ぼくと友人と水上飛行機

 クローデンベルグ駅前広場に到着した時、巨大な影が石畳の上をまっすぐに走り抜けた。

 周囲の歓声に振り仰げば時計台の向こう、本日何機目かの水上機が真青に軌跡を残して遠ざかってゆく。


「太めの胴体に、翼の先端は曲面……翼は上下二段か……。この辺りじゃあまり見かけないタイプだな……」


 双眼鏡から目を離したレナードは、珍しいものを見ることができた喜びを口元へ滲ませる。

 天下の往来でぶつぶつと独り言を呟いている姿は我ながら変人以外の何者でもないが、こればかりは職業病みたいなものなので勘弁していただきたい。


 一つ言い訳をしておくと、レナードだけがこんなことをしているわけではない。

 ぐるりと首を巡らせれば、広場には同じように双眼鏡を構えた数名の男女。

 おそらくは全員がレナードと同じ、飛行家バーンストーマーであるはずだ。

 五年前の終戦からこっち、夢や冒険、ロマンを求めて飛行家になる人たちは増える一方だが、それにしたってこんなに多くの飛行家たちが一箇所へ集まるのは珍しいと言える。


 もちろん、それには理由がある。

 スタインバーグ・トロフィー・レース。

 世界中の飛行家が一堂に会し、人類最速を競い合う年に一度のお祭り騒ぎが、ここオーレリア海を舞台にもうすぐ開催されるのだ。


 とはいえ、大会の予選が始まるまではあと二日ある。

 ある意味では中途半端とも言えるタイミングでレナードがこの町を訪れたのは、二つの用事を片付けるためだった。


 一つは大会見物のために大陸鉄道でやってくる友人と合流するため。

 もう一つは、今大会への出場登録を済ませるためだ。


 +++


 赤い煉瓦造りの駅に足を踏み入れると、常にない喧騒がレナードを包み込んだ。

 大陸鉄道は大陸に住む人々の生活物資を運ぶ大動脈だから騒がしいのはいつものことだが、現在駅の構内に満ちているのはどこか焦りにも似た雰囲気だ。

 なにかあったのかと窓口で問い合わせてみたところ、なんでも三つ隣のヴェスベルで事故があったらしく、その影響で鉄道が止まっているらしい。

 悪いことに、クローデンベルグは半島の先端に位置するため、迂回ルートは存在しない。


 まいったな。この分だと友人も足止めを食らってるかもしれない。

 大丈夫だろうかと心配していると、


「――レナード・シュナイダー様! レナード・シュナイダー様はおられますか?」


 名前を呼ばれて振り返ると、大陸電信電話の交換窓口から身を乗り出していた係員の男の人と目が合った。それで、ピンと来る。


「はい。レナードはぼくですけど」

「ご友人のラインハルト様からお電話が来ております」


 受話器を差し出しながら係員が口にした名前は、予想通りのものだった。

 少なくともレナードの知り合いの中には、ほんの二、三言話しただけで昼食代が(場合によっては夕食代も。食後にデザートはいかがですか?)吹き飛ぶほどの通話料をさらりと払えるやつなんて他にいない。

 係員に礼を言って受話器を耳に当てる。


「もしもし、ハルトか?」

『すまん、レナード! 少し遅れる!』

「ああ、うん。それはいいんだけどさ。今晩ブリアスで兄貴と一緒に食事するって話はどうする? 間に合いそうか?」

『ううーん……。どうだろうなあ……。難しいかもしれないなあ……』


 受話器の向こう側から聞こえてくるのは、石臼にひき潰される小麦のような苦しみの声だ。


「鉄道の事故じゃしかたないさ。兄貴にはまた後日会えないか聞いておくよ」

『ん? お、おう。そうか。そうしてくれると助かる』


 微妙にとまどったような反応。何かあったのだろうか。


「ちなみに、今どこにいるんだ?」

『えっ?』

「近くまでは来てるんだろ? 場所によっては直接拾いにいけないこともないしさ」


 事故があった駅の近くには、海岸線が走っている。

 水上機で往復すれば、そんなに時間はかからないはずだ。


『ああ、うん。ええと、だな』


 友人の妙な歯切れの悪さに、レナードは嫌な予感を覚える。

 ラインハルトは一秒いくらの電話口で五秒近くも黙り込むという贅沢をやらかしたあげく、ようやく答えた。


『――リーリカだ』

「……は?」


 気のせいか、大陸中央部にある国の首都の名前が聞こえた気がする。


「ごめんハルトもう一度言ってくれ」

『リーリカ。ブレナード公国、公都リーリカ』

「……へえ。そう。リーリカ」


 壁に貼られている大陸図に目が行く。

 ここからだとどんなにがんばっても半日近くかかる距離だ。

 今から会う予定だったはずの相手がなんでそんな場所にいるのかはわからないが、つまり。


「……それじゃあ最初っから約束に間に合わせるつもりはなかったんだな?」

『んっ?』

「んっ? じゃないだろこのバカ! なにが少し遅れるだよ全然少しじゃないじゃないか! ああくそ、前々から言おう言おうと思ってたけど今日という今日は――」

『お、おおっと悪い急用を思い出しちまったぜ! 明日までには絶対駆けつけるから現地で待っててくれ! 応援してるぜレナード!』

「あ、おいラインハルト! まだこっちの話が、」


 ぷつりと小さな音がして電話が切れ、レナードは舌打ちする。

 ……ええい、毎度のことながら忌々しい! 人との約束を平気で踏み倒すというコイツの悪癖は他の長所を全て合わせてもまるで釣り合わない。本気で誰か矯正するべきだ。いるだろ誰かそういう教育係みたいな人! 金持ちなんだから!


「……はぁぁぁ」


 しかたない。気分を切り替えていこう。そうでもしないとやってられない。

 漏れ聞こえた会話からおおよその事情を察したのか、気の毒そうな顔を向けてくる係員に受話器を返却し、レナードは肩を落としながら駅を後にする。


+++


 レナードがこの町を訪れたのは、今大会への出場登録を済ませるためだ。

 ほかに理由はない。


 断じてない。


+++


 スタインバーグ・トロフィー・レースを主催しているのはフレースヴェルグ航空計画社エアロプランという有名な航空機会社で、大会の出場希望者は各地の支社に設けられている専用窓口で参加登録をすることができる。

 もちろんそれはここクローデンベルグでも同様で、駅前広場の近くに建てられた立派な建物をレナードが訪れると、受付の若い女性がすぐに対応してくれた。


「……はい。これでレナードさんの参加登録を完了しました。最初の予選レースは今から二日後、オーレリア海の沖合いにあるブリアス島で行われます。ご健闘、お祈りしております」

「ありがとうございます」


 受付の女性の笑顔に見送られて、支社の建物を出る。


 ……さて、これからどうしようか。

 腕時計(これはラインハルトから安く譲ってもらったもので、懐中時計と比べて飛んでいるとき便利なのだ)を確かめると時刻は午後二時を少し回ったところ。

 もう少しこの町で飛行機見物を続けるのも面白そうだが、兄との約束があることを考えると早めにブリアスへ渡ったほうがよさそうだ。


 港に停泊している水上機の元へ向かうため、広場を貫く大通りを港の方へ下っていくと、町の雰囲気はゆっくりと変化していく。


 観光客向けの屋台から漂う甘い香りは、風に混じる潮の匂いへ。

 路上演奏家の奏でる軽やかなアコーディオンは、海鳥たちの甲高い鳴き声へ。


 昔ながらの漁港であり近年は貿易港でもある初夏のクローデンベルグは穏やかそのもので、つい五年前までは激しい戦火に見舞われていたことが信じられなくなってくる。


 そうこうしているうちに不意に建物の列が切れ、抜けるような蒼穹の下、陽を浴びて真っ青に輝く海が一面に広がった。


 オーレリア海だ。


『七月はオーレリアのために』


 長くこの地に滞在していた有名な旅行作家が残したこの言葉は世界中で流行し、オーレリア海に抱かれる宝石のような島々でバカンスを過ごすことは貧富を問わず人々の憧れとなった。

(気持ちはよくわかる。ぼくだってオーレリア海を初めて空から見下ろした時は、海の青と島の緑が織り成すタペストリーの吸い込まれるようなコントラストに目を奪われてしまったほどだ)


 大会直前だからだろうか、港に停泊している水上機の数は帆船よりもずっと多い。

 ライバルたちの機体をまじまじと観察させてもらいながら記憶を頼りに岸壁を歩いていくと、目的のものはすぐに見つかった。


 愛機、黒ツバメ号。

 終戦と共に軍から払い下げられ近くの工場で埃を被っていたのを引き取り、長い時間をかけて修復した、今のレナードにとって自らの半身と呼んでもいい存在。

 決して多くのお金をかけることができているわけではないが、しかし丁寧にチューニングした機体を見つめ、ゆっくりと深呼吸をする。


 ……よし。とうとうここまでやって来た。出場登録も無事に済ませた。

 ……待ってろよ、兄貴。絶対に勝ってやるからな。


 拳を握り締めて黒ツバメ号に歩み寄り、出発の準備に取り掛かろうとした時、


「……あの、少しいいですか?」


 背後から、女の子の声が聞こえた。

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