一巻 2話 彼女の奮闘記 レースの開始

「心配すんなアイ、絶対俺が見つけてきてやるから」


 アイを元気付けるような余裕の表情を浮かべ、ハチロウはブラックスワンの逃げたであろう先に走っていった。顔に余裕を浮かべるので精一杯だったのか、どうにもその走りはぎこちなく、そこにいるアイとゲンさんはひたすらに不安になった。


「ま、まぁ、あれだ。あいつはあれでも『悠久ゆうきゅう黄昏たそがれ』のギルマスだぜ。信じて待ってような?」


 とゲンさんはアイの背中を叩いた。その台詞に自信が無いのか後ろにいくにつれ小さくなり、いよいよ最後には疑問文になってしまっていた。そんなのでアイを安心させられるわけもない。


 嘘だ、ハチロウは帰ってこない、そんなゲンさんの励ましも効かず、アイはハチロウの背中をただ見守っていた。


 実際その通り、アイは不安で不安で堪らなかった。


 逃がしてしまったことを知ったときのハチロウは口では「余裕余裕♪」とうそぶいていたが、顔が全然笑っていなかった。ゲーム上そんなエフェクトがあるわけでもないのに、それでもアイにはハチロウの全身から滝のように流れる汗が見えたような気がしていた。


「ハチロウ……」


 ハチロウの背中が見えなくなるとアイは心細くなりその名を思わず呟いた。


 少しの付き合いでも、アイにはハチロウがお調子者で嘘つきな駄目人間であることは分かっていた。それでも、『悠久の黄昏』の一員であったことは真実だし、レースを頼まれたことだって本当だと信じていた。


 もし、ここでハチロウがレースは全部自分が仕組んだことだと頭を下げていれば事態は変わっていたかもしれない。そもそもに、ハチロウがそれを出来るほどの根性があればこんな自演のような行為は起こさなかっただろうが。


 もちろん、それとは別にアイがブラックスワンに乗りたいと言わなければ、もっと早く声をあげていれば、逃がすという事態は避けられていた。だからアイは今の事態にハチロウよりもずっと重く責任を感じていた。


 ハチロウは頼りにならない、ここは私がどうにかしなきゃ、とアイは一つの決意を元に、こぶしをぎゅっと握り締めた。『悠久の黄昏』のメンバーとして私が面子を保つんだ。


「ゲンさん、お願いがあるんだけど」


 アイはゲンさんの瞳を覗き込むように顔を近づけた。


 それを聞いてゲンさんは、やっぱりそうなるよな、と思った。

 ハチロウのやつは必死に隠そうとしていたが、あのザル演技では不安にさせるだけだ。まぁ俺も全然隠し通せてないだろうからお互い様なんだろうけどな、と心の中で笑う。


 しかし、アイちゃんがゲームにうとくて良かったと思う。逃がしたクックロビンをまた捕まえるなんて、ほとんど不可能に近いのだ。


「おぉ、良いぜ」


 このことを知ったらアイちゃんはショックを受けるよな、とゲンさんは思いながら、それでも最後まで付き合ってやるつもりだった。親指を立てて、アイに答える。


「俺らはどこを探しに行こうか」


 アイちゃんに危険が無いように初期ステージにさり気無く導かねぇとなと、ゲンさんが出掛ける準備をしようとしていると、その服のすそをアイが引っ張った。


「違うよ。ゲンさん」


 その瞳は先ほどまでの不安は一切なく、強い決意が現れていた。


「私に、ゲンさんの、クックロビンを貸して」


 なんだと、ゲンさんはその以外な答えに自分のサングラスがずれるのを感じた。アイちゃん、君はどうするつもりなんだ。


 そんなゲンさんの不安を知らずアイは続ける。アイが決意したことはゲンさんが思うほど簡単なことではなかった。ぎゅっと裾を掴んだ手に自然に力がこもる。


「ハチロウは……きっと帰ってこないよね」


「あぁ、それは……どうだろうな」


 ゲンさんは話の方向が見えず慌てた。どう答えて良いかわからず、曖昧ににごした返事になってしまう。


「ううん、ハチロウは帰ってこないよ」


 それにアイは確信を込めた声で言い直す。ゲンさんはそんなアイを見て息を飲んだ。


「ハチロウは帰ってこない。ハチロウは、レースの約束を破る気なんだよ。私には分かるもん」


 再度裾を引っ張りアイはゲンさんの顔を自分に向けさせる。ゲンさんはその大きな瞳を正面から覗き込み、めまいを感じた。


「だからゲンさんのクックロビンを貸してっ。私がハチロウの代わりにレースに出るから。もともと私が乗りたいって言わなければこんなことにならなかったんだから。私が、責任とらなきゃ」


 アイちゃんなんて健気なんだ、とゲンさんはその眩しさに耐えられずサングラスを掛け直した。ゲンさんはアイの中に昔失った何かを見たような気がしたが、それがなんだか分からなかった。ただ無性に目尻が熱かった。


「分かったぜ、アイちゃん。俺はクックロビンを持ってないけど、今からアイちゃんのために最高のクックロビンを釣り上げてやるぜ」


 ゲンさんはハチロウに「アイをよろしくお願いします」と頼まれていた。しかし胸に熱い気持ちを宿した今のゲンさんは、すっかりそのことを忘れ、アイの願いを叶えるためにがむしゃらに走り出したのだった。



 ♯



「ごめんよ、アイちゃん。俺、釣るのは得意だったけど、捕獲はうまくなくてよぉぉ」


「大丈夫、ゲンさん。この子で十分だよ、ありがと」


 ここはレース会場であるグース街の一角、そこに上京を見送る親子のワンシーンを思わせる二人があった。


 泣き伏せるゲンさんと、その背中を優しく擦るアイである。


 道行く人はそのベタベタな光景に、何かの劇でもやってるのか、と期待の目を向ける。だが劇は一向に次のシーンに移らない。そして、二人の隣にいるクックロビンの雛の「ぴょぇぇぇぇ」という甲高い声を耳にすると、それを合図に落胆しながら去っていくのだった。


 もちろん、二人は何かを演じているわけではなかった。ゲンさんは心の底から落ち込んでおり、アイはそんなゲンさんを真正面から慰めていたのだ。


「ごめんよ、ごめんよ」とゲンさんは中々泣き止まず、嗚咽おえつと共にサングラスの縁から涙の滝を落としていた。アイは辛抱強くゲンさんの背中を擦り続けた。そんな二人にお構い無しに雛は「ぴょぇぇぇぇ」と鳴き、また一人の見物客の足を遠ざけるのであった。


「お前も今日はよろしくね」


 鳴き続ける雛の頭を撫でようとアイは優しく手を伸ばした。雛はそのアイの手をくちばしで払いのけ、そっぽを向いた。


 現在ペットになっているにも関わらず、とても懐いているとは言えない状態だった。さすがにアイも少し困った顔をみせる。


「ごめんよ、俺がもっとしっかりしたのを捕まえてくればぁぁぁ」


 ゲンさんはその光景を見てまた嗚咽を上げた。アイがそれを慰め、雛は鳴き続けるのだった。


 ゲンさんはこんなので自分が情けないと泣き続けているが、それでも仕方ない節があった。実際アイがブラックスワンに乗れず、逃がしてしまったようにクックロビンに乗るにはそれ見合うレベルが必要なのだ。


 アイの現在のレベルは10。


 このレベルで乗れるクックロビンはおらず、乗れる対象としてどうしても一段階前身となるモンスター『クックロビンの雛』になってしまうのだ。


 このクックロビンの雛、通称『雛ロビン』は初期ステージに存在するモンスターの一種で、実は初心者でも一週間ほどレベル上げを続ければ、簡単に捕まえて乗ることが出来るようになる。


 一見初期に手に入る乗り物のため、選択肢の少ない序盤で重宝じゅうほうすると思われがちだが、実際ほとんど乗るプレイヤーは存在しなかった。その理由はとにかく足が遅く、人の歩行スピードのほとんど変わらない為だ。


 一応、プレイヤーと一緒にレベル上げを続ければクックロビンに進化はするため、共に冒険しようとするプレイヤーもいたのだが、そんな少数のプレイヤーもランダムに発生される雛ロビンの「ぴょぇぇぇぇ」という情けない泣き声を前に心を折られていった。


 その結果、『クックロビンを利用するのは上級職になってから、それまでは徒歩で頑張りましょう』というのがこのゲームの定跡となった。

 雛ロビンを利用する機会は『フルダイブゲームの初心者が気軽に乗りを経験するため』とされ、誰でも乗れはするが、実際に乗る者のほとんどいない不遇モンスターとなってしまっていた。


 そのあまりの利用価値の無さに、進化システムを構築した際の一種のバグでは無いかと疑うプレイヤーも少なくなかったが、運営が何も言わない以上、推測の域を出ないのだった。


 しかし今回、選択肢が無かったから仕方なくとはいえ、ゲーム開始時から無価値とされた雛ロビンは、長い年月を経て初めて日の目を浴びることができた。


「わ、なんでこんなに暴れるの」


 ついに乗り手が現れたという事実に、当事者である雛ロビンがそれを理由に躍り狂ったのかは誰にも分からない。


「すまねぇ、アイちゃん。俺が、俺がぁぁぁ」


 ただ本来、条件さえ満たしていれば簡単に乗ることの出来る雛ロビンを前に、二人が入場時間ギリギリまで悪戦苦闘あくせんくとうしたということだけは間違えようのない事実であった。


 先ほど去ってしまった見物客も「やっとシーンが変わったな」と再び遠目にそれを眺めるのだが、やはりその場面も中々次へと移らず「次は何分後とでも看板を出しておけば良いのに」と愚痴りながらに去っていくのだった。


「やっと落ち着いてくれた」


 そんなこんなで、雛ロビンが乗り手に主導権を譲ったのは入場ゲートが閉まろうとしている直前だった。

 あれだけ暴れていた雛ロビンが突然落ち着いたのは、長年の喜びを表現しきったからというより、単に反抗することに疲れただけのように見えた。


「ぴょぇぇぇぇ」


 今日はよろしくな、と言われた気がしてアイは雛ロビンの上から頭を撫でた。今度は雛ロビンもくちばしで払いのけるような真似をせず素直に従う。

 その頭はさんざん暴れまわったため、至るところにゴミが付き毛むくじゃらの状態になっていた。


 もちろん、酷いことになっているのは雛ロビンだけではない。乗ろうとしたアイも、取り押さえようとしたゲンさんもレースを前にしてボロボロになっていた。


「うん、大丈夫そう。行ってくるね、ゲンさん」


 ぐるりとその場で雛ロビンを回らせ、問題ないのを確認するとアイは出発をゲンさんに告げる。


 ボロボロのアイの長い髪と雛ロビンの毛とが混じり合い、完全に融合しかけているのを物珍しそうに見ながら、ゲンさんはうなずき返す。

 この頃にはすでにゲンさんも泣くのを止めて前を向いていた。


「ヴォウ、ギッテゴイ(おう、行ってこい)」


 そしてその代わりに喉は枯れはて、しばらくは会話困難な状態におちいっていた。


「うん、頑張る」


 アイはニュアンスでゲンさんの言葉を理解し頷いて見せた。それを合図に雛ロビンが優雅な歩みでアイを入場ゲートへと運んでいく。


「アイジャァァン、ガンガレェェェ」


 ゲンさんは両手を振り上げあらんかぎりの声と共にアイを見送った、いや、見送ろうとした。


 すぐにアイと雛ロビンの姿はすぐに見えなくなると思いきや、その歩みはゲンさんの予想を遥かに下回った。

 結局アイが入場ゲートを潜り、その扉が閉められるまでに一分もの時間を要した。その間、ゲンさんは声と両手を張り続けるはめになったのだ。


「ガン、ガレ……」


 あれだけ泣き張らし、雛ロビンを取り押さえようと必死に努力したゲンさんにはもう体力は残されていなかった。アイと違い、ゲンさんは若くないのだ。

 ゲートの閉まる瞬間、すでにゲンさんの声は途切れ、息絶え絶えに地面に伏していた。


 そんなゲンさんの最後の勇姿をアイは残念なことに見ていなかった。

 途中で声が聞こえなくなったため(ゲンさんはそれでも叫んではいたが)、もう行ってしまったものだと勘違いしていた。

 そして、何よりいざ自分が参加するのだという極度の緊張で周りがすっかり見えなくなっていた。


 これでゲンさんの勇姿は無駄になってしまったのかと思いきや、そうではなかった。


「良い芝居じゃねぇか」


 入場ゲートを管理する黒服がそのゲンさんの勇姿を看取っていたのである。黒服はサングラスの隙間に指を差し込み、目尻に溜まる熱いものを拭っていた。


 この黒服は先ほどからアイとゲンさんの行動を劇と勘違いして眺めていた一人だった。


 他の人々が雛ロビンの鳴き声を聞き去ってしまうのに対し、黒服は入場ゲートを任されていたため、そうはならなかった。

 しかもこの時間になるともう参加を求める列もなく暇だった。だからすることもなく二人の劇を見ていたのだ。


 この黒服はリアルで芝居をかじっており、最初、テンポの悪い二人の劇にへきへきとしていたが、その感情のこもった演技に最後はこうして涙を落とすほどに熱中していた。

 アイと雛ロビンが入場ゲートに近づき、ゲンさんがそれを見送っているシーンに入ると、黒服は「そうか、ここを潜るまでが劇なのだな」と勝手に勘違いした。


 黒服は気を利かせ、アイがゲートを潜るまでゲートを閉めずに待っていてくれた。

 本来、雛ロビンでの参加など悪ふざけに過ぎず、黒服はそういったやからを審査するためにここに手配されていた。

 だが芝居にすっかり熱を上げた彼は早々に業務を放棄し、劇のサポート役へと回ったのだった。


「良い劇だったぜ。だが次やるときはもっとテンポを考えときな。そうしないと客が逃げちまう」


 アイがゲートを潜り黒服とすれ違った瞬間、黒服はアイに自分なりのアドバイスを送った。


「う、うん、頑張る」


「あぁ、期待してるぜ」


 アイは緊張で何を言われたのか分からず適当に返しただけだったが、会話が繋がった気がしたので特に気を止めず奥へと進んでいった。

 顔には未だに旅立ちの地への不安を過らせる緊張の面持ちを保っており、黒服は、こいつは中々の大物になるな、と心の中で勝手に期待を膨らませた。


「俺もまた、あんな芝居がしたいもんだぜ」


 そんなアイを見送り、黒服は諦めてしまった夢をまた追ってみようと思ったのだった。


 ゲートが閉まりきるのを見届けるとゲンさんは息を整え立ち上がった。

 そして、ゲートの閉まる途中、向こうから黒服が良い笑顔で親指を立てていたので思わずこっちも立て返してしまったが、結局あれはなんだっだのだろう、と首をかしげた。


 そんなことよりアイちゃんだ、とゲンさんはもう開くことのない巨大な扉を見上げた。ついに行ってしまったのかと感傷に浸り、また涙ぐむ。


 アイとゲンさんの出会いはそれほど昔ではない。精々一ヶ月ほどだ。それでもゲンさんの中には様々なアイとの記憶が甦っていた。

 それは代わり映えのない日常だったためバリエーションが少なく、いくつかのシーンは何周もループしていたのだが、ゲンさんは一人の娘を嫁がせる父親の気持ちまで、自分の思いを高ぶらさせていた。


 まったく、子供ってのはすぐに大きくなりやがる。立派になったアイちゃんをハチロウにも見せてやりたかったぜ。


 ゲンさんは心にそう思ったとき、一つの突っ掛かりを感じた。


 ……ハチロウ?


「あ”ぁぁぁぁぁっぁぁぁ」


 そして、その突っ掛かりが何であったか気づいた瞬間、ゲンさんは思わず叫んでいた。


 そうだ、俺はハチロウにアイちゃんを頼まれていたんだ。それなのに俺は、俺はなんてことをしちまったんだ。


 アイを追おうとゲンさんはゲートに体当たりした。しかし重く閉ざされた扉はびくともしなかった。叩いて中に知らせようにも石で出来た扉では中に響きそうにない。


「はちろぉぉぉぉぉぉ」


 万策尽きたゲンさんは扉へとへたれこみ、ハチロウの名を呼んだのだった。




  ♯ ♯ ♯




 街内で転移の羽を使ってまで親分ことノジールの元へ急行しようとした軍畑いくさばただったが、転移先で祭りの人混みに揉まれ、目的地にたどり着いたのはレース開始まであと少しというところだった。


「親分大変だ」


 レース参加者の集まる広場の一角、そこに設営されたテントの暖簾のれんを軍畑は勢いよく払い除けた。


「何やら騒がしいのぉ」


 テントの奥に巨大なトドを思わせるずんぐりとした体格の老人がソファーに腰かけていた。長い顎髭を撫で上げ入り口に視線を向ける。

 『ノワール』のギルドマスター、親分ことノジールその人である。


「おお軍畑か。どうしたそんなに慌てて」


とぼけないでください。親分だって分かってるでしょうが」


 ふむ、とそこでノジールは一旦会話をきった。再び顎髭を撫で上げ鋭い目をする。


「アイちゃんのことか」


「そうですよ。あんな雛ロビンでの参加なんて今まで聞いたことが無いっ」


 アイがハチロウの代わりに参加するというだけで驚いていたのに、会場でのアイを見て軍畑はさらに驚いていた。アイが乗っていたのがクックロビンではなく雛ロビンだったからだ。


「どうやって審査を通ったか分かりませんが、あんな出来損ないでの参加なんて目に見えてる。あれじゃさらし者だ」


「晒し、者か」


 ノジールは自身の言葉を噛み締めるように頷いた。


「晒し者で、何が悪いんだ」


「親分、それじゃ今回の開催の意味がっ」


 ノジールの意外な答えに軍畑は叫んだ。

 ハチロウの頼みごとだったとは言え、元を辿れば今回の開催はアイを楽しませるために行われたものなのだ。それが張本人を晒し者にするという結果を招いてしまえば、まったく逆の事態になりかねない。


「それに最悪、ショックを受けてアイちゃんが辞めちまう可能性だってある。ノワールの権限を使ってでも参加を辞めさせるべきだ」


「お前こそ、何も分かってねぇようだな!」


 ノジールは机を叩きつけ一括した。あまりの衝撃にテント全体が音を立てて揺れる。


「いいか、アイちゃんはワシらが出した依頼に義理を立てるために参加してるんだ。それをワシらの都合で取り止める? そんな道理通ると思うか。ワシらがアイちゃんに答えてやらなくてどうする。ノワールの信頼が地に堕ちるってもんだ」


 ノジールの怒鳴り声に軍畑は肝を冷やし直立する。それでもノワールの副リーダーであり、フェスの責任者である軍畑はノジールに反論を申し立てる。


「親分の言いたいことも分かりやす。しかし、フェスは俺らギルドだけで行うものじゃあない。みんな、真剣にレースを楽しみにここに着てる。雛ロビンで参加しちゃいけねぇということはないですが、それでも会場の空気というものが……」


 ノジールは何かを考えるように口を閉ざした。軍畑はその返事を辛抱強く待つ。

 するとそこに一人の来客が現れた。


「ふん、やっぱり『ノワール』はいつきても騒がしいギルドだな」


 声を聞き軍畑いくさばたは入り口を振り返る。そうでなくても軍畑にはその憎まれ口で誰だか分かっていた。


「今回お前に声をかけたつもりは無かったが」


「な~に僕もこう見えてそれなりに顔が広くてね、風を便りに遙々駆けつけてきたのさ」


 そいつはそこでくるりと回り、指をならしてポーズを決める。軍畑はそれを見て顔をしかめた。


「それに、主役の僕がいないとレースは始まらないじゃないか」


「いつからお前が主役になったんだよ」という軍畑の小言に「何か言ったかい?」とそいつは大袈裟な動きで軍畑に迫る。

 キャラなのかもしれないが、こういうところがウザいんだよと軍畑は思っていた。



 彼のハンドルネイムはメリーゴーランドという。ウェーブの掛かった金髪と高い鼻、細身の体という少女漫画の世界の貴族を思わせるような風貌ふうぼうが彼の特徴だ。

 そしてその見た目を裏切らず、派手好きでナルティストというのが彼の性格だった。


 メリーゴーランドはエピローグをもってゲームを辞めてしまったプレイヤーの一人だったが、こうしてレースの時だけログインするという変わり者だった。

 その理由は彼自身ではなく、彼の持つクックロビン『白鳥の湖』にあった。

 テイルズ時代、彼は目立った活躍もなく、その言動や行動で若干の知名度はあったもののごく普通のプレイヤーの一人だった。

 彼を変えたもの、それがまさに『白鳥の湖』との出会いだった。


 捕獲するクックロビンに個体差があるのは以前に説明した通りだが、その数値や性格といったものに規則性がなくランダムだった。

 ノジールのように大量に捕獲と飼育を繰り返し、ブラックスワンのような優秀な個体を作り出すという方法もあるが、ごくまれに一発で優秀個体を引き当ててしまう強運の持ち主もいた。


 それがこのメリーゴーランドだった。


 彼は白鳥の湖と出会い変わった。ノジールが冒険を優位に進めるためにクックロビンを使うのに対し、メリーゴーランドは戦闘で白鳥の湖を失うのを恐れ、それ以降冒険に参加しなくなったのだ。

 しかしそれでは自分の特殊性を発揮できない、目立てないとメリーゴーランドは密かに悩みを抱えていた。


 そんなメリーゴーランドのジレンマを解決したのがこのロビンレースだった。


 彼は初めてのレースで優勝という輝かしい成果を上げた。

 彼に腕があったわけではない。やはり白鳥の湖が他の個体より断然速かったのだ。

 皆が僕を見てくれる、そのことに味を占めたメリーゴーランドはこうしてレースがあれば、いつでもどこでも駆け付けるようになった。


 途中からライバルであるノジールのブラックスワンが現れ、いつも優勝出来るという訳にはいかなくなったが、それでも優勝候補の一角であることは今も変わらなかった。



「お前の空耳じゃねぇか」と顔を近づけるメリーゴーランドに軍畑いくさばたが素っ気ない言葉を返すと「ふん、そういうことにしておこう」とメリーゴーランドは案外あっさりと引いた。


「なに、君に用がある訳じゃない。僕は永遠のライバルであるノジさんにレース前のご挨拶にきたんだ」


 メリーゴーランドはそう言うと軍畑の横を通りすぎ、被っていたハットを片手にノジールに深々と挨拶した。


「ノジさんと僕の対戦結果はこれで48勝49敗。前回は負けましたが、今回は僕の得意とするグース。勝たせて頂きますよ」


 頭を下げた姿勢から巻き戻しのように体を起こす。その顔にはニヒルな笑いを浮かべていた。


「そして更にその次のレース。映えある50勝目を先に上げるのは、この僕。メリーゴーランドだ」


 メリーゴーランドはそのまま腕を伸ばし、拳をノジールへと向けた。高らかに勝利宣告を告げる。

 一々ポーズを決めないと喋れないのかこいつは、と軍畑はため息を付いた。


 メリーゴーランドの突然の介入かいにゅうから今に至るまで、ノジールは眉一つ動かさずにその光景を眺めていた。

 ノジールはその間、ずっとアイと『悠久ゆうきゅう黄昏たそがれ』のことを考えていた。


(義理立てされたのだからなんとしても道理を通さなければならない。周りの反対があろうとも)


(それならば、そのための意味と理由を演出してやれば良い)


「今回、ワシは出んよ」


 ノジールは自分の考えをまとめ、重く閉ざしていた口を開いた。


「どういうことだいノジさん。僕から逃げるっていうのかい」


「そうではない。ワシもいい加減に歳でな」


 目を見開き大振りの演技でショックを表現するメリーゴーランドの横で、軍畑いくさばたはノジールの考えが読めずにいた。事のなり行きを見守る。


「歳ってそんな理由で」


「ホッホッホ、もう腰が痛くて敵わんのだよ」


 ノジールは入り口に目を向け次の台詞のタイミングを見計らった。先ほどから入り口付近を長い栗色の髪がチラチラと覗いていた。


「そうなげくでない。そこでだ。優勝候補であるワシが急に出なくなるでは、お前や他の参加者が悲しむと思ってな」


 ほれ、と絶妙のタイミングで入り口を指差す。


「代理を立てた」


 咄嗟とっさにノジールの考えを察した軍畑が「親分っ」と止めに入ろうとする。


 しかしその声はテントの外から響いた「ぴょぇぇぇぇぇ」という鳴き声に欠き消されてしまっていた。


 テントの入り口。そこから再び暴れまわる雛ロビンとそれを必死に抑えようとする一人の少女、アイが姿を覗かせていた。


「ノジさん、冗談で言っているのかい……」


 テント外の光景を見たメリーゴーランドが素の表情でノジールを振り返る。


 ノジールは、ショックが大きすぎたかの、と思いながらもそのまま気軽な口調で続ける。


「冗談なものか。あの子はああ見えて、『悠久ゆうきゅう黄昏たそがれ』のメンバーの一人じゃ。調子にのっていると足元をすくわれるぞ」


「悠久の黄昏……」


 そう聞いてメリーゴーランドは一瞬逡巡しゅんじゅんするが直ぐに言い返す。


「いや、いくらそうだとしても乗ってるのは雛ロビンじゃないか。あんなの負けるはずがない」


 メリーゴーランドは感情的になりテーブルを叩いた。ノジールは何も言わずにじっとメリーゴーランドの行動を見つめる。


「ノジさん、本気なのかい?」


 何も答えないノジールにメリーゴーランドは顔を上げ再度問いた。ノジールもらすことなくその目を正面から見つめ返す。


「あぁ。もしかしたらあの子ではワシの代理は勤まらんかもしれん。全く勝負にならずにビリっけつを独走することになるかもしれん。

 それでも、ワシが出れん代わりあの子が出場してくれている。それだけは誰がなんとも言おうと譲ることの出来ん事実だ」


「そうかい、分かったよ」


 メリーゴーランドはノジールに背を向け、手に持っていたハットを目深に被った。隣にいる軍畑に挨拶することなく出口へと歩き出す。

 そのまま出ていくのかと思いきやメリーゴーランドは一度、出口で立ち止まった。


「ノジさん、あなたの思いはしかと受け取った。どんな相手であろうと僕は全身全霊をもって相手にしよう。そして、完膚なきまでに叩き潰す」


 そして、背中を向けたままメリーゴランドはノジールに彼なりの騎士道を宣言した。


「ホッホッホ、お手柔らかに頼むぞ」


 そうこなくてはな、とノジールは高笑いでそれに答える。


「こ、後悔してもしらないからな」


 メリーゴーランドは本気にされていないと思ったのか、最後の最後で子供の喧嘩のような情けない捨て台詞セリフを残し、足早に去っていってしまった。



 やれらた、こう思ったのは二人のやり取りを見ていた軍畑いくさばただった。顔に手を当て、打ちひしがれている。


「親分、性格悪すぎですよ」


「お前がアイちゃんの参加を取り止めようとするからだ」


「すいませんね。私が悪かったですよ」


 ノジールとメリーゴーランドの先ほどのやりとり。ノジールはわざとメリーゴーランドをあおっていた。そうすることでアイの参加を認めざるを得ない状況を作ったのだ。


 ノジールが参加できないだけでなくその代理と宣言したアイの参加まで取り消してしまったら、それこそ今回のレースを仕切る『ノワール』の沽券こけんに関わる。


「まぁ、ここにきて急遽アイちゃんの参加取り止めなんてやったら、それはそれで空気が悪くなっていたでしょうしね、仕方ないです」


 軍畑は一度ため息をつき、諦めの付いた顔をノジールに向ける。


「しかし、どうするんです。メリーゴーランドのやつは本気ですぜ。あんなに煽らなくても良かったのでは」


「ふん、本気なのはメリーゴーランドだけでない。アイちゃんにしろ、このレースに参加する連中はみんな本気の本気だ」


 そう言われ軍畑は外に意識を向ける。

 精神統一しているもの、レースを前にして興奮を隠しきれないもの。方法はさまざまだったが、みんな真面目にレースに挑もうという態度が見て取れた。


「さっきお前はアイちゃんがさらし者になると言っていたな。案ずるな」


 ノジールは椅子から立ち上がり軍畑の隣に並んだ。外の光景を同じ場所から眺める。


「この世界に、本気で取り組んでる者を《けな》貶す《やから》輩など存在せんよ」


「そうだと、いいのですが」


「お前は心配性だな」


 遠くで花火の上がる音が響いた。ファンファーレのような人々の歓喜の雄叫びもあちこちから聞こえる。

 レースの開催が間近に迫っているのだ。


「それにな、軍畑いくさばたよ」とノジールは間をおいて口を開く。


「ワシは少し期待しているのだよ」


「アイちゃん、いや、『悠久ゆうきゅう黄昏たそがれ』にですか」


「あぁ。エピローグに入り『悠久の黄昏』はハチロウの一人になりギルドではなくなった。ところがアイちゃんが入ることであれは再びギルドであることを取り戻したのだ。ワシはまたあの頃のように何かが起きるのではないかと、そう思ってしまう」


「あんなギルドに……」


 不満げな軍畑にノジールは優しく声をかける。


「お前はまだあの時のことを恨んでおるのか」


「恨んでないといったら嘘になります。あいつらがあんなことしなければ……」


「あやつらでなくとも、《いづ》何れは誰かが成し遂げていただろう。それはワシらであったかもしれん。そううらむことではあるまい」


 ふてくされる軍畑のツンツン頭をノジールは大きな手で包み込んだ。軍畑はされるがまま頭を預ける。


「始まりがあれば終わりは必ず訪れる。たたそれだけのことだ」


 軍畑は答えない。まだ自分の中で整理できない問題なのだ。


 ノジールはそんな軍畑を見てにっこりと笑った。若いうちはそうやって悩めばいい。悩むことは決して悪いことではない。


「それに軍畑よ。アイちゃんのあの表情を見てみ。まるで焦りと緊張感がこっちに伝わってくるみたいじゃないか。真面目にこの世界を生きているあかしだ」


 ノジールは話の矛先を変え、軍畑の顔をアイ達へと向けさせた。

 いつのまにか参加者のスタート時点への移動が始まっていた。その移動でさえもアイは雛ロビン相手に悪戦苦闘していたのだ。


「例え世界が終わりを迎えたとしてもだ。あのアイちゃんのように、ワシらがここで懸命に生き続けていれば世界は簡単には無くならんよ」


「はい」


 黙っていた軍畑いくさばたが短く返事をする。その顔には生気が戻り始めていた。ノジールはホッホッと笑う。


「しかし全くな。まだここにきて日も浅いというのにアヤツよりアイちゃんの方がこの世界での生き方を分かっている。そうは思わんか」


 それを受け軍畑はニヤリと笑った。軍畑の頭にやつの情けない顔がよぎる。


「そうですね。アイちゃんの方が全然分かってる」


 そうして二人が笑い合っていると一人の黒服がテントに入ってきた。


「親分、兄貴。もうすぐスタートです。準備をお願いします」


 スタートの銃声を鳴らすのはそのレースを企画したギルドだと昔から決まっていた。二人はスタート時点への移動を開始する。


「軍畑よ。こうなってしまってはあれだが、お前は今日のレース誰に賭ける?」

「そりゃ、まぁメリーゴーランドの独走じゃないですか」


「さて、どうなるかの……」


 二人の向かう先にいくつもの煙玉が上がり、空をカラフルに染め上げていた。まだかまだかとレースの開始を心待した群衆があちこちに溢れ、街は大混乱の体を見せている。


 二人はそんないつもの喧騒の中へとゆっくりと歩みを進めた。




  ♯ ♯ ♯




 ロビンレース、それは色々な街や場所で開催されていた。

 そのため広大な大地を駆ける直線コース、海沿いのカーブの多いコース、山道のアップダウンの激しいコースとその種類は多岐に渡る。


 そんな中、ここグースで扱われるコースは比較的穏やかで初心者向けといえた。

 またコースに癖がない分クックロビンそのものの実力が物をいうため、自力を見せつけたいプレイヤーにもここでの開催は好まれていた。


 グースはゲームを開始したプレイヤーが最初に訪れる街の名だ。

 そのためグースはこの世界で一二を争う広さを持ち、この世界の首都としても機能していた。

 何をするにも利便性が良いため今でもこの街を拠点にしているプレイヤーも多い。


 街は全体を丸く石作りの壁に囲われ、東西南北にそれぞれ外に通じる門がある。

 今回のレースは東門からスタートし街の外周をぐるりと一周する。そして再びスタート地点である東門に戻ったのち、門を潜り抜け街の中央を西門へとまっすぐ駆け抜けてゴールとなる。


 平均的なクックロビンを使用し30分はかかる計算だ。これを優勝候補者達は20分前後で駆け抜ける。


 街の外周や中央通りにはレースを一目見ようと人々が集まり、中でもスタート地点と折り返しである東門とゴール地点である西門の前には溢れんばかりの人でごったがえしていた。


 レースの開始は企画ギルドの副隊長であり、今回のレースの責任者である軍畑いくさばたから告げられる。


 優勝候補であるノジールの不参加、そして何を考えているのやら分からない『悠久ゆうきゅう黄昏たそがれ』の雛ロビンでの参加と、いつもと違うレースの様子に群衆は多いに騒ぎ立てていたが、軍畑が姿を表すとみな息を呑むように静まり返った。


 軍畑がスタート地点に設置された高台に登り、マイクを掴んだ。


「お前らぁ、多いに笑い叫び、楽しみやがれ。そして勝利を掴みとれぇぇ」


「「「うぉぉぉぉぉぉ」」」


 軍畑の号令と共に空砲が打ち上げられる。それがスタートの合図となり一斉にクックロビンが走り出した。

 観客の歓声とクックロビンの爪音が街全体を包み込む。


 今、街と群衆はひとつになっていた。



 ♯



「くっ、僕は認めないぞ」


 そうつぶいたのはレース中のメリーゴーランドだった。予想外の事態に顔には焦りが浮かび、手にする手綱にも力がこもる。


 メリーゴーランドはちらちらと後ろを振り返った。まるで今にも誰かが迫ってくるのを恐れるように。

 しかしそこには誰もいなかった。見間違いだと信じまた振り返るがやはり誰の影もいない。


「何でこんなことに、くそ」


 思わず汚い言葉が出てしまう。

 こういったことは今まで彼がレースに参加してきた中でも経験の無いものだった。それだけに対処法が分からず冷静さを失ってしまう。


 メリーゴーランドはその後も何度も振り返るが何も変わらなかった。

 そして、いよいよこの緊張に耐えられなくなり、思わず空に向かって雄叫おたけびを上げた。


「僕は認めないからなぁぁぁ」


 その声は壁に反響し、こだまとなって幾重いくえにも街に響いたが反応するものは誰もいない。


 そう、誰もいなかったのだ。


 レース参加者だけでなく、観客すらメリーゴーランドの周りには見当たらなかった。



 メリーゴーランドはノジールとの約束を果たすべく、レース開始早々にスピードを上げ、単独逃げ切りを計った。

 その計画は今のところ上手くいっていた。彼は今もトップを独走していたのである。


 本来であればトップとはレースの花形だ。レースの観客の誰もが注目し、そのトップが目の前を通りすぎるものならば声を上げて応援するものだ。

 だからメリーゴーランドは先頭を走るのが好きだった。足を貯めて最後に抜くのではなく、どのレースでも常に先頭をキープしていた。


 ところが現在、メリーゴーランドの周りには人っこ一人いない。

 例え居たとしてもその者は手元のモニターに意識を向けており、彼が通りすぎることに気付きもしなかった。


 今、人々の視線は別のところに集中していた。


「こうやって僕のモチベーションを下げるのが目的だったのか、ノジさんっ」


 外壁に人を見つけ、メリーゴーランドは懸命に手を振るがやはり反応がない。

 恥ずかしさのあまり「今のはクロールの練習だ」と素振りを見せるがやはりシカトされた。


「いいさ、僕は決してこんな卑怯ひきょうな戦略に屈しはしない」


 メリーゴーランドは口ではそう強がりながらも、あまりの寂しさに目尻に何か熱いものが込み上げてきていた。走りながら目元を拭う。

 そして、もう周りを振り返らず、前だけを見てがむしゃらに駆け抜けることを決めた。


 メリーゴーランドが一蹴り入れると、愛鳥の『白鳥の湖』は更にスピードを上げた。

 メリーゴーランドと白鳥の湖は一つの白い弾丸となり、街を疾走しっそうする。


「屈しないからなぁぁぁぁぁ」


 彼の勘違いしたその台詞セリフもやはり木霊となって響いたが、ノジールを含め誰にも届くことはないのだった。



 ♯



 人々が注目していたものは一体なんなのか。


 それは独走中のメリーゴーランドとまったく逆の位置、集団から離れた遥か後方で同じく独走中のアイと雛ロビンだった。


 この一人と一羽は開始早々に集団から置いていかれ、その差はぐいぐいと広がる一方だった。

 他の参加者が育て上げたクックロビンで参加する中での雛ロビンでの参加である。こうなることは誰でも予想できたことだった。


 それでも、もしかしたら何か秘策があるのではないかと期待していた観客も少なからずいた。


 それだけにこの展開を前にして観客の中には落胆ムードが漂っていた。何人かが悔しそうに手元の券を丸めている。


 表立ってではないが、このレースでは秘密裏に賭け事は行われていた。

 ノジールの不参加により本名馬はメリーゴーランド一本に絞られ、面白い賭けとはならなくなっていたが、その中でも穴馬のアイに賭けた参加者も幾人かいたのだ。


 なんの秘策もなく走り続けるアイを前に券は次々と投げ捨てられた。

 その券はそのままゴミになると思いきや、誰かの指示でこっそりと拾い集められていたことに気付くものはいない。みな、紙屑になるであろう券に今さら興味を示さなかった。


 このまま気まずい雰囲気が続き、軍畑いくさばたが懸念していたようにアイが晒し者となる未来が見えてきていた。


 実際、勝つ見込みもなく出ているのならば、悪ふざけか何かの罰ゲームではないかと、観客の中から少しずつ推測が持ち上がりつつあった。


 誰か一人が文句を上げれば、それが火種となり一斉に野次が飛ぶであろう緊迫した空気の中、これを予期していたように一人の男が立ち上がった。


 男は横断幕を持ち、仁王立ちしていた。

 その姿はさながら応援団を思わせたが、いささか顔が老けすぎていた。


「アイジャァァァン、ガンガレェェェェェェェ」


 周りの観客はその突然の応援よりも声の枯れ具合に驚いた。なぜ応援前からこんなに声を枯らしているんだ、と目を向ける。


 その理由を知るのはアイと二人を見ていた黒服、そしてこの声の張本人、ゲンさんだけだった。


 ゲンさんは回復した体力を再び使いきるのではないかという勢いで応援を開始した。


 このことで場の雰囲気が一気に困惑へと変わる。

 それはそうだ。勝てるはずがないレースをここまで必死に応援する理由が人々には理解できなかったのだ。


 しかしそんな困惑もほんのひとしのぎに過ぎない。

 結局のところ、野次の対象がアイからこの理解不能な行動をとる男、ゲンさんに変わっただけのことだった。


 距離が近い分言いやすいのか、近くの観客からゲンさんに「大丈夫か?お前」と野次が飛ぶ。


「なんだとでめぇ」


 ゲンさんは有無も言わさず、その観客の胸倉に掴みかかる。


「お前も応援じやがれ。アイじゃんはなぁ、アイじゃんはなぁ」


 そのまま畳み掛けるゲンさんを周りが取り押さえようと乗り出し始める。

 このままゲンさんは拘束され、連れていかれると思いきや、ゲンさんの次の一言の方が一瞬早かった。


「ノジールのがわりに、このレーズにざんかしてんだよぉぉ」


 意味が分からないと大半の群衆が首を傾げる中、この言葉にハッとさせられた者達がいた。


 ハチロウを捕まえるための壁役を買って出ていた連中である。


 彼らはハチロウがノジールの愛鳥『ブラックスワン』を逃がしてしまったことを知っているのだ。

 そして今、ハチロウと同じ『悠久ゆうきゅう黄昏たそがれ』のメンバーであるアイがこういった無理な形でレースに参加している。


ゲンさんの一言によって彼らの中の線が一本に繋がったのである。


「おい、ちょっとあんた。それは本当か」


 一人の青年が取り押さえられるゲンさんに訊ねる。


「だがら、そう言ってるだろ。お前らも応援じろ」


 その言葉により、場の空気はがらりと変化した。


 今にも野次が飛びそうな危うい雰囲気から一変、全員が肩を並べアイを応援し始めたのだ。


 ブラックスワンを逃がしたハチロウの罪をつぐなうため健気にレースに参加している少女がいる。

 この噂は瞬く間に街全体に広がり人々の注目を集めることとなった。


 これがメリーゴーランドに注目が集まらない理由である。


 しかも、応援の対象がクックロビンではなく雛ロビンであったことが新たな変化を生んだ。


 レース用に鍛え上げられたクックロビンでは速すぎてエールを送るにも一瞬で目の前を通りすぎてしまう。

 ところがこの雛ロビンは人の走る速度と対して変わらないのである。

 その結果、目の前を通過する時間が延びるというだけでない。走って追いかけることができたのだ。


「アイちゃぁぁぁん、がんばれぇぇぇぇぇ」


 観客はアイが目の前を通りすぎると、その後に続き応援を続けた。

 それはすぐに長蛇の列になり、さながらハーメルンの笛吹を思わせた。


「ホッホッホ、だから大丈夫と言っただろ」


 どこまでも延びていく列を眺めながらノジールは笑った。隣に控える軍畑いくさばたもホッと胸を撫で下ろしている。


 二人はスタートを告げた高台からこの光景を見ていた。

 噂に上がっていたノジールが堂々とここにいても、今や誰も目を向けない。

 みな今は一つのことに夢中なのだ。そのことにノジールはとても満足していた。


「まったく、ここに残っているものはノリの良いバカなやつらばかりだ」


「そうですね」と軍畑が苦笑いで答える。


「しかし、これでまたハチロウの悪名がとどろきましたね」


「毎度の事だが、あいつが悪いのだから仕方あるまい。因果応報、自業自得というやつだ」


 二人はそうして笑いあった。

 今回、様々なイレギュラーがあったがもうこれで安心だと二人は思い込んでいた。

 これでアイちゃんもレースを楽しみ、この世界を気に入ってくれるだろう。



 この時、歴戦のノジールや軍畑、ゲンさん、はたまた観客に至るまで誰も気付いていなかった。


 彼らがここにいる理由。それはこの世界で生き、この世界を楽しむためだった。

 ゲームをしているのだからそれは当然だと思うかもしれない。


 だが彼女がここにいる理由、それは彼らとは違っていた。


 彼女はゲームを楽しむためでない。


 彼女はある人物を待つため、それまでギルド『悠久の黄昏』を守るためにこの世界に来ていたのだ。



 その感覚の違いが、ここにきて大きな溝を生んでしまっていた。



 ♯



 目元に溜まる涙を必死で堪えながらアイは黙々と走っていた。それでも時おり目元から溢れそうになり、雛ロビンの首筋に顔を押し付け、涙を拭っていた。

 こんな予定じゃなかったのに、とアイはレース中に何度目になるか分からない後悔をする。


 アイはブラックスワン逃がし、参加できなくなったことに対する罪をつぐなうためレースに参加していた。


 元々ブラックスワンが初見だったため、アイにはそれがどれだけ速いか分からなかった。それでもそれなりに速いのだろうなという推測は付いていた。


 しかしそれでアイは何も優勝を目指したわけではなかった。

 自分がブラックスワンの代わりにそこそこの順位で入賞出来ればそれで良いと思ったのだ。

 それでギルドの面子は保てると。


 自分で捕まえられる気がしなかったので、参加用のクックロビンはゲンさんに頼んだ。

 ゲンさんはクックロビンを持っていなかったが、それでも快く捕まえてくると二つ返事で請け負ってくれた。


 ゲンさんはここに来てからアイに優しくしてくれていた。アイにはその理由が分からず、ずっとギルドの栄光があるからだと思い込んでいた。


 ところがいざ、ゲンさんが捕まえてきたのは速そうなクックロビンどころではなく雛ロビンという別のモンスターだった。これにはアイも驚いた。


 しかし、必死で捕まえてきてくれたであろうゲンさんの手前、今さら出ないなどとは言えず、アイはその雛ロビンとレースに参加することになった。

 別種だとしてもどうにかなるとこのときは考えていた。


 そして、レースが始まった。


 スタートと共に集団の背中が一気に見えなくなり、アイはすぐに後悔した。だからといってレースを投げ出すわけにはいかず、必死で手綱たづなにしがみついた。

 観客が不満げな顔でこっちを見ているのにも気づいていた。

 このまま石を投げられるとかと思い、恐ろしくなり何度もログアウトのアイコンに触れそうになったが、なんとかこらえた。


 ギルドの一員として何があってもレースを途中で放棄できない。アイは心に決めていたのだ。


 ところが、アイが予想していたようなことは起きなかった。


 ゲンさんの声援が聞こえたかと思うと、周りの観客も後に続きアイの応援を始めたのだ。

 それだけでなく、アイが横を通りすぎると後ろから追いかけるようになった。


 アイには何が起きているか分からなかった。


 ただ、代役での参加で最下位なだけでなくこれだけ悪目立ちしてしまえば、ギルドの名を落としてしまうのではないかとそう思った。


 こうして追いかけ回されるのも、さらし者にされていると感じてしまっていた。


 列は次々と延びていった。それにつれ自身ではどうすることも出来ないこの事態にアイの不安は膨らんでいった。


 どうしてこんなことになったんだろ、とアイは気をまぎらわすために原因を辿っていった。


 元はと言えば、自分がブラックスワンを逃がしたためだ。そうでなければ、こんな事態にはならなかった。

 でも、とアイは思う。

 そもそもハチロウが気を付けていれば乗ることだって無かったと。


 私のレベルや経験を知っていれば乗ること自体を避けられたはずだ。

 メンバーの管理がしっかり出来てこそのギルマスだろう。その点ハチロウは失格だ。色々なところで抜けすぎている。


 そういえば、ハチロウは捕まえに行くと言って結局帰ってこなかった。

 最悪だ。嘘つきだ。

 ハチロウが捕まえてきてくれれば、私の代わりに出てくれれば、こんなことにはならなかったのに。


 ハチロウは『悠久ゆうきゅう黄昏たそがれ』は伝説のギルドだと豪語ごうごしていたが当人が本当にメンバーの一人だったのかそれすら疑問だ。


 だらしなくて、情けなくて、お調子者で、嘘つきで、ダメ人間で……


「ハチロウ」


 アイは顔をうずめたまま呟く。頭に色々な表情のハチロウが浮かんでいた。


 文句は幾重いくえに浮かぼうとも、今のアイに頼れるのはハチロウだけだった。

 この世界にきてアイの無茶な願いを叶えてくれたのも、こうして居場所を与えてくれたのもハチロウだった。


 頼れはしないかもしれない、それでも助けを求めるべく相手を見出だし、アイはいよいよ耐えられなくなっていた。


 これまで必死に隠してきたけどここで私が泣き顔を見せたらどうなるだろう、みんな驚くかな、とアイは自虐的に笑う。そうやって気を紛らわそうとした。


 それでも、もう込み上げてくるものを押さえきれそうに無かった。


 自虐の笑みから嗚咽おえつを漏らしかけたその時、アイは歓声の中に罵声が混じり始めたことに気が付いた。

 いっそ訳の分からない声援をもらうより罵倒されている方がいい。その方が思う存分泣ける、とアイは思う。


 ところがすぐに違和感に気付く。罵声はかなり後方から聞こえるのだ。


 そして、その罵声は恐ろしい早さでこちらへ近づいてきていた。

 それにつれ声が段々と聞き取れるようになり、その罵声が自分に向かって吐かれているものでは無いとアイは分かった。


 罵声は別の誰かに向けられていた。


 誰かが罵声を浴びながらこっちに向かってきている、一体誰が……


 アイは期待と不安を胸に後ろを振り返った。その人物はまさに飛ぶような速さで、飛びながらアイに迫っていた。


「アイぃぃぃぃ」


 アイはその姿を見て目を疑った。嘘つきでヘタレでもう逃げたと思っていた人物がそこにいたのだ。


「ハチロウっ」


 アイは彼の名前を呼ぶ。


 それを受けハチロウは自信たっぷりの笑顔で親指を立てる。


 歓声と罵声の飛び交う中、二人は互いの存在を確かめるように名前を呼び合っていた。



 ♯



「ねぇ、ハチロウ。今の何?」


 アイは感動や罵倒、そういった何よりハチロウの今の行動が気になって仕方なかった。

 ハチロウは何度も白い光に包まれ、文字通り空間を飛びながらここまで着たのだ。


「それはな」とハチロウが得意気に笑う。


 いつものお調子者のハチロウがそこにはいた。こんな状況でもマイペースなハチロウにアイの不安は取り除かれていく。


 と、そこに二人の後ろからもうスピードで迫る影があった。地鳴りのような音にアイは後ろを振り返る。


 あれはクックロビン? でも誰も背中に乗せてない。

 アイはそれを見て驚くと共に疑問に思った。


 そもそもなんでハチロウがあれに乗ってないのだろうか、と。レースに参加するのならば、クックロビン乗っていなければ始まらない。


「いやそうだな、話はあとだ」


 ハチロウは追跡者の登場に話を折った。そして、行くぞ、と気合いを込めてアイに叫ぶ。


「アイ、あれに飛び移れっ」


 アイはそれを聞いてますます混乱した。何言ってるの? あれに乗るのはハチロウじゃないの、と。


 そこまでならまだしも、追い付いたクックロビンは止まるどころか、本当にハチロウを攻撃し始めたのだ。

 その間もハチロウは「アイ早く」と情けなく頭を守りながらアイの隣を並走している。


 ハチロウが来たことでアイは少し安心を覚えていた。しかし今、そのハチロウの奇妙な行動に、またも気持ちは不安へと傾きつつあった。


 私はこんなハチロウを信じて大丈夫なのだろうか、と。



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