二巻 8話 グラムの訪問 その1

――ガクガクガク。


 さきほどから鳴り止まない音に建物全体が揺れているのかとハチロウは錯覚する。

 しかしそんなことは決してない。ガクガクと揺れているのは建物ではなくハチロウ自身の方だった。


 建物が揺れているのか己が揺れているのか。それすら分からないほどに今のハチロウの心は大いに揺さぶられていた。

 今にも椅子から転げそうな、もとい逃げ出そうとする体をテーブルに必死に押さえ付ける。

 ハチロウはその体制のまま凝り固まった首を動かすようにカクカク顔を上げる。


 向かいの席、そこには伝説の存在グラムが鎮座していた。グラムにとってここの椅子は小さいらしく跨ぐようにして座っている。何か気になることでもあるのか、先程から物珍しそうに部屋のあちこちを見渡していた。

 その視線が顔を上げたハチロウと自然とぶつかる。


「そういえばさきほどもう一人いたような気がしたが?」


「ははは、そ、そうでしたかね」


 グラムの問いにハチロウは愛想笑いで誤魔化した。そして頭の片隅で消え行ったゲンさんの姿見を思い浮かべる。



 入り口にグラムが現れたとき、ハチロウとゲンさんはお互いに体を抱き合い悲鳴を上げていた。その声はタイミングよく軒先のピヨ助の鳴き声と重なったがため、幸いにもグラムに気付かれることは無かった。

 問題が起こったのはそのすぐ後のことだ。


「ゲンさんっ」


 抱き合っていたはずのゲンさんの体から重さや体温が無くなりかけていたのだ。体全体が半透明になり淡い光に包まれていく。


「は、ハチロウ……」


 ゲンさんは事切れそうな声で答える。恐怖の絶頂を通りすぎたであろうその顔は、先ほどまでとは違い昇天させられたかのように安らかだった。


「ゲンさぁぁぁぁぁん」


 そうしてゲンさんはハチロウに抱かれたまま事切れた、もといログアウトしていったのである。



「そうか。俺の見間違いだったか」


「そうっすよ、気のせいっすよ」


 あのときゲンさんが自らログアウトを選んだのか、恐怖のあまりセキュリティが作動したのかはハチロウには分からなかった。

 とにかく丁度ゲンさんの位置が玄関の影になっていて良かったと汗を拭う。


「まぁ良い。俺としては部外者がいない方が好都合だからな」


 グラムがハチロウの答えに独りちにニヤリと笑う。

 その笑みを受けただけでハチロウの体は飛ばされんとばかしにテーブルを離れそうになった。足を踏ん張り必死に持ちこたえる。


 すんなりとログアウトしていったゲンさんがハチロウは心底羨ましかった。そう思うと体だけでなく視線も勝手にシステムのログアウトボタンの方へと逃走を始める。


――駄目だ駄目だ駄目だ。


 ハチロウはかぶりを振りシステムを見ないように目をぎゅっと閉じた。無理をすることで全身から嫌な汗がどっと流れ出す。

 どんなに逃げ出したくとも、ここから消え去りたくてもハチロウには決してこの場を離れてはならない理由があった。


――アイ。


 ハチロウは手を強く握りしめ一人の少女を思う。

 アイを残してここを離れるわけにはいかない。その意思だけが今のハチロウをここに留まらせていた。


 そんなアイはハチロウの苦悩など知らずキッチンの方で鼻唄混じりに飲み物の準備をしている。グラムに何か言われたかやけに上機嫌だった。


 アイがこの世界に来たのはつい最近だ。そのためにテイルズの終了と共にこの世界を去ったグラムのことを何も知らない。

 加えてアイはこの間のレースを通して現在のダイアフラグの空気を知ってしまっていた。初対面であれ相手に悪意や殺意があるなどと思いもしないだろう。


「そういうのを教えるのが、上級者としてのマナーなんじゃないの」さきほどのアイの言葉がハチロウの胸に突き刺さる。


 結局今回も教えることは出来なかった。

 だが状況はあのときと大きく違う。今は目の前に手の届くところにアイがいる。

 教えられなくとも、守ることは出来る。


 グラムがここに来た理由も大体察しが付く。というよりそれしか考えられない。

 グラムはこの『悠久の黄昏』が最上階のボスを倒したことを、ゲームを終わらせたことを恨んでいるのだ。


 塔攻略の筆頭に常に存在したグラムはあの熱狂的な時代の中でも誰よりもクリアにこだわりを見せていた。いや、クリアに対する欲望を剥き出しにしていた。

 そしてついに最終階の攻略と繰り出し苦戦を強いられる中、それをぽっと出のお遊びギルドにかすめ取られたのだ。

 気持ちが良い筈がない。


 ギルドがほぼ解散し、緩い空気に包まれた今でさえそのしこりは完全に無くなったとは言えないのだ。

 ゲームクリアを知らされたグラムが腹いせに街を破壊して回ったという話は今でも語り継がれている。


 なぜ今になって? という疑問も沸くがあの時の復讐に来たというのならばそれこそ何をされてもおかしくない。

 ハチロウは何かあったときにアイの盾になろうと、隙を見て逃がそうと密かにチャンスを伺っていた。



 そうしたハチロウの逃げ出したい、逃がしたい、という絶妙な思考のバランスは図らずとも彼の心を飛び越え体に表れてしまっていた。

 テーブルに体を伏せつつも目を光らせる。さながら上半身だけ女豹のポーズというハチロウの謎の姿勢に、実のところグラムはやや圧倒されていた。何かを言いかけては口を閉ざす行為を繰り返している。


 もしこのとき外に出向く、あるいは誰かが噂を運んでくるなどして事前にグラム襲来を察知することが出来ていれば、ハチロウにも多少の余裕が生まれそのことに気付くことが出来たのかもしれない。


 しかしアイとざくろちゃんの遭遇というほんの些細な出来事は、運命を左右する蝶の羽ばたきではあったが、残念なことに虫の知らせとはなりえなかった。

 ハチロウの頭の中は逃げようとする自身を押さえ付けること。そしてアイをなんとかこの状況から逃がすこと。そのことだけで一杯一杯なのだった。



 一方のグラム扮する孝太はというと、やはりハチロウと同じように余裕など微塵も残されていなかった。

 孝太は孝太でこの二人に恐れを抱いていたのである。


 石碑の頂点に刻まれたその名。このゲームを終わらせたギルド。それだけでも効果は十分だったが、何よりも路地裏での黒服との会話が大いに効いていた。

 黒服は悪ノリで大袈裟に演じて見せたに過ぎなかったが、その即興芝居もまた蝶の羽ばたきとして暴風を呼び起こしていたのである。


 この巨体や顔を見せても物怖じしない年端もいかない少女に、孝太は安堵すると共に恐怖を覚えていた。

 残り一人の存在をひた隠しにし、今にも襲いかからんとする姿勢のハチロウにも中々気を抜けない。


 孝太は仮にフルダイブシステム内で死んだとしても現実で死ぬことがないことは知っていた。しかしその時の痛みや感覚に関しては完全な無知だった。

 真実を切り出したいがその瞬間、己の首が切り飛ぶのでないか。そんな想像を前に孝太はなかなか言葉を紡ぎ出せなかった。



 こうした重い空気の中をまるで回遊するかの如く一人の少女は弾んだ足取りで入ってくる。

 鼻唄混じりでトレイに載せたカップを運ぶアイに、思惑をまったく違える二人もこの時ばかりは、何でそんなに余裕なんだ、と思考を一致させていた。もちろんアイがそのことに気付くはずもないが。


 この時のアイは挙動を見て分かる通り、実際に心が弾ませていた。慣れた手つき二人の元へと向かっていく。

 玄関越しでのグラムとのやり取り。グラムはアイに対して二人を名指しするのではなく「『悠久の黄昏』に用がある」と言っていたのだ。その声には期待と不安が混ざり合った一種の緊張感があった。


 グラムがどういった理由でここまで足を運んだのかはアイには分からない。しかしアイにとってはそんなことどうでも良かった。

 ただ『悠久の黄昏』というギルドを求めて訪ねてきたことが嬉しかったのだ。


 ゲンさんや軍畑を始め、ここに来るお客は決まってハチロウかアイという個人を目的として訪れていた。

 それはアイにしたって同じことだ。ギルド『ノワール』に行く際もあくまでギルドに用があるわけでなくノジさんに会うためだった。


 そんなことが当たり前の中でのグラムのギルドを目的とした訪問。

 アイはふと始めてこの世界に来たときのことを思い出していた。自分もそうした期待と不安を込めてこのギルドの扉を叩いていたことを頭に浮かべる。


 つまるところアイは今のグラムを過去の自身に重ねていたのだ。もちろんまさかグラムがあの時の自身と同じ面持ちだとはアイは思ってもいない。

 ただこうしてギルドを求めて来た初めての客に、思い出話の一つでも聞けるのではないかと、少しばかしの期待を寄せていたりした。


 そんなふわっと浮きだった気分だったからなのかもしれない。この時のアイはやや注意力に欠けていた。


「どうぞ、ってうわぁ」


 普段このテーブルに付くのはハチロウ、アイ、ゲンさんの三人だ。アイはいつものようにその感覚でテーブルにカップを置こうとしていた。

 しかしそこに座っていたのは他でもない。来客であるグラムだった。


 グラムは大きな体と長い足をもて余すように椅子に跨がらせていた。

 そのため普段あるはずのないところまで足が延びていたのだ。

 トレイで足元の視界が塞がったアイは見事にその足に蹴躓けつまづいてしまったのである。


 アイが転ぶことによりトレイとカップが投げ出され、グラムに向かって放物線を描いていく。

 突然のことにグラムは体を強張らせ、ハチロウは血の気が引くのを感じた。


 次に起きた事はものの一瞬の出来事だった。

 轟音が鳴ったと思ったその時、トレイとカップが消えたのだ。


 いや、正確には消失したわけではない。ただそう感じてしまうほどの早業だった。

 グラムの丸太のような腕が放物線上で停止している。さきほどそこにあったトレイとカップはハチロウの頬を掠め、壁に突き刺さっていた。


 グラムが咄嗟とっさに手でそれらを弾き飛ばしたのだ。

 己の頬に血が流れるのを感じながらもハチロウは身動き一つ取れなかった。

 アイの盾になると豪語しておきながら、今も顔の表情一つ動かせないほどにカチカチに固まっている。


 もう終わりだ。まさかアイがその引き金を引きに行ってしまうなんて……。

 ハチロウはすでに自身のそれが目の前の出来事なのか走馬灯なのか分からなくなってしまっていた。

 それでもなんとかアイだけでも、とハチロウの意地が視線を動かしアイを探す。


 しかしその目に飛び込んできたのはアイの姿でもグラムの姿でもなかった。

 そこ映り込んだのは残骸ざんがいへと形を変えるテーブルの影だった。


 再び轟音と爆発音が建物を揺らす。

 グラムが弾き飛ばした手をそのままにテーブルに叩きつけていたのだ。


 その一撃はさながら何かの爆発のようだった。

 木製のテーブルはスイカ割りの如く意図も容易く砕け果てる。


 ハチロウはそれらの光景を間近で捉えていた。

 終わった、いや、始まってしまった……破壊が始まった……ハチロウはそうして自身の意識が遠くなっていくのを頭の隅でそっと感じていた。

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