第2話 男と少女と餡かけ豆腐
善八は仕込みに入っていた。
彼は本所で小料理屋をいとなんでいる。
料理屋といっても土間に椅子が三脚だけ。
その奥に寝床をかねた四畳半の小座敷がある、ごく小さな店だった。
鈍重にみえる善八だが、見かけによらず、ちまちまと手が動いて、ありあわせの材料で、それなりの料理をこしらえてしまう。
「皿が上等なら、日本橋の料亭でも通用する」
か、どうかはわからない。
なにしろ客は、日銭をにぎって呑みにくる職人ばかりで、料亭の味など誰も知らないのだ。
常連はそんな職人ばかりだが、ひとり、例外がいるといえばいた。
「善八。善八はいるか」
昨夜からの雨もあがった昼下がり、その例外がやってきた。
いるもいないも、この店は善八がひとりでやっているので、いないことには店があかない。
彼女なりの挨拶なのだろう。
彼女――といっても、齢は十の前後といったところか。
今日は町娘の姿をしている。
「初栄(はつえ)さま――また、そのような格好をされて――」
「にあうであろう?」
「お父上がお嘆きかと」
「にあわぬと申すか?」
「い、いえ、そんなことは」
「ならば、よい」
初栄(はつえ)と呼ばれた少女は、土間の椅子に腰かけた。
「何をつくっている?」
「へえ。豆腐にかける、くず餡でして」
「たべる」
「は、初栄さまの、お口に入れるようなものでは」
「いいから出せ。空腹なのだ」
やむなく善八は、土鍋に豆腐を入れた。
別の小鍋に、細切りの筍と三河島の菜、唐辛子を少々、それに酒、みりん、醤油で薄味をつけ、溶いた葛粉でとろみをつけた餡がある。
頃合いみて、くず餡を豆腐にかけまわし、おろしショウガをそえて、なるべくヒビが入ってない小皿にのせ、両手をそえて差し出した。
「ふむ。ウマい」
初栄はもぐもぐとやりながら、
「濃厚な豆腐の滋味もさることながら、唐辛子のぴりりとした刺激がまた心地よい。善八、また腕をあげたな」
「へえ。おそれいります」
「酒などあれば、もっとウマいのだが」
「そ、それだけはいけません」
「わかっておる。酔って帰れば、さすがの母上もゆるすまい」
「お父上に知れれば、私の首がとびます」
善八が首をすくめたのも、大袈裟ではない。
初栄の父親である池田播磨守は、ときの南町奉行をつとめているのだ。
奉行所は八丁堀にあるが、家族は郊外の本邸でくらしている。
しかし娘の初栄には、しょっちゅう窮屈な屋敷を抜け出すという困ったクセがあった。
「千冬さまも、おかわいそうに――」
池田播磨守の配下に佐々木典十郎という同心がおり、千冬はその娘だった。
父と同じく神林流抜刀術のつかい手であり、その達人だという。
彼女は池田播磨守より、本邸にすむ家族の警護をおおせつかっている。
その目を盗んでほっつき歩く初栄が、職務上、千冬の悩みのタネだった。
なにしろ、初栄の身に《万一のこと》でもあれば、父娘ともども切腹を覚悟しなければならない。
善八は、初栄をさがして市中を駆けまわる女剣士が、気の毒でならなかった。
「千冬には悪いが、やむをえぬ理由があるのだ」
初栄はすまして、そんなことを言う。
「それは、もしかして」
「ちと母上のお申し付けでな」
やはり――。
この娘にして、この母あり。
町奉行の奥方は、やんちゃ娘がそのまま成人したような人柄だった。
さすがにみずから出歩くようなことは慎むが、何かあると娘にあれこれと指令をだして、こっそり屋敷から送り出してしまう。
母娘ともども、困った女たちではあった。
「お調べごとでございますか」
「置網町の十手持ちが、ちと面白そうなハナシをもってきたのだが、同心がとりあわなかったそうでな」
「そこに、首をつっこんでいかれると」
「いちいち、勘に障る言い方をするやつだの。いいから一緒に来るのだ」
「えっ、私もでございますか」
「あたり前だ。私になにかあれば千冬は切腹だぞ。それでもよいのか」
「そんな、ご無体な――」
善八は半べそをかいて、
「初栄さまが、初栄さまをお護りする千冬さまを人質にとって、関係のない私をつかまえて脅すなんて、もう頭がこんがらがって、何が何やら」
「ええ、つべこべと女のような。来るのか、来んのか」
「ああ、もう、いきます、いきますとも。ああ、でも、仕込みがもったいない。せっかくこしらえたのに、もったいないなあ」
「心配いたすな。あとで同心をまとめてよこす」
「ええッ!」
いかつい同心が、狭い店にあふれては、ほかの客が寄りつかなくなる。
「それはあまりに、あんまりで――」
とうとう泣き出してしまった。
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