親愛なる我が兄、アルフレッドの悪行

 日没を迎えた港内には水陸の別を問わず無数の明かりが浮かび上がり、時折蛍火のように揺れ動く光で彩られた島の風景はどこか幻想的な趣きがあった。

 大会前々日の酒場街の夜は想像に違わず賑々しいもので、約束の店に向かうあいだも、レナードは陽気に笑う酔っ払いの一団や睦言を交わしあうカップルと幾度もすれ違う。


 …………緊張しているよなあ。


 自分の兄と会う。ただ、それだけなのに。

 いや、緊張の理由はわかっている。


 ここでの兄は前大会優勝者。

 言わば神も同然だ。


 その神――――えええ、あの兄貴が? ありえないだろ――――いいや神――――無理だよ無理無理。いい歳してカエルの尻の穴に花火突っ込んで喜ぶような男だよ?――――まあ、なんだ神――――中等学校の四年間で一つも良い評判を聞けなかったんだぞ? いいか、一つもだ!――――あー。なんか全然大丈夫な気がしてきたな……。


 それでも彼が昨年度の優勝者。対する自分はなんの実績も持たないただの新米だ。

 果たして、太刀打ちすることができるのだろうか……と弱気になりかけたところで、少女の微笑みがまぶたの裏に蘇る。


 ――いいや絶対にぼくが勝つし!

   格好いいところを見せてウェインをデートに誘うし!


 半日前までは影も形もなかった動機が自分の中で巨大なウェイトを占めているのを誰か笑いたければ笑うといい。

 そんな強い意志を込めて、レナードは辿り着いた酒場の木扉を勢いよく押し開く。


 その途端、耳が痛くなるほどの喧騒が全身を包み込んだ。

 いらっしゃいませの声さえよく聞こえない。

 成人してからこっち、酒場には幾つか入ったことがあるが、ここまで騒がしいのは初めてだ。


 入り口で棒立ちになったままやや引き気味になっていると、


「よおォ! レナード! こっちだこっちイ!」


 入り口の高さから一段上がった位置に設けられたテーブル。

 店の喧騒に負けない大声で名前を呼ぶのはギラギラと目に眩しいゴールドとシルバーの二色に髪を染め真っ赤な鋲打ちジャケットを着た『頭が悪そう』という言葉を全力で体現したかのような背の高い大男。


 ”首からお払い箱へ” アルフレッド・シュナイダー。


 久しぶりに会う兄の大変元気そうな様子に、レナードは笑みをこぼしながら歩み寄る。

 なんだかんだ言いつつも、この破天荒な兄のことが嫌いではないのだ。


「久しぶり、兄貴」

「おうよレナード! 元気でやってたか!? ――あ、姉ちゃんこっちエール一つジョッキで追加! 大急ぎでヨロシク! まあ食え食え! ここのはどれもうめえぞ!」


 木製の丸テーブルの上では大海老のフライやら鶏手羽の蜂蜜焼きやら魚の油焼きやらが美味しそうに湯気を上げている。たまたまかもしれないが小皿に取り分ける類の料理が一つもないあたりがなんというか兄らしい。

 仕方がないので大海老の皿を手元に寄せつつ、


「元気元気。おかげさまでね。兄貴こそたまには帰ってきたら?」

「あぁ? おいおい勘弁しろって。オレが家に帰るときはビッグになったときって決めてんだからよ!」


 噴き出しそうになった。

 世界的なレースで優勝しておきながらまだ足りないっていうのか。


「あー……それとゴメン。紹介する約束だった友達だけど、鉄道のトラブルで間に合わなくってさ、別の日にまた頼める?」


 約束を確信犯ですっぽかされたとはさすがに説明できない。


「おう、いいぜ! どうせ決勝まではヒマだしな!」

「ヒマ? 予選があるのに?」

「なんだレナード知らねえのかよ?」


 兄は眉を上げると、得意げに胸板を叩く。


「オレぐらいグレートになるといちいち予選なんか出なくてよくなんだよ。シード権ってやつだ」


 シード権。そうか、なるほど知らなかった。前年度優勝者ともなれば、確かにそういう特権があってもおかしくない。つまり、決勝まで行かなければ兄とは戦えないということか。

 頭の中で計画の変更を余儀なくされていると、おもむろに兄は顔を寄せながら声をひそめ、


「それよりお前、あっちのほうはどうなんだよ?」

「あっち? ああ、水上機ならもちろん、」

「バッカお前女だよ女! あっちっつったら他になにがあんだよ! 彼女はいんのか!? 当然童貞は捨てたんだろうな!?」


 この上なく真剣な目つきに笑いそうになる。

 まったくどこまでも変わらない兄だ。


「いや、それが実はさっき――、」

「おう、アルフレッド! ずいぶんご機嫌じゃねえか! なんか良いことでもあったのか!?」


 突然横から話に割り込んできたのはスキンヘッドに三角のサングラスをかけたヒゲ面の男だった。かなり酒が入っているのか顔を真っ赤にしている男とは知り合いなのか、兄のほうでも機嫌よく男を迎える。


「おお、よお! …………あー、なんつったっけお前!?」

「バーンズだよバーンズッ!! 何回言ったら俺の名前覚えんだよ!」

「おお、よおバーンズ! 機嫌もよくなるってもんだぜ! 何しろかわいい弟の初出場祝いだからなァ!」


 ばしりと背中を叩かれ、咳き込みかけるのをこらえて立ち上がる。

 つまりは飛行家仲間ということか。


「はじめまして、レナード・シュナイダーです」

「てめえを空から叩き落す男の顔だ! しっかり拝んでいけよバーンズ!」


 めちゃくちゃな煽りをする兄に、まぁ、さすがに相手もかなり年上みたいだし大人の対応をしてくれるだろう――と思いきや、


「はああああんッ? 弟だぁぁぁぁ!? なめてんじゃねえぞてめえええっ! いいかぁ! お前みたいなチビにはぜええええっっってぇぇぇ負けねえからなああッ!」


 眼球から火を放ちそうな灼熱とした対抗心を見せると、バーンズはフヌゥゥンと暑苦しい鼻息を残して立ち去る。

 呆気に取られていると、兄はおかしくてたまらないとばかりにテーブルをバシバシ叩いた。


「わっはははは! ガキかよアイツ! まったく年甲斐のねえオッサンだなあ!」

「いや、全然笑いごとじゃないから! 戦う前に喧嘩売ってどうするんだよ!」


 すると兄はぴたりと笑いを収め、大きな獲物を前にした狩人みたいなギラついた目をレナードへ向ける。


「はあ? どうするもこうするも、ぶっちぎって叩き潰すに決まってンだろうが。お前、オレを超えるってことは、優勝するってことだぞ。まさかそんなつもりもなしに来たんじゃねえだろうな?」


 優勝。

 そうか、そうだよな。

 前大会優勝者を負かすってことは、つまりそういうことだ。


「いや……ごめん。実は全然考えてなかった。今気づいた」

「オイオイ、お前なぁ……」

「――でも、負けたくない」


 ふてくされる兄の目を見つめて、はっきり言葉にする。


「誰にも、一度も、負けたくない」


 すると、意味するところを察したのか兄の唇が見る見る笑みの形に広がっていく。


「よォォし、それでこそオレの弟だ! ハハハ! まあここまで来た以上は優勝めざすしかないよなあ! 勝ちゃあ飛行機も女も選び放題だもんなあ!」


 いや別にそういう理由じゃと抗議しかけ、赤銅色の髪が脳裏をよぎる。

 結局のところ自分も兄貴と同じ思考レベルなのかもしれなかった。


「ま、ちょうどいいや。せっかくだしかわいい弟が決勝まで上がってこられる確率をちょっとばかし上げとくかァ」

「え、ちょっと、なにを」

「まあまあいいからいいから頼れるお兄ちゃんに任せとけって。――おおゥい皆ァ、ちょっとオレ様の話聞いてくれよォォォ!」


 新しく注文したジョッキを片手に立ち上がった兄のバカでかい声に店中から注目が集まる。

 先ほども感じたがどうやらこの店にはレースの常連を始め出場者が多く集まっているらしく、ほとんどの人間が兄の顔を見るだけで何者なのか気づいた様子だ。


「オレ様ご存知ミスターチャンピオンアルフレッドシュナイダー、今年もお前ら雑魚を皆殺しにしてぶっちぎりで勝つ予定満々なんだけどよォ!」


 凄まじいブーイングが沸き起こり、皿やジョッキが乱れ飛ぶ。

 なんだ、何をやらかす気なんだ!?

 そこで兄は無理やり自分を立たせる。


「ここにオレ様のかわいい弟が来てるわけ! 名前はレナード! レナードシュナイダーだ! あーなになに、なんでもこいつはあ? このオレ様に勝つためにい? 日々鍛錬を積み重ねえ? 今大会でな、なんと! このミスターチャンピオンに挑戦してくるってわけだァ! どうよお前らこの涙ぐましい努力! 十六歳の若さでいっぱしの飛行家なんだぜ!? すげえって思わねえ?」


 先ほどの兄の第一声への反感も手伝ってか、やっちまえ弟とか外道をぶち殺せとかそこかしこから応援(応援?)の声が飛んでくる――――のも、一瞬。


「つゥーまァーりィー! 弟にとってお前ら雑魚なんか最初っからアウトオブ眼中ってワーケー! 上に行くための踏み台! 食われるためのエサ! わかるぅー? アンダスタンお前らァー?」


 沈黙。

 直後、先ほどに倍するほどの大ブーイングが発生した。

 今度は中身入りの皿やジョッキまでもが飛んでくる中、

 愕然と兄の邪悪な笑みを見上げる。


 最悪だ!


「いやあ楽しみだなァ因縁の兄弟対決かァ決勝レース盛り上がんだろうなァ他の連中は全員まとめて添え物扱いだよなァー! ハハハ! それじゃあオレ様のかわいい弟とォ、ついでにお前ら雑魚の前途を祝してェ、カンパァァァイッ!」


 ――――最っ悪だっ!!


+++


「ハハハ! 見たかよレナードあいつらの顔! どいつもこいつも茹で海老みたいに真っ赤になっちまって全く酒のつまみには最高ったらねえよなァ!」


 騒ぎすぎて店から追い出されたレナードたちは、夜の港を歩いていた。

 時刻はまだまだ宵の口。こちらよりも少し先を歩く兄は先ほどの顛末を思い出してゲラゲラ笑い続けている。


「めちゃくちゃしすぎだよ兄貴。どうせ中等学校もこの調子で追い出されたんだろ」

「あ、わかる? オレ様当時から光り輝いてたからどいつもこいつもオレの顔を見るとこーんなに眩しそうに目を細めちまってよお」


 くるりと振り返って目じりに指を当てて釣り上げてみせるのに苦笑いしながらついていくと、


「なあレナード」

「なに、兄貴?」

「お前、このオレに敵うとか本気で思ってんのか?」

「……。勝つつもりではいるよ」

「つもりで速く飛べるならオレに勝てるやつなんて誰もいねえんじゃねえの?」


 噴き出した。すごい説得力だ。


「……そこは、つもりで速くは飛べないとか言うところじゃないの?」

「バッカお前根性ねえ奴に翼が答えてくれるわけねえだろォ!

 紙一重の勝負を決めるのはいつだって気合に決まってんだよ!」


 乱暴な言い分にしか聞こえないのに多少なりとも説得力があるように思えてしまうのが、本当にどうしようもない。


「で、どーなんだよお前は? オレに勝つ気、あんの?」


 貪欲な、お前は遊び相手に足りるのかと尋ねるような、暗い瞳。


「……勝つよ。他に勝ちたい理由もできたしね。

 ――――優勝すれば飛行機も女も選び放題、だろ?」


 迫力に飲まれないよう腹の底に力をこめてにやりと笑みを返すと、ほほおおう、と兄の瞳に光が宿った。


「――真正面から全力でブッ潰す。兄も弟も関係ねえ。ぶっちぎられた後で慰めてもらう相手を今のうちに見つけといた方がいいぜ、レナード」


 家族へ向けるものとは思えないような、満面の、肉食獣の笑み。

 数々の短所を切手みたいにコレクションしている兄にも、誰にも負けない長所が一つある。

 それは、何をするにしたって全力でぶつかるってことだ。

 そして、気に入った相手には自分と同じことを求めてくる。

 それに付き合うのは並大抵の根性じゃ足りないのだけど。


「……兄貴こそ。負けた時に『あれは何かの間違いだ』とかダサいコメントしなくて済むように、今から言い訳の準備しといたほうがいいんじゃないの?」

「ハハハ! 言うじゃねえか! そういうことならオレは安心して決勝戦の舞台で待ってるからよ! ちゃんと遅れずに来いよな!」


 酒場街を背景に、心の底から嬉しそうな笑みを覗かせる。


「よおッし、そんじゃあ別の店で飲みなおすか!」

「えええ……またさっきみたいなことするつもりじゃないよね?」

「当然だろ! 飛行家どもが集まる店は何件か知ってるからなァ。オレの弟が来たぜー! ってことをもっとこう大々的に――」


 当然ってそっちの意味かよ!

 突っ込もうとしたその時、道の向こうから見慣れない一団が近づいてきた。

 揃いの服装を着た彼らは一様に険しい表情を浮かべている。


「……ね、兄貴。あいつらは?」


 すると兄は前を向き、


「んん? あーいや、連中はあれだよ。知ってるだろ? フレースヴェルグの、」


 瞬間、


「動くな」

「あ?」


 年齢は四〇代ぐらいか。集団の先頭、老練なキツネのような鋭い目つきの痩身の男が懐から拳銃を取り出し、あろうことか銃口を兄へと突きつける。

 同時、後ろに控えていた一団が素早く展開し、同じように拳銃を取り出しながらレナードたちを包囲した。


「おいおいハーマンのおっさん。こりゃ一体なんの真似――」


 知っている顔なのか気楽な態度で声をかけようとする兄を男はまなざしで制し、ぼくらを一瞥。


「フレースヴェルグ航空計画社、保安部だ。アルフレッド・シュナイダー、ならびにレナード・シュナイダー。共和国警察法特例第三項、通称オーレリア自治法に基づき、お前たちを拘束する。――当社まで、ご同行願おう」


 突然の成り行きにわけもわからず兄へ視線を送ってみる。


”……兄貴、何やらかしたんだよ?”

”知るかよ。さっぱりだ”


 ……どうやら心当たりはないらしい。

 レナードは困惑しながら彼らの顔を見回し――――その内の一人と目があったとき、頭に釘を打ち込まれたような衝撃が走った。


 港の灯を照り返す赤銅色の髪。

 こちらを見つめる翡翠の目ジェイド・グリーンが、一瞬だけ悔やむように逸らされる。

 そこに立っていたのは、昼間別れたはずのウェインだったのだ。

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