第3話 置網町の親分
岡っ引きは、江戸時代における、公然だが非公式の役職だった。
なにか事件があれば、情報収集にあたる。
小さなイザコザは、自分の裁量で解決してしまう。
それでいて、町奉行から給料がでるわけではない。
だから、たいていお役目とは別に副業をもっており、それは小間物屋や煙草屋など、小体な商家であることが多い。
役職に収入がない以上、むしろ、そちらが本業であるともいえる。
もっとも、商いは女房にまかせてしまうのがほとんどで、当人はあくまで、お役目をうけた岡っ引きとして、市中にニラミをきかせているのだった。
いわば街の『顔役』といったところで、
「○○町の親分」
などと呼ばれていたが、
「八丁堀の旦那には、申し上げたんですがねえ―――」
と、今回ばかりは置網町の親分こと、律も困惑の態だった。
無理もない。
このところ強盗が相次ぎ、もう四件もの商家が、みなごろしの憂き目にあっていた。
同心はもちろん、岡っ引き、下っ引きまで総動員がかかっている。
昨夜も、律は思いつくところがあり、夕暮れに家をでた。
結局たいした収穫もなく、今朝になって長屋にかえったところ、
「ちょっと姐さん。たいへん、たいへん」
小間物屋をまかせてある、女房役のお染が飛び出してきた。
何ごとかと思えば、噂にきく町奉行の娘が、待ちかねているという。
あわてて雪駄を脱ぎ散らかし、
「こいつはどうも、おまたせをしちまって」
と会ってみれば、まだ年端もいかない子供ではないか。
「さあ話してみるがよい」
と言われてみても、どうしていいかわからないのだった。
町奉行の身内といえば、律にとっては、雲の上の存在ではある。
とはいえ、目の前にいるのはほんの子供。
お供といえば、ニブそうなデクノボウがひとり。
(ここは説教のひとつもしてやって、屋敷までお送りするほうが、いいのではないか―――?)
そんなことまで考えていた。
「ふん」
初栄は、片目をつぶって首をかしげた。
なにか考えているときのクセらしい。
「ところで、親分」
「親分だなんて―――リツと呼んで下せえ」
「そそっかしい駕籠かきだったようだの」
「は?」
「が、役目柄とはいえ、ほどほどにしておくがよいと思うがの」
「え?え?」
「昨夜の話よ」
律は、ぎょっとした。
「はは―――何のことでございやしょう」
「ここで言うてもよいかの」
律は、あわててお染に用事をいいつけ、外に出してしまい、
「へへ、冗談は勘弁してくださいまし」
そう言いながら、めまぐるしく記憶をたどった。
(どこかに、ぬかりがあったか?)
朝一番にひとっ風呂あびた。
胸にしっかりとサラシを巻きなおした。
きつめの股引きに尻と腰とを押しこんだ。
きりりと締めた帯に十手をぶちこんだ。
カンペキ。いつも通り。
乱れなど、どこにもないはずだ―――まして、白粉の残り香など。
ところが、初栄は証拠をみつけていた。
「親分。かえってきたときに、足を洗わなんだの」
「はあ」
「昨夜は雨が降っていたのに、雪駄や股引きに泥がついておらぬ」
「あっ」
「どこぞ、はやばやと上がりこんだとみえるが」
「そ、それは」
「それと雪駄や股引きは汚れておらぬが、サラシの胸元に泥の飛沫が跳んでおる」
「え?―――これは、その」
「おそらく、そそっかしい駕籠かきが、蹴あげたのであろ」
「うう」
「さて。親分が出入りに、わざわざ駕籠をつかうのは、どこであろうの」
あわれ律、すっかり狼狽して、言葉もでない。
「鉄火な姐御と音にきく置網町の親分も、廓に通うは、さすがに人目をはばかるか」
「い、いや」
「ほれ親分。肩に長い髪の毛が」
「なな、な―――」
律は両手をついた。
「お、おそれ入りましてございます」
「あたったかの」
「へえ。たいそうな目利きという、噂は本当でございました」
「いや、最後のは冗談じゃ。ゆるしてたも」
初栄は、にっと笑って、
「置網町の親分は切れ者ときく。凶賊の跋扈する折も折、ただ遊んでいるワケでもなかろうと思ったまでよ。それに―――」
と、すこし声をひそめ、
「さすがに私の知るところではないが、ああしたところの女人は、裏の世俗によく通じる、というからの」
律はいまいちど、深々と頭をさげた。
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