少女、ウェイン・ワーグナーについて
「あなたがその水上機のオーナーでしょうか?」
少し日に焼けた、浅黒い肌。
潮風にふわりとなびく髪は美しい赤銅色で、
まっすぐにこちらを見つめる瞳は透き通るような
率直に言おう。
ちょっと見たことがないぐらいきれいな女の子だ。
そのちょっと見たことがないぐらいきれいな女の子が、レナードの顔を見てわずかに瞳を揺らした。
おおかた声をかけた相手が飛行家としては予想外に若くて驚いたのだろう。
ただでさえ童顔だしなあ、ぼく――レナードは少しだけ苦笑し、
「レナード・シュナイダーと申します。
ぼくとぼくの黒ツバメ号になにか御用でしょうか、お嬢さん?」
わずかばかりの意趣返し。
昔聞いた物語の真似をして、舞踏会で貴婦人へ挨拶するように胸元に手を当て大げさに一礼してみせる。
すると彼女はわずかに頬を染めて、仕切りなおすように小さく咳払いする。
「……ごめんなさい。ウェイン・ワーグナーといいます。
もしブリアスに向かうのでしたら、同乗させていただけませんか?」
なるほど、そういうことか。
こういう申し出はこの辺りでは珍しくない。
オーレリア海の主要な交通手段はもちろん船で、港からはブリアス行きの定期船だって出ている。
だけど出港のタイミングを逃すことは当然あるし、スピードだってそんなに速いわけじゃない。
おかげで空の運送稼業はいつだって客に困ることはない――と、これは兄貴の受け売りだけど。
さらに言えば、港で翼を休めている機体には副座付きのものはほとんどない。
なにしろみんなレースに来てるのだ。空きの副座などというデッドウエイトにしかならないものをわざわざ積んでいるのは、友人に約束をすっぽかされた間抜けぐらいのもの――――もっとも、そのおかげでこうしてきれいな女の子を乗せて飛べる名誉を預かろうとしているのだから人生わからないものだ。
「いいですよ。快適かどうかはちょっと分からないけど。燃料代を先払いで頂きますが、それは?」
「はい、もちろん。よろしくお願いします」
手のひらに数枚の硬貨を置かれたとき、わずかに細い指先が触れて心臓が跳ねる。
動揺を悟られないように金額を確かめるふりをしていると、ウェインが早速とばかりに黒ツバメ号の胴体に手をかけるので、少しだけ慌てた。
黒ツバメ号はいい機体だけど、そんなに丈夫な造りをしているわけじゃない。
下手なところを踏まれて傷つけられても困るので手を貸そうとしたのだが、
とんとん、とんっ、と。
見えない階段でも登るみたいに、するりと後座に着いてしまう。
更には当たり前のように懐から飛行用のゴーグルを取り出してみせたものだから、レナードは目を丸くした。
プロだ。
それとも、この辺りに住んでいる女の子はみんな自転車にでも乗るみたいに軽々と水上機を駆ってみせるものなのだろうか。
まぁ、パイロットにとって同乗者が飛行機慣れしているのは悪いことではない。
ないけど。
自分の中の男心が多少のショックを受けているのに半ば目を背けつつ、
「それじゃ、出発しますね」
操縦席に乗り込み、操縦桿のすぐ下に貼り付けている手書きのチェックリストを指さし確認していく。
燃料の確認。
目的地の確認。
風向き風速確認。
周囲、
「港湾および上空、離着陸体勢に入っている機体はありません」
……まったく。
――本当はぼくより操縦が上手かったりしても驚かないぞ。
レナードはいよいよ苦笑いしながら了解と答えてエンジンの始動レバーに手を伸ばす。
+++
道すがら事情を聞いてみると、なんでも元々運んでもらうはずだった相手が鉄道事故の影響で合流できなかったらしい。
どこかで聞いたような話にレナードは口元を緩ませる。
いや、あいつの場合は自業自得か。
天気は快晴。
空は蒼く遠く澄み渡り、海もまた凪いだ青を見せている。
もちろん黒ツバメ号も絶好調で、このままどこまでも飛んでいきたい気分だ。
「やっぱりレナードさんも大会に出るんですか?」
「レナードでいいよ。うん、そのつもり」
後座からの声にざっくばらんに返事をする。
見たところ同じぐらいの年齢だし、いつまでもかしこまった言葉遣いを続ける必要もないだろう。
「……すごいですね。その、ずいぶん若く見えるのに」
悟られないように苦笑する。
もしかすると未成年――十五歳以下に見られているのかもしれない。
もっとも、この国では航空機の操縦免許は十四歳から取得できるから、それより下ということは絶対にないんだけど。
「これでも一応成人してるよ。十六歳」
「え、……ご、ごめんなさい。私、てっきり、」
「気にしなくていいよ。それに若いっていうなら兄貴なんか去年、」
口が滑った。
慌てて口を噤むが、彼女ははっと何かに気づいたような声で、
「シュナイダー……、もしかしてレナードのお兄さんって、」
……あー。やってしまった。
「…………そう、アルフレッド・シュナイダー。前大会の優勝者がぼくの兄」
観念して、告げる。
それはもうものすごい速さだったらしい。
オーレリアの鷹。
蒼穹の覇者。
破天荒すぎて中等学校を追い出されたという伝説を持つあの兄貴のこととは思えないキャプションの数々。
それまで眉を潜めていた女の子たちの手のひらの返しっぷりといったらもう。
ああ、もう。
だからその例に漏れずウェインも――と思ったが、返ってきたのはなぜか険しい声で、
「では、もしかしてこの機体はお兄さんのものだったのですか?」
「え? ああいや違うよ。黒ツバメ号はぼくが修復した機体」
引き取った当時はスクラップ同然で、まともに飛べるようになるまで来る日も来る日も工場に通い詰めたものだ。
中等学校時代のほとんどは、こいつに捧げたと言っても過言じゃない。
「……そうでしたか。あなたがこの機体を……」
それっきり黙りこんでしまうウェイン。
なにか気になることでもあるのかと思うが、会ったばかりで詮索するのも憚られる。
「……それにしても飛ぶのに慣れてるよね、ええっと……ウェイン?」
名前を呼ぶのにやや勇気が要った。
するとこちらの呼び方がおかしかったのか、くすり、と声が聞こえ、
「はい。仕事柄、飛行機に乗ることが多いので」
「仕事? どこかで働いてるの?」
すると、彼女の返事がずいぶん遅れる。
聞いてはいけないことだったろうか、と一瞬後悔するが、
「フレースヴェルグです。フレースヴェルグ航空計画社で働いています」
それを聞いた瞬間、理性とか見栄とかとにかく色々吹っ飛んだ。
「ええええええ――――――――っ! フレースヴェルグで!? ほんとに!? フレースヴェルグで働いてるのきみ!? すっげえ!!」
フレースヴェルグ航空計画社。またの名をオーレリアの守り手。
航空機製造業界の最大手にして、戦争で中断されていたスタインバーグ・トロフィー・レースを復活させた立役者。
飛行家なら誰もが知ってるビッグネームだ。
こちらの態度の豹変にウェインは呆気に取られたように黙り込み、やがておかしそうに笑いはじめる。
「ふっ……ふふふっ。そ、そんなに感激するような話ですか?」
「いやいやいや、だってフレースヴェルグだよ!? え、ウェインってかなり若いよね!? いくつなの!?」
「十五です。来年、成人ですね」
「未成年! それなのに働いてるなんて、すごい優秀なんだね! 尊敬するよ!」
「いえ、その……」
そこで彼女の反応に困惑の色が強くなってきていることに気づく。
まずい、食いつきすぎたか。
「あー、……その、ごめん。興奮しすぎた」
「……いえ、大丈夫です」
応じる声にはわずかに笑いが含まれていたのでほっとする。
「……この機体。黒ツバメ号でしたっけ。元々はトレシアⅠですよね?」
口笛を鳴らす。さすが。
まぁ、今どきプロペラが後ろについてる機体もそうそう見かけないか。
外装から何からカスタマイズしすぎて一見わけの分からないことになっているが、確かに黒ツバメ号の原型はトレシアⅠだ。
戦中、フレースヴェルグが軍用機として開発したトレシアⅠは機動性が抜群に優れていて、オーレリアに攻めてきた帝国空軍を翻弄し、多くのエースパイロットを生み出したという。
その数々の伝説を持つ名機をこうして自分なんかが操れるのは、こう言ったら悪いけどまったく戦争のおかげ。
そしてもちろん、戦争が終わったおかげだ。
「後継機のトレシアⅡはトレシアⅠの弱点だった耐久性や航続距離の改善に焦点を当てて開発されたと聞いていますけど、この機体の改装プランは――そうではないですよね?」
「戦うための機体じゃないからね、こいつは」
すると後部座席から、そうですよね、となんだか自分に言い聞かせるような静かな呟きが聞こえてきて、
「……私は技術が専門ではないので、新しいコンセプトが上手く機能しているのかはよく分かりませんが、レナードが黒ツバメ号に並々ならぬ情熱を注いでいるのは伝わります」
一拍おいて、
「黒ツバメ号は、いい機体です」
率直な賞賛に、レナードは口ごもってしまった。
正直に告白すれば、機体を修復するあいだ何度もくじけそうになった。
中等学校ではあからさまに馬鹿にしてくるやつもいたし、無駄なことをしてるんじゃないかと自分を疑ったことだって何度もあった。
空を飛べるようになってからも、最新鋭の機体と比べるとどうしても劣るのではないかとやっぱり不安に思うことがある。
そうした思いを、すべて拭い去ってもらった気がした。
これでいいんだよ、と背中を押してもらった気がしたのだ。
「ええっと、……ありがとう。その、きみにそう言ってもらえて、とても嬉しい」
今の気持ちを表す感謝の言葉を考えに考えた挙句、そう答えるのがやっとだったのが、レナードにはすごく悔しい。
+++
ブリアスはオーレリア海に浮かぶ島々の中でもひときわ発展している島のひとつで、レナードが見たところ港に停泊している水上機の密度はクローデンベルグにも負けないほどだった。
海上の交通状況を見極めて黒ツバメ号を着水させ、ゆっくりと岸壁に着けたところでウェインとの別れの時が来た。来てしまった。
「助かりました。レナード」
岸壁の上で向かい合い、ウェインは深々と一礼。
対する自分はなんだか照れてしまい、ああうん、とか、こちらこそ、とかつまらない言葉を並べることに終始してしまう。
――だめだレナードこのままじゃ後悔するぞ後悔するぞ後悔するぞ後悔するぞ!
自分自身の首にかけた首輪を鎖で引っ張って説得するのに、
かえって首が絞まるばかりでいつまでたっても言うべき言葉が出てこない。
「それでは、お元気で。レース、がんばってくださいね」
ああ、うん。ウェインも元気でね。お仕事がんばって。
――そうじゃないだろレナードこの馬鹿! 言えっ! 言うんだッ! 二度と会えなくなるぞッッ!
にこりと笑みを残して遠ざかっていく後ろ姿に、
――――一瞬この後兄貴と会った自分がどんな顔でこの話をするのか想像し、
「ッ、ウェインッ!」
ありったけの勇気をかき集めて声をかける。
ものの見事に裏返った大声に、彼女が驚いたように振り返る。
「あのさ! また、会えるかな!?」
すると彼女は一瞬考え込むような顔になり――ちくしょうダメだったか?――けれど、最後には微笑みを返してくれた。
「レースの期間中はこの島の支社にいると思います。会社の受付で呼んでもらえれば連絡は取れるはずです」
――おおおおおおやったあああああああ! 万歳! よくやった、ぼくっっ!
色良い返事があったことに内心で大歓喜していると、
「レナード。実は、あの…………」
不意の逡巡。そういえば飛行中も似たようなことがあった気がする。
まるで、重大な秘密を打ち明けようとするかのような。
「…………いえ、ごめんなさい。なんでもありません」
何かを憂うように、わずかに目を逸らすウェイン。
さすがに気になったが、本人が言わないと決めたことを無理に聞き出す必要もないだろう。
だからレナードは、
「ウェイン」
名前を呼び、視線を合わせてきたところへ、
「この度は黒ツバメ号をご利用いただき、まことにありがとうございました。またのご利用、心よりお待ちしております」
初めて会った時と同じように胸元に手を当てて大げさに一礼してみせると、ウェインの頬に笑みが戻った。
「――はい。それでは、また。レナード」
「うん。またね、ウェイン」
手を振り、今度こそウェインは歩き出す。
…………よし、次はちゃんとデートに誘うぞ! そのためにも、レースで勝つ!
港の奥に消えていく彼女の背を見送りながら、レナードは密かに決意を固める。
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