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(雨足が強くなって来たか。……台風が近付いていると言っていたが、こんな早く上陸するとは)
後悔の念が込められた舌打ちが、林の中で小さく響く。
雨の降りしきる林の中を、小ぶりの赤いデイパックを担いだ一人の登山客がとぼとぼ歩いていた。
数時間前から厚い雨雲に遮られていた太陽も既に落ちている。昏い帳に、途方に暮れる登山客の顔は隠されていた。
不意に、暗闇の奥から、登山客の瞳の中へ光が飛び込んだ。
「着いたか――いや、あと少しか」
登山客はやれやれ、と安堵の息をつく。
登山客の目的地は、暗闇の奥で僅かに灯る灰色の洋館であった。
間も無く登山客は洋館の門を抜け、玄関の前に立った。
玄関の戸の造りは、なかなか年季の入った年代物で、手で叩いたら砕けるのではないかと思わせる程であった。
生憎、インターホンは付いていなかった。呼び鈴の類いも無い。
登山客はこれ以上濡れねずみになるのは嫌だったので、構わず戸を叩いた。
「御免下さい。どなたかいらっしゃいませンか?」
五回ほど戸を叩いた後、ようやく戸は開かれた。
「……どちらさまで?」
戸を開けたのは、ブラウスにエプロン姿の女だった。
夕餉の支度をしていたのであろう、しかし、その所帯じみたエプロン姿が似合うのが惜しい位の美女だった。
「……――!?」
エプロン姿の美女は、玄関に佇む登山客の姿を見て、言葉を失った。
そこにいたのが、梳くと光が散りそうな亜麻色の奇麗な長い髪を冠する、妖艶な美貌を持つ美女だったからである。
デイパックを担ぎ、ブルー地に緑のチェックが入ったウールシャツとカーキのストレッチパンツ姿は紛れもない登山スタイルであるが、まさかこれ程の美女が、こんな奥多摩の山奥に独りでハイキングとは。
妖艶な美貌が、エプロン姿の美女の肢体を束縛したと言うべきか。エプロン姿の美女の頬が見る見る内に紅潮し、胸の高鳴りが止まらないでいた。
登山客の口元がニコリとつり上がる。似つかわしくないくらい無邪気な笑みだった。
「夜分遅く済みませン。どうも途中で道を間違えたらしく、丁度お宅が見えたので、出来れば今夜一晩泊めて頂きたいのですが?」
「え……ええ、どうぞ……」
エプロン姿の美女は、熱に浮かされた様に呆然として何の躊躇いもなく頷き、妖艶な美女を玄関に入れた。
「どうも。――ああ、失礼しました、ボクは不破と申します」
「……ふ……わ?」
濡れて滴る前髪を、たおやかな指先で払いながら名乗る妖艶な美女の名を聞いて、エプロン姿の美女は一瞬戸惑った。
「――あ? もしかして勘違い――いや、無理ないか。ええ。こう見えてもボク、男なンです」
妖艶な美貌を持つ美女――否、美丈夫、不破雷人はそう言って苦笑した。
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