オイディプスの輪<リング>

arm1475

 昨年の最高気温を更新した、猛暑の昼下がりに、一台の乗用車が奥多摩山中にある狭い山道から滑落した。

 僥倖にも乗用車は、狭い山道を速度を抑えて走っていたことと、比較的なだらかな斜面のお陰で、二回横転しただけで斜面の中腹に鎮座した。

 乗用車の運転手は、車内で小さくうめいていた。

 齢は三十代後半のまだ働き盛りだろう。事故で乱れていなければ、着ている英国製の高級スーツが凛々しく見える男であった。

 横転時に割れたフロントガラスの破片を被った顔には酷い出血が見られたが、隈のある無傷の両目を開けて辺りを伺っている様子から、辛うじて意識はあるらしい。

「……ここは?」

 男はどうやら、事故のショックで記憶が混乱しているようであった。

「……そうか……俺はこの崖の上の急カーブを曲がろうとして……あの光に――」

 男は、はっ、とする。

「カーブを曲がろうとした時、正面から強烈な光が迫って来て……、車のボンネットを擦ったら弾かれ、崖に落ちた……のか」

 男はシートベルトを外し、鈍い痛み走る身体を我慢しながら起こした。

 そして、割れたフロントガラス越しに先刻の光が擦ったボンネットを見ると、男の顔に動揺の色が走った。

 ボンネットの右側が黒焦げになっていた。

 否、焦げていると言うより熔けていると言った方が正解であろう。飴細工が火にあぶられて融けてしまったが如く、ボンネットの先端がめくれ、運転席に向かって波打つ様に縮まっていた。

 男の車を襲った謎の光は、恐らくかなりの高熱を伴っていたらしく、それが車の進行方向の斜め右正面から襲い掛かり、ボンネットの右側を熔かしたのである。

「……これは……何とも……」

 男は肩を竦め、ズボンのポケットからハンカチを取り出し、顔をにじる血を拭った。

「――ビーム?……まさか?」

 男は、蒼白する面を厭々振った。

「……あれは……危険過ぎるから……隠しておいたハズ……しかし……あれは、……“あれ”を使わなければ不可能……?」

 不意に、血を拭う男の手が止まった。

「……なんだ……前に……どこかで見た事がある……この熔け方は……?」

 曖昧な記憶が、男を無闇に戦かせる。

「……この胸騒ぎ……不安感は……?」

 崖に落ちながらも助かっているこの幸運をまだ信じられないのか、男は青ざめた面を四方に向けた。

 車はこれ以上崖下に落ちそうもなかった。

 ボンネットは半分熔けていながら、しかしエンジンには異常が見られず、オイルやガソリンも漏れていない。引火して爆発する恐れはなさそうだった。

 とはいえ、素人判断は危険と思い、男は込み上げる不安感を堪えながら、ドアを開けて恐る恐る車外に出た。

「……痛っ!」

 車外に出た男は、地面を踏み締めた右足首に鈍い痛みを覚えて屈み込む。

「痛いが……折れてはいないな。――そうだ、確か三十年前にもこの近くで事故を起こしたな。

 あの時は車じゃなかったな、あの変な鉄の玉だったよな。……しかし何で俺は、あんな物に入っていたのだろう……?」

 首を傾げた時、男は額に影が掛かった事に気付き、慌てて面を上げた。

 影は崖の上から伸びていた。

 影の主は、西の空を下っていた夕日を背に男のいる崖下の方を伺っていた。その顔は逆光に隠されていた。

 通り掛かったドライバーが事故に気付いて現れたのか。

 様子が変であった。

 影の主は男の方を見下ろしたまま、一言も声を掛けようとはしない。

 単に関わるのが嫌ならば、いつまでもこの場に居ないでとうにこの場から去っているハズである。

 ズキッ!

「――痛っ!」

 朱い光を見上げる男は不意の頭痛に顔を顰めた。

「――あ?」

 男の顔が頭痛を忘れてはっとした。

「……こんな光景……こんな状況……どこかで見た事が……夢?」

 男は激しく頭を振り、

「……違う。俺はこの目ではっきりと見た事がある」

 男は何か大切な事を思い出しかける。しかしどうしても思い出し切れず、苛立ちを覚える。

 男の顔をなぶっていた夕日が和らぐ。男はゆっくりと視線を崖の上に戻し、影の主の姿を見極めようと目を凝らした。

「お前は!?」

 夕陽が前より傾いた事で見やすくなった、影の主の顔を見た男は愕然とする。

 男は、その顔をよく知っていた。

「き――!?」

 ズキッ!! 再び頭痛が男を襲う。

 同時に、男の顔が閃いた。

 埋もれ火の記憶が超新星の如く大爆発し、過去の全てを覆っていた昏い闇が一気に晴れた。

「……そうか……思い出した……あれは……あの変な鉄の球は……!」

 呆然とした顔で洩らした男の肩が、次第に戦慄き始めた。

「……まさか……俺は……なのか…?」

 男はブルッ、と身震いし、

「――否! そんなハズは無い! そんな事はあり得ないんだ!……あり得ないんだ……あってはいけないんだ……!」

 終わりの言葉を譫言の様に洩らす男は、思い出した様に、蒼白した面を影の主の方に向けた。

「――撃つな! 撃ってはいけない!俺は、お――」

 男は終わりまで口にする事は叶わなかった。

 崖の上で男を見下ろす影から閃いた光が、男と小破した乗用車を飲み込み、その二つを一瞬にして霧散させた。

 ボンネットを溶かした超高熱の光は、今度は男と乗用車を爆炎の柱に変えた。

 男を灰にした閃きを放った崖の上の影の主は、終始無言だった。

 しかし男を灰に変えると、影の主は、口元に満足げに笑みを浮かべた。

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