一巻 最終話 レースの終焉 続いていく世界

「え~、では優勝インタビューです、今回のレース、いかがでしたか?」


 みなの注目を集める表彰台、そこでマイクを持っていたのはなんとアイを門の中へ導いたあの黒服だった。

 彼はノワール内でその才能をかわれ、こういった司会役も任されていた。彼自身はあくまで『司会』という役を役者として演じきっているだけに過ぎないのだが、良いのか悪いのかそのことに気付く者はいない。

 ノワールの誰もが彼はリアルの世界で司会の仕事にしているのだろうと思っていた。


「いや~、今回の、といっても特に言うことはないですよ。やはり僕には敵なし、みたいな」


 おどけた口調でメリーゴーランドが合わせる。


「そうですね、今回のレース。波瀾万丈でした。ここまで盛り上がるのも中々珍しいです。そんな中での優勝というのは、やはり嬉しさも人一倍なんじゃないですか」


「そう僕の敵、それがありうるとしたらノジさん、彼一人なんだ。僕は早く彼の……」



「お~い、もう少し司会の言葉に合わせるかしたらどうだ」


 そこで隣からハチロウのツッコミが入る。メリーゴーランドが「貴様、邪魔をするな」と突っかかる。


「二人ともうるさい」


 アイはそんな二人に仏頂面で注意する。



「え~本当に初優勝おめでとうございます。これからのレースも期待していますよ」

「ありがとうございます、本当に優勝できて嬉しいです」


 外から黒服と優勝者の声が響く。

 そうして、黒服はこの三人に構うことなく優勝者にインタビューを続けていた。


 そもそもこの黒服は三人の存在に気付いてすらいなかった。

 それもそのはず、ハチロウ、アイ、メリーゴーランドの三人はギルド『ノワール』の精鋭部隊に囲まれ、会場の横に設置されたテントに閉じ込められていたのだ。


「元はと言えばあの時、貴様が僕の邪魔しなければ」


「邪魔をしたのはお前だろ」


「だから二人ともうるさいよ」


 ハチロウとメリーゴーランドが取っ組み合いを始め、アイはそれを見て声を上げる。


 なぜこのような事態になったのか、その後の顛末を説明する必要がある。




「行かせはしないっ」


 アイが完全にメリーゴーランドを抜き去ろうとしていたあの時、メリーゴーランドは度重なる予想外の事態に頭に血が登り、我を忘れていた。


 そしてあり得ないことに、御法度とされる参加者への攻撃と出たのだ。


 脇差しのレイピアを抜き、アイのクックロビンに突きを繰り出す。

 とは言え、このゲームも他と同じく街内での戦闘行為は禁止されていた。

 本来ならばその剣先は透明なバリアに弾かれるはずだった。


 ところがありえないのは何もメリーゴーランドの行動だけでない。

 アイの乗ったクックロビンも例外中の例外だった。


 このクックロビンは野生化しており、いわば通常モンスターだった。

 街内での戦闘禁止のルールはモンスターには適用されていなかった。


 結果、メリーゴーランドの放った突きは何に妨害されるわけもなく、アイの乗るクックロビンの尻に深々と刺さったのだった。


「あっ」「はっ」「えっ」


 三人の思い思いの声が重なる。


 そして、ハチロウの方を向いていたクックロビンの首がくっと横に曲がり、メリーゴーランドを睨み付けた。その顔は怒りを滲ませていた。

 ターゲットがメリーゴーランドへと変更されたのだ。


「来るなぁ」「バカっ」「うわぁ」


 その後は大パニックだった。


 クックロビンに標的にされたメリーゴーランドは白鳥の湖を失うことを恐れ、くるりと向きを変え、逃げ出したのだ。

 クックロビンは上に乗るアイを道連れにその後を追いかける。ハチロウは舌打ちし、二人に続いた。


「こっちにくるぞぉぉぉ」


 そして混乱したメリーゴーランドが逃げた先、そこはまさにもっとも人の集まる東門付近の観客席だった。

 メリーゴーランドもそれに続くクックロビンもお構いなしにそのまま突っ込んでいく。


 逃げ惑う者、クックロビンを止めようとする者、それを面白がる者、観客席は何が何だか訳の分からない大混乱となった。


 その結果、クックロビンは何とか取り押さえられたものの、その経緯けいいでなぜかアイがまた死亡し、メリーゴーランドは泣きながらにうずくまり、その情けない姿を大衆に晒すこととなった。


 土煙を被りヘトヘトのハチロウがアイを生き返らせていると、眼前に誰かの足が見えた。

 顔を上げると眉間に青筋あおすじをたてる軍畑いくさばたがそこに立っていた。


「お、おう、軍畑。さっきぶりだな」


 ハチロウが気軽に声をかける。


「あれ、お前レースの責任者だろ。こんな場所で油売ってていいのか……」


 軍畑は右手を握りしめ、うつむいたまま答えない。ハチロウの錯覚でなければその全身はプルプルと震えていた。


「じゃ、俺はまだレースがあるので……」


 ヤバい、と思ったハチロウがアイを背負い逃げようとする。

 そのまま背を向けようとした瞬間、軍畑が片足で地面を強く踏み鳴らした。


「何がレースだ。お前らは全員失格だー。こいつらをひっ捕まえろぉぉぉ」


 その軍畑の叫びと共に三人は黒服に連行され、今に至るという訳である。




 現在、このテントに軍畑の姿はない。軍畑いくさばたは企画の責任者ということもあり、あちこちと忙しく動き回っていた。

 三人への説教はそれらが終わった後という訳である。


 三人は放課後残るように命じられた生徒の気分で軍畑の帰りを待っていた。

 そして待ち時間が延びるにつれ、彼らにも飽きと余裕が生まれ始める。今のメリーゴーランドとハチロウがまさにそれだった。

 取っ組み合う二人とそれを諌める一人。まるで標準的な中学生の模範を見るようだった。


 それだけ彼らの中にまだ子供の心が残っていると言えば聞こえは良いかもしれない。

 しかし、逆に言えばそれだけ子供だということだ。


「大体なんだあれは。野生のクックロビンでの参加なんて完全にルール違反じゃないか」


「違反なのはお前の攻撃もだろ、お互い様だ」


 二人は顔がぶつかりそうな至近距離でいがみ合う。お互いの唾が飛び交い、二人の顔はひどいことになっていた。

 仲裁ちゅうさいに入ろうとしていたアイはすでに止めることに諦め、部屋の奥で体育座りをしている。


 その二人の顔に一筋の光が注いだ。

 二人は鏡合わせのように同時にそちらに目を向ける。


「おうおう、なんだまだ反省し足りないようじゃあねぇか」


 テントの天幕てんまくが開き、そこから軍畑いくさばたが姿を覗かせていた。



 ♯



「お前ら自分がどれだけ多くの人に迷惑をかけたか分かってるのか」


「ハチロウ、てめぇは戻ってきたはいいがなんだあれは。サーバーが吹っ飛んだら俺らの場所がなくなっちまうんだぞ」


「野生のクックロビンに攻撃行為だ。てめぇらにはルールってもんがなんとためにあるのか理解できてるのか」


 軍畑いくさばたは文句を次々とし立てる。

 それに口を挟むものはいない。

 三人は軍畑の前に正座させられていた。


 ハチロウとメリーゴーランドは説教されることに納得がいかず、あいつのせいだとお互いを睨み合っていた。

「お前ら人の話をちゃんと聞く気があるのか」と軍畑から叱りが飛ぶ。


 そんな中アイだけが一人俯いて何かに耐えていた。


「大体ハチロウよ。元はと言えばお前が親分のブラックスワンをあんなことにしなけりゃ――」


「あ、あの軍畑さん」


 話がレース前に《さかのぼ》遡りアイが顔を上げた。

 その顔は必死にこらえているが今にも泣き出しそうだった。口許をきつく縛りガクガクと震えている。


「お、おう、どうした?」


 不貞腐れた二人との反応の差に軍畑いくさばた気圧けおされる。

 反省している相手にまで罵声を飛ばすほど軍畑も人が悪くなかった。


「ブ、ブラック、スワンのことについてお話が……」


「アイっ、それはもう良いんだ」


 アイの話そうとしていることを理解し、ハチロウが止めに入ろうとする。しかしアイはハチロウの制止を聞くことなく続ける。

 アイは自分でしっかりと責任を背負うつもりだった。


「ブ、ブラックスワンは私が!」


「ワシのブラックスワンがどうしたかの?」


 すでに泣きながら喋るアイに外から別の声が割り込んできた。

 天幕てんまくが開き、そこからノジールが顔を出す。


「親分、どこ行ってたんすか。探したんですよ」


「何、ちょっと野暮用やぼようでな」


 心配する軍畑をよそに、ノジールはホッホッホッホと笑いながらテントの中へと入ってくる。そしてアイを正面から見つめた。


「それで、ワシのブラックスワンがどうしたのかの?」


 長い顎髭をさすりながら問う。 アイは始めて見るノジールに驚きを隠せなかった。

 アイが座っていることもあるが、目の前に立たれるとその伸長差でまるで壁を相手にしているようだった。

 顔がにこやかに笑っている分、何を考えているかまったく読めない。

 その点軍畑よりよっぽど怖そうに見えた。


「あのブラックスワンは、私が……」


 それでもアイは勇気を絞ってなんとか言葉をつむぐ。

 ハチロウはなおもアイを止めようと訴えかけ、メリーゴーランドは突然の事態に何が始まるのかと様子をうかがっていた。


 アイは一旦喋るのを止め大きく息を吸った。ハチロウの制止も虚しくアイは口を大きく開く。


「私がブラックスワンを逃がしました。ごめんなさい」


 その声はテント内に響き渡った。

 軍畑いくさばたとハチロウは顔を伏せ、事情を知らないメリーゴーランドは驚きの顔をアイに向けた。


 そんな中、ノジールだけがマイペースに笑っていた。


「はて、ワシのブラックスワンを逃がしたとな? それは何かの間違いじゃろ」


「ノジさん、そんなとぼけたふりしなくても」


 アイの謝罪をほうけるノジールに対し、ハチロウが口を挟む。


「いやいや、お前こそ何を言っている。ほれ、お前らもこっちにきて見てみろ。あそこにちゃんとおるじゃろ」


 まさか、と思いながら四人はノジールに促されテントの外に出る。


 外はすでに暗くなり星空となっていた。

 あちらこちらで片付けをする者が見え、祭りの後の空気が辺りにただよっていた。


 「あっ」とアイが声をあげる。続いてハチロウと軍畑も気付き目を丸くした。


 あのノジールを軽々と乗せて疾走しっそう出来るほどのサイズと筋肉を備えた黒色のクックロビン、ブラックスワンが確かにそこにいたのだ。


「親分あれは」「ノジさんどうやって」


 軍畑いくさばたとハチロウから同時に質問が飛ぶ。


「何、長年クックロビンを捕まえ続けていれば、大体通るルートの目星もつくってもんだ」


 ノジールは腕を組み満足げに笑う。


 ノジールの言っていた野暮用。それは逃げたブラックスワンを再び捕まえることだった。


 逃がしたクックロビンを捕まえ直すのは不可能に近い。だが不可能ではない。

 それをこともなくやり遂げてしまうのがこの男、古参ギルド『ノワール』のギルマス、ノジールその人だった。


「さすが、親分です」


 軍畑が感動にうち震えている。

 その横で事情を知らないメリーゴーランドが、さっきの話は嘘なんじゃないか、と一人胸をで下ろしていた。


 安心に包まれる空気の中、アイがノジールの正面に立ち、再び頭を下げる。


「ノジールさん、本当にごめんなさい」


 ハチロウもそれに続く。


「ノジさん、今回は色々迷惑かけてばっかで、ほんと、すんませんでした」


「別に何も問題は無い。これで一件落着だ」


 そう言ってノジールはアイの頭を片手で優しく包み込んた。


「そんなことよりアイちゃん、今日は楽しかったかい?」


 そしてノジールは撫でるのを止め、アイに問いかける。

 その目はやさしく笑っていた。


 今回のレース、それはすべてアイへの歓迎のために開かれたものだった。

 ノジールは企画の一人として、この世界の住民としてアイに感想を求める。


 アイはパッと顔を上げノジールを見上げた。


 何も心配はいらなかった。

 その答えは声を聞くまでもなく、すでに顔に書いてあった。


「うん、すんごく楽しかった」


「そうか、それは良かった」


 星空の薄い光が五人を照らす。

 ノジールとアイが笑い声を上げ、残りの三人はその光景に、まるで叔父と孫のようだと苦笑いを浮かべた。


 会場のあちこちに灯された火は少しずつその数を減らしていた。遠くで祭りの資材を運ぶ掛け声が響き、夜の《とばり》帳へと溶けていく。


「アイちゃん、ようこそ我々の世界へ」


――ようこそ、我々の世界へ


 ノジールの言葉にみなの心が重なる。


 こうして今回のレースはお開きとなった。




  ♯ ♯ ♯




「いやいや、さすがやってくれますね、ハチロウ君」


 セルは自身のホームに戻り今回の収入を確認していた。

 すでに夕日は沈み夜になっていた。スタンドライトのみを着け、セルはお札の枚数を数える。


 お札をデータに変えてしまった方が収入を確認するには遥かに早いが、セルは時間があればこうしてアナログ式でお札を数えることにしていた。


 想定外の金額を前にセルは笑いが止まらなかった。


 あのレース、ハチロウの予言と異なりアイは失格となった。そのためセルが秘密裏に集めさせた券は無駄になってしまった。

 だがそんなものは今回の結果を前にして些細なことに過ぎない。


 アイだけでなく、本名馬であるメリーゴーランドまでの失格。

 これが非常に大きかった。


 本名馬と穴馬の同時落脱。これによりレース開始以来、前代未聞となる当たり無し。

 つまり親の総取りという結果が生まれたのだ。


 予想外すぎる事態に賭けの参加者からは不正だ、払い戻しだ、などの声は上がっていた。

 だが今回の賭けが正当に認められて行われたものでなかったこともあり、それほど大きな声にはならなかった。


 もちろん声が大きかろうとセルにはあまり関係はなかった。

 一度取引が成立した以上、払い戻しなどセルにとって問題外であり、応じるつもりなど毛頭もなかった。

 セルは契約成立後にとやかく口を挟むことを不粋ぶすいだと考え、言われるのも言うのも嫌いだった。


「本当に今回は賭け金が少ないにしても、総取りとなれば話は別ですね。すごい額です」

 総取りの金額を前にしてセルから自然と笑みが溢れる。


「しかし、ハチロウ君。彼との契約の件はどうしましょうか」


 セルはそこでふと手を止め、ハチロウとの契約内容を思い出す。


 ハチロウがセルに出した条件はあくまでも『アイを優勝させる』というものだった。

 ところが結果はアイの失格である。


 つまり契約は不成立となり、セルはハチロウに最低でも今回消費した分の『転移の羽』を請求することができた。


「まぁ、でも可哀想だからよしてあげましょう。私もそこまで鬼ではありませんしね」


 セルは一人納得し、そうして再びお金を数え始めた。


 一見それはセルらしくない判断のように思われるが、破綻はたんまで持ち込んでしまっては意味がないのだ。このゲームから逃亡されては回収出来るものも出来なくなってしまう。

 死なない程度に泳がせる、それがセルの基本的な考えだった。


 そうして夜は更けていく。


 ちなみに今回のハチロウがもたらした勝ち金はセルへの借金の数百倍に昇ったが、契約の話に出ていない以上、その勝ち金がハチロウの借金返上に当てられることは一切ないのだった。




  ♯ ♯ ♯




「今回は色々とすまなかった」


「ま、『悠久の黄昏』が問題を起こすのはいつものことだ、一々気にしてたらこっちもやってらんねぇよ」


 ハチロウの謝罪に軍畑いくさばたはやれやれといった感じで苦笑いを返す。


「じゃまたな」


「おう、また」


 そうして軍畑との別れを済ませ、ハチロウはアイを連れて帰路につこうとしていた。

 軍畑の後ろではメリーゴーランドがノジールに色々なポーズを取りながらゴチャゴチャと今も何かを話していた。


「アイ、行くぞ」


「うん」


 ハチロウはアイに手を差し出し、アイも迷うことなくその手に捕まる。


 最後にアイは一度後ろを振り返り、ノジールに向かって手を振った。

 ノジールはメリーゴーランドを相手しながらもちゃんとアイに気付き、手を振り返してくれる。

 二人は短い間にずいぶんと仲良くなったようだった。


 ハチロウは二人が手を下ろすのを確認し、歩き出す。

 アイも引っ張られるようにその後に続いた。


 ゲーム内の夜空は現実のそれとはまるで違う。山奥でしか見られないような満天の星空の下を二人はゆっくりとホームへと歩いていく。


 もう時間も遅くなり、あれだけにぎやかだった街も今は静まり返っていた。

 それでもあの熱はすぐに忘れられないのか、時おりすれ違う人々はみなレースの話題をしていた。

 「最高だったぞ」と二人の存在に気付き、声をかける者もある。


「ありがとう」


 そんな時、ハチロウはどう答えて良いか分からず返事をきゅうしてしまうのだが、代わりにアイが声を上げ無邪気に手を振り返してくれた。

 もうすっかりこの世界に定着しているようだ。


 ハチロウはそんなアイを見て、照れ臭いようなむずがゆい気持ちになった。


 ホームに着くと、ゲンさんからの置き手紙が扉に張られていた。


 そこには『今日は色々迷惑かけてすまなかった、だが最高に楽しかった』ということ。『明日は早いから先に落ちる』ということ。

 それから『雛ロビンをとりあえず預かっているがどうするか』ということが書かれていた。


 ちなみに軍畑いくさばたからたくされた水色のクックロビンはすでにノワールの元へと返されていた。


「ハチロウ、飼っちゃダメ?」


 手紙を読み、アイがハチロウに訴える。


「え~、あいつ、うるさいだけだぞ」


 ハチロウは嫌そうな顔を返す。


「私がちゃんと世話するから」


「はぁ分かったよ、明日二人で受け取りに行こうな」


「やった」とアイが扉を開け、部屋に入る。


 アイは部屋の匂いを嗅ぎ《か》、朝にレースについて話していたことを思い出した。

 そしてそれがずいぶんと遠くのことのように感じられていた。


「アイ、まだ時間あるか?」


 そのまま自分の部屋に戻り、ログアウトしようとしていたアイにハチロウは声をかける。ハチロウはキッチンに入り、何やら準備をしているようだった。


「まだ大丈夫だけど、何?」


「レースの時、全部教えるって言ったろ」


 ハチロウがキッチンから顔を出す。その両手には湯気の立つコップが握られていた。


 あぁ、そうか、とそれを聞きアイは思い出す。

 今日は色々なことがありすぎて忘れかけていた。


 ハチロウがテーブルに向かい合わせにコップを二つ置く。

 アイはハチロウの反対側に回り込み、ぺたんと椅子に座った。


「聞いてくれよ、『悠久の黄昏』のことを」


「うん」


 そうして、ぽつりぽつりとハチロウは『悠久の黄昏』のことをアイに語り始めた。


 ハチロウが入団したときのこと、仲間のこと、冒険での成功や失敗談、面白かったエピソード、喧嘩した時のどうでしようもない切っ掛け。


 それは以前にハチロウから聞いたものとは180度違っていた。全然格好良くなくて、聞いてるこっちも情けなくなるような話ばかりだった。


 それでも、話している時のハチロウは常に笑っていた。それにアイの目を見てちゃんと話してくれていた。

 だからアイにはそれが嘘偽りない真実だと分かった。

 面白おかしく話すハチロウに自然とアイも笑ってしまう。


 これが『悠久の黄昏』なんだ。

 アイは本当のギルドの姿をゆっくりと理解していった。


 そうして一時間、二時間と夜は更けていく。


「それでな、そん時な」


 ハチロウはそこでふと話を止める。

 夢中で話すあまり、長くなりすぎてしまったようだった。

 向かいのアイがこくりこくりと船を漕ぎ始めていた。


「ごめんな。話はまた今度だ」


 ハチロウはアイを抱え上げ、部屋へと運ぼうとする。

 その手をアイが掴んだ。


「ハチロウ」


「どうした、アイ」


 アイは薄目でハチロウを見上げる。どうやら寝惚けているようだった。


「彼方は……悠久乃彼方はいつ帰ってくるんだろうね」


 その問いにハチロウはハッとさせられる。

 口をすぐに開こうとするが声がうまく出ない。


 その問いの答えをハチロウは知らないのだ。

 それはハチロウ自身も知りたいことだった。


「さぁ、分からない。でもいつか帰ってくるさ。だから気長に待とうぜ、二人で」


 だから代わりに自身の希望を答えた。それは嘘偽りないハチロウの本心だった。


「うん、そうだねぇ……」


 アイはそうして目を閉じてしまう。よっぽど眠かったようだ。そのまますぐに、すうすうと寝息が聞こえてくる。


「おい、ギアを着けたまま寝落ちると起きたときが辛いぞ。ちゃんと外して寝なさい」


「分かったぁ」と起きているのか寝言なのか分からない一言を残し、アイはスリープモードへと入ってしまった。

 ハチロウは声が届いたことを祈り、アイを部屋のベットに寝かせた。


 アイがこの世界にきた理由。それは悠久乃彼方に会うためだった。

 現在、彼がどのゲームをやっているのか分からない。

 そもそもゲーム自体まだやっているのか、あるいは生きているのさえ不明だった。


 だからアイは唯一の手がかりのあるこの世界で悠久乃彼方の帰りを待つことを決意したのだった。


「じゃまた明日な」


 ハチロウは部屋を後にし、扉を閉める。アイの顔は幸せそうな表情を浮かべていた。


 そしてハチロウの残っている理由。それもアイと同じだった。

 ハチロウもメンバーの帰りをずっと待っていた。

 ハチロウはギルドメンバーがいつでもここに帰ってこれるようにこの場所を一人で守り続けていたのだ。


 ハチロウは壁の柱に無数に刻まれた傷を撫でる。

 二年間、毎日落ちる前にこの柱に印を刻むのがハチロウの日課だった。


 最初、それはただ記録としてのものだった。

 だが、いつからかその数は憎しみの印へと変わってしまっていた。それがハチロウの中のギルドに対する妄想を加速させたのだった。


 ハチロウはいつも通り柱に切り込みを入れようとしてその手を止めた。そして無数の切り込みを眺めた後、納得しナイフをしまった。


 もう一日一日を憎しみに呑まれて待つ日々は終わったのだ。

 これからはアイがいる。二人でこの世界と向き合って生きていける。

 二人で笑いながら、彼らを待つことができる。


 『いつ何時も笑い、この世界を楽しめ』

 忘れてしまっていたその言葉をハチロウは強く噛み締める。


 だから、これから続く楽しい日々を態々数える必要なんてどこにもないのだ。

 一日は数えなくても勝手に過ぎていく。そうして季節は巡りやがて一周する。

 その日々を笑いながら過ごしていれば、そのうち彼らもひょっこり帰ってくるかもしれない。


 ハチロウはこれから続く日々を思った。そこには憎しみも悲しみも浮かんでこなかった。

 ただアイと過ごしていく楽しい日常に、胸が暖かくなった。


 ハチロウは柱に傷をつける代わりに軽く拳を当て、背を向けた。


「それじゃ、おやすみ」


 そして誰に言うわけでもなく呟き、ハチロウもまたソファーでスリープモードに入っていった。

 そのままゲームをログアウトする。


 そうしてこの世界の時間もゆっくりと流れていく。


 夜を越え、やがて世界は夜明けを迎え入れ始める。

 外では起きた雛ロビンが「ぴょぇぇぇぇぇ」と声を鳴らし始めていた。


 今日もまた新しい一日が始まろうとしていた。




 この世界はクリアされたことにより運営から終了を告げられ、もうアップデートされることはなくなった。それにより多くのものがこの地を去っていった。


 だが、この地から誰もいなくなるということは決してなかった。


 彼らは彼らなりにそれぞれ理由があり、今もこの地に残り続けていた。


 しかしただ残るだけでは何も面白くない。だから、彼らはこの世界を面白くしようと様々な努力していた。


 そうして今もこの世界は終わることなく続いてゆく。



 最終回を迎えた世界で、今日も彼らは生きていた。




[end]

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