬は静かに頭を振った。

「麓からお手伝いさんが来てくれていますが、今日は台風が近づいていたので早めに帰宅させました。

 あとは息子が一人……今は二階の自室にいますわ。死んだ夫の後を継ぐ為に、帝王学を学んでおりますの。

 あの年で殆どマスターして、週に一度来られる家庭教師も脱帽して父親にひけを取らない、と太鼓判を押されまして――あら、親莫迦で済みません」

 相馬は照れ臭そうに苦笑した。こんな笑顔もなかなか魅力的である。

「……御子様さン、ですか…」

 不破は少し口惜しそうに呟く。

「因みに、御幾つですか?」

「今年、14になります」

「おや、貴女はそンなに御若いンですか?」

 不破は意地悪そうに笑って見せた。

「……嫌ですわ、それは息子の齢です」

 相馬はつられて苦笑する。

「あたしは…今年32になります…」

 相馬は羞らい、頬を紅くして俯いた。無論、不破の美貌に見詰められて耐え切れずに俯いたのである。

「おお、そうですか、これは失礼。でも、それにしてもお若い、否、お美しい。とても一人の子持ちとは思えない程の美しさですな」

「そんな……」

 相馬は頬に手を当てて一層赤面した。

「でも、お子様がお一人いらっしゃるとはいえ、それは御結婚の方が早かったからですよね」

「……えっ?」

「確か……この辺りで相馬というと、あの相馬財閥の総帥、否、先月お亡くなりになられた相馬恭一氏の御邸宅だけだと存じていましたので」

 不破は所得顔な笑みを浮かべて相馬夫人を見遣った。

「……御存知でいらしたのですか?」

「はい。ボクは東京でフリーのルポライターをやっておりましてね。以前、御主人とは何度か仕事で御会いしておりました。

 ……この近くの崖に運転ミスで車ごと落ちてしまったそうで。気さくな方で、実に惜しい方を亡くしました」

「そうだったのですか……」

 相馬夫人は感慨深げに溜め息を洩らした。

 やがて夫人は思い出した様にグラスにワインを注ぎ、不破に差し出した。不破は軽く会釈して、ワインを優雅に口にした。

「不破さん、ですか。確か前に主人から聞いた事がありますわ。妙に自分の周りを嗅ぎ回る小うるさい女記者がいる、って……それって貴方の事でしょ?」

 意地悪そうに笑いながら訊く相馬夫人に、不破はどこか困ったふうにはにかんだ。

「ありゃ、相馬さん、ボクの事を女だと思っていたんですか?」

「あたしだって、貴方に言われるまでは、とても男には見えなかったわ。

 あの人、貴方が余りにもしつこく纏わり付くので、隙あらば押し倒してくれよう、何て悪い冗談も言った事もあるんですよ」

「ちぃ、その手があったか」

 口惜しがる不破に、相馬夫人は思わず吹き出した。

「おっと、冗談ですよ。ボクはこう見えてもノーマルですから。男なんかに押し倒された日にゃ、もう一生立ち直れないですよ」

「でも……貴方とても綺麗だから……あの人が貴方と寝たら……嫉妬しちゃうわ、きっと」

 相馬夫人は何ところか淫靡な光を持った妖しげな眼差しで不破に一瞥をくれてグラスを口にした。

「あの人……ああ言いながらも貴方の事、気にいっていた様ですよ。怪しい人だけど、何ところか憎めない……って。

 あの人、ああいう仕事柄、多くの人と接しているから人を見る目は確かだから」

「……有り難うございます」

 不破は照れ臭そうに微笑んだ。

「本当…惜しい方を亡くしました」

「……ええ」

 相馬夫人の顔が不意に曇って俯いた。感慨無量な面持ちに見えたが、妙に気拙そうな色が伺えるのは何故だろうか。

 少し場が気拙くなった事に気付いた不破は業とらしげにグラスを一気に煽ってから話を切り出した。

「前に、御主人から伺った事があるのですが、馴れ初めが劇的だったとか?」

「……はい」

 相馬夫人の赤い頬が上下に揺れた。

「街を歩いていた時、仕事で飛び回っていた主人とばったり遇いまして。

 こういうのを、魂が惹かれ合ったと言うのでしょうか。互いにこのまま別れたくない気持ちになりまして、直ぐに一緒になりました。

 有能な資産家だとはいえ、記憶喪失で自分の家族や子供の頃の記憶さえも失われていた得体の知れない男だ、と親にも反対されましたが、そんな声を無視して、合格したばかりの高校も中退してまで……。

 若さ、ってこう言う事なんでしょうか。……今では懐かしい思い出ですわ」

「……そうですか」

 不破は相馬夫人に一瞥もくれずに頷き、ワインを一息に呷った。

 ゴトゴトと、窓硝子が風に叩かれて哭いていた。

 不破と相馬夫人のいる大広間に、暫し無言の時が流れる。

 得も知れぬ淫靡な気配を、不破は先程から感じていた。

 それを発散する主は、この場に一人しかいない。

 相馬夫人の、己を見る視線が普通ではない

 先程の所帯じみた服装ではなく、胸元の広いブラウスで自分の前に現れた事もそうだ。

(……ふン)

 心の中でほくそ笑んでみせる不破。彼は何かを警戒していた。

 僅かに感じられる、異なる気配。――殺気。

(……相馬夫人のものではない。別人の――“彼”のモノだとしても、まるで――)

 不破は天井を見上げた。

 この上に、若き夫人の子供が居るのだ。

「まさか、な」

 不破はそう呟いて独り合点し、面を戻した

 その美貌の直ぐ前に、相馬夫人の顔があったのは予想外だった。

「……何を気になさっているのですか?」

「あ、いや――」

 不思議そうに訊く相馬夫人に、不破は苦笑した。

「いやー、台風、早く抜けてくれないかなぁ……って」

「ふふっ」

 相馬夫人はそんな不破の様子がどこか可笑しかったらしい。意地悪そうにくすくす笑った。

「今夜は安心してお泊まり下さい」

「ども、です」

「客間が空いています。ご案内しますわ」

 不破は相馬夫人に案内され、屋敷の1階の奥にある寝室へ案内された。

 しばらく客が来訪していなかったのか、寝具などは綺麗に整ったままであった。

「ボクには勿体ない、豪華な部屋だなあ」

「遠慮しなくて良いのですよ、どう――」

 不意に、がちゃり、と音がした。

「……え」

 瞬く相馬夫人は、不破が客間の扉を閉めて鍵を掛けた事を直ぐには理解出来なかった。

「ふ、不破さん――」

 相馬夫人がそう言った時、不破の左手が彼女の右手首を取った。

「な、なにを―――」

 驚く相馬夫人の唇を、不破はいきなり自分の唇で塞いだ。

 そして即座に、腰に回した右腕でぐいっ、と引き寄せた。

 始めは抵抗していた相馬夫人だったが、不破の濃厚なキスに圧倒されたか、それとも望んだ結果なのか、次第に身体の力が抜けていった。

 そしてついには、不破がねじ込んできた下に、自身の下を絡ませ始めた。

 窓を叩く風と雨の音だけが室内を支配していた。

 やがて不破が唇を離すと、濡れた糸で繋がる相馬夫人の唇から、ああ、と官能の吐息が漏れた。

 紅潮する夫人の顔を見て、不破は、にぃ、と嗤った。それは狩人が獲物を仕留めた時の歓喜のそれであった。

 嵐は、今なお闇を捲いていた。

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