一巻 ロビンレースと舞う札束

一巻 1話 ギルドの栄光と彼の嘘

 オンラインゲーム。その登場は最近だというのはファミコンに親しんでいた世代による見解で、それはすでに長い長い歴史を重ねている。

 その歴史はパソコンが主流だった時代から現在のフルダイブシステムへと受け継がれ、今やフルダイブ式オンラインゲームしか触れたことない世代すら存在するのである。

 そしてそれはひとつの文化として途切れることなく今も進化を続けている。より良いものを取り入れ次の世代へ、もとい次のアップデートへ。文明の進化はそういった試行錯誤で得た知恵を次へと繋いでいくことだ。


 だが受け継がれる文明はなにも全てにおいて良いものとは限らない。悪い文明もまた残念なことに改良を重ね引き継がれていく。バグや嫌がらせ行為というものだ。

 そのあしき文明の中でも初期の頃から引き継がれていった迷惑行為の一つ、それがブロックだ。路頭を組んで道を塞ぐことから始まり、魔法やはたまた道具やペットのモンスター使用に至るまで。無数のゲームの中でブロック行為はさまざまな方法や形を変え、途絶えることをしらなかった。


 そうしてその光景は今もこうして彼の地にて繰り返され続けるのだった。

 そう、まさに目の前に。そして後ろにも。


「オンラインゲームという歴史と共に歩んできたブロックという迷惑行為。もういい加減飽きたりとか……」


 とある橋の上、そこには一人のプレイヤーを両側から取り囲むように人による壁が形成されていた。逃げ場を失った一人のプレイヤーがそんな彼らに向かってポツリと呟く。


「しないッスよねっそうッスよねっ、ハハハ」


 この物語の主人公的存在であり中心人物の、というよりは現在人々の壁に阻まれ中心で留まらざるを得ないこの男、ハチロウは苦笑いを浮かべながら石でできた橋の手すりに背中を預けた。

 ハチロウはそのまま手すり越しに視線を外へと向ける。だが手すりの外側は一面紫色に染まった亜空間になっており、冒険小説よろしく飛び降りようとしてもどうにかなるものでもなさそうだった。

 そもそもゲームの仕様上、ここの空間では飛び降りどころか移動以外の行為が禁止されており考えるだけ無駄なことだった。


 ここは俗にいう街と街を繋ぐワープ空間だった。一度行ったことのある街はここを通ることで簡単に行き来できる。

 空間内は紫色の亜空間に白石で作られた橋の一本という至ってシンプルな構造になっている。この橋を反対側のゲートまで歩いていけば指定した街に移動できるという仕組みだ。


「おい軍畑いくさばた、主犯はお前か。そこにいるんだろ?」


 ハチロウは飛び降りを諦め、黒の密度が高い人だかりに向かって声をあげた。黒い人だかりは一瞬それがひとつの生物かの如く規則正しく動き、その隙間からいつものツンツン頭をした人物が姿を表した。


「おうよ。分かってるなら話がはえぇ。さっさと落とし前を付けて貰おうか」


 現在のダイアフラグにおける数少ない大型ギルド『ノワール』。その切り込み隊長こと、軍畑いくさばただ。

 ギルド『ノワール』は攻略をメインとしていた古参ギルドの一つだ。ギルマスもとい親分の愛称で親しまれるプレイヤー『ノジール』の人徳の元集まったメンバーの団結力は固く、義理と人情に溢れた良い意味で古くさい集団である。そんなギルドの色が出たのか攻略ギルドにも関わらず『エピローグ』に入った今でもメンバーのほとんどがゲームを辞めず、揉め事の仲裁やイベントの仕切り役を買って出ていた。


 彼らは団結力を示すためか決まって装備の色を黒と決めており、街で揉め事やトラブルがあれば黒服の連中に助けを求めろ、という習慣が生まれたほどだった。今ではリアルでいうところの警察に近い役割を担っている。

 もちろん今の軍畑も上下黒一式に揃えていた。装備だけでなく自慢のツンツン頭も真っ黒でおまけに丸縁のサングラスまで装着ずみである。団結力を示すためとは言いつつも、ここまでしてしまうと警察というよりまるでヤクザようだった。


「しかし軍畑いくさばたよ。この壁の連中はどっから用意したんだ。ここにいるのは『ノワール』のメンバーだけじゃないだろ」


 主犯が出てきたところで、ハチロウは兼ねてから疑問に思っていたことを口にした。もしかしたら、それらからこの状況を打開できるかもしれないと考えていた。

 ブロックを成立させるための条件には二つある。一つが人数だ。

 軍畑いくさばたは、野暮なことを、と涼しげな顔で笑う。


「最初は金で壁役を雇おうとも思ったんだがな、今回は事情が事情だ。てめぇのことを話したらよ、みんな有志で参加してくれたんだよ」


 なぁみんな、と軍畑が声を上げる。すると両側の壁から歓声とハチロウへの罵声が上がった。

 これがギルド『ノワール』の築き上げた人徳のなせる技なのか、はたまたハチロウの悪徳なのか。ともすれここがワープ空間で無かったらヒールレスラーへのヤジよろしく、アイテムや魔法が飛んできていただろうと想像するとハチロウは苦笑いしか浮かばなかった。

 しかしハチロウは何も最初から人数に関しての切り崩しを期待していたわけではなかった。例え金で壁を雇っていたとしても、今の持ち金で買収し返せるとはハチロウ自身到底思っていない。

 切り崩しの本命はもう一つの条件にあった。


「っとハチロウよ。残念だがこの場所に関しても問題は解決ずみだ。すでにグースとマーブルの両側にはノジール直属の白魔術師だけでなく、同じく事情を知って協力してくれた有志の白魔術師も控えくれている」


 ハチロウの余裕ぶった表情に軍畑いくさばたがニヤリと笑い先手を放つ。

 軍畑の言った問題点。それはまさにハチロウが切り札としていたことだった。図星を付かれハチロウの顔が思わず歪む。

 確かにこのワープ空間は魔法やアイテム使用出来ず、道も狭いというブロックには好条件が整っていた。しかしそれ故に一つ問題があるのだ。


 それはここがワープ空間であるということだった。

 このワープ空間は行き来する街と街の間にそれぞれ存在する仕様となっていた。

 全体で一つの空間となっていないだけマシかもしれないが、それでもここでブロックを行うということは一つの街から街への移動、今回でいうところのグースとマーブルへの移動が遮断されたことになる。ここを通ろうと思ったプレイヤーにはたまったものではないのだ。


 ハチロウはそこで耐久戦に持ち込むことによって、部外者からの壁の切り崩しを目論んでいたのだ。

 ところが事もあろうに軍畑はその問題を解消するために両側に転移魔法を使える白魔術師を配置するというパワープレイを強行していた。


「驚くな。今回は転移役として『美酒鍋』の協力、さらには商人セルから『転移の羽』の提供も受けているっ」


 ギルド『美酒鍋』は白魔術師を中心とした構成でそのメンバーのほとんどが女性という一風変わったギルドだった。彼女らの全面協力があればよっぽどの大型ギルドが通らない限り問題はないだろうとハチロウは頭の中で冷静に分析しようとする。しようとはするのだが、そんな美酒鍋までもが自分を捕らえるために協力しているのかと思うと、男として心中穏やかという訳にはいかなかった。

 しかしハチロウの心を揺さぶっていたのはなにも美酒鍋の名前だけではなかった。問題なのはむしろもう一つ上がった名前の方だ。


「ちょっと待て今セルと言ったか。なんであいつまで協力してるんだよ」


「あいつは今回とは別用でお前に用があったらしくてな。なんでも、さ、っ、さ、と、金、払、え、だそうだ」


 そうもきっぱりと言われるハチロウには言い返す言葉もない。ハチロウは一ヶ月ほど前にとある理由によりセルに多大な借金をしていたのだ。


「それとだ。今回提供された『転移の羽』だが、全部ハチロウ、お前付けだそうだ」


「なんであいつは死人に鞭打つような真似をするんだ。てかなんで俺持ちなわけ?」


 俺関係ないじゃん、とハチロウが言いかけたところで軍畑いくさばたがにらみを利かせた。


「関係ないわけないだろう。その借金にしろ、今回の件にしろ、元はと言えばお前が仕出かしたことが原因じゃねぇか」


「ハハハ、そうでしたね」


 ハチロウはまた苦笑いを返す。

 うーむ、どうにもこれは状況がよくないぞ、とハチロウは数歩後ろに下がり一旦今の状況の整理することにした。


 魔法もアイテムも使えない空間。目的の一致したブロックの一枚岩。空間の問題点もパワープレイで解決ときていた。さらにこの状況を放っておくと『転移の羽』が消費され、自分自身の払いが増えていくという仕組みだという。

 なるほど理解した。どうにもこれは、俺一人でどうこう出来る状況じゃ無いらしい。

 ハチロウはそうそうに諦め、ため息と共にまた手すりに寄りかかった。


「さぁ、これで分かったろ。さっさと落とし前つけて貰おうか!」


 その行動を観念と判断した軍畑いくさばたが威勢よく叫ぶ。周りの壁からの再び大きな声援が上がった。

 横目にとらえたそれらが、ハチロウには一瞬、全て他人事のように思えた。

 なんで自分がこんなことに巻き込まれなきゃならないんだ。そもそも、なんでこんなことになったんだっけ? そこに答えが書いてあるかのようにハチロウは空を仰いだ。

 そしてこれまでの経緯を思い出していた。




  ♯ ♯ ♯




「ロビンレース? 何それ」


 丸太のテーブルに二桁に届いた程度の年齢と思われる少女がうつ伏せになっていた。

 木枠の大きな窓からは日が差し込んでおり、テーブルに無造作に投げ出された少女の長い栗色の髪を乱反射させている。椅子の高さに身長が足りておらず、宙に浮いた足をもて余すようにゆらゆらと揺らしていた。

 少女の名はアイという。最近このゲームを始めたプレイヤーで今はとある理由によりハチロウと同じギルドに所属していた。


「フェスの一つだ」


 キッチンからハチロウの声が響く。時おり鍋を振る音がするので今日のお昼もまた炒飯だろうと察しがついた。


「フェス? フェスってフェスティバル? お祭りみたいなもの?」


 アイはそれを聞いて縁日の光景を頭に浮かべた。お腹に響く太鼓の音。うすぼんやりと連なる提灯ちょうちん。そして屋台から立ち上るおいしそうな匂い。たこ焼き、焼きそば、フランクフルト……アイの頭の中はさまざまな食べ物で一杯になった。


「まぁお祭りっちゃ、お祭りとも言えるけどちょっと違う。用はゲーム内の一つのイベントみたいなもんだ」


 だがすぐさまアイの妄想が打ち消されてしまった。それもそうだ。レースといっている時点で縁日のそれとはほど遠い。妄想を途切れさせられ、少しムッとした声でアイは言い返す。


「じゃ、イベントって最初から言えば良いじゃん」


「いや、このゲームではイベントとフェスで使い分けがあるんだ」


 そしてハチロウは最初からアイの反論が分かっていたという風にその違いを説明し出した。

 曰く、イベントとフェスの違いは主催が誰かといことらしい。イベントというのは運営側が、フェスはユーザー側が独自に用意したものをそれぞれ指すということだった。


「俺もいつからそうなったのか知らないけど、今はそういうことになってる。で、今度行われるロビンレースの主催はギルド『ノワール』つうことでフェスになるわけだ」


「ふぅ~ん、そうなんだ」


 しかしハチロウの説明にアイは上の空だった。今はうつ伏せの姿勢から起き上がりテーブルに肘をついて中空を眺めている。

 ハチロウの説明を聞いて、このゲームはやっぱり少し変わってるなぁとアイは思っていた。今回だけではない。アイはまだゲームを初めて一ヶ月ちょっとだがその違和感を所々で感じとっていた。今の用語にしてもそうだ。わざわざ使い分ける必要がどこにあるんだろうと思ってしまう。


 その時、もうすぐ出来るからなぁ、と言う声がキッチンから響いた。それと共に棚から食器を取り出す音が聞こえてくる。


 そう変わっているといえば、この食事もだ。

 現実のそれと同じように毎日決まった時間に食べるのだ。五感を利用するフルダイブシステムなだけあって食事で味を感じることは出来るが、それでリアルの自分のお腹が膨れることはない。

 また別に食べなかったとしてキャラクターが死ぬわけではないのだ。それなのにハチロウは現実のそれと同じように食事を習慣としていた。もちろん食事がシステムとして存在している以上、HPが回復したり状態異常が治ったりといったボーナスはあるにはある。しかし冒険や戦闘をしないハチロウやアイにとっては意味が無いのだ。


「何考え事してるんだ?」


 二つの皿を持ってハチロウが現れた。二十歳過ぎくらいの年齢、サイドの少し跳ねた焦げ茶色の髪に頼りない感じの垂れ目。その辺にいる腐れ大学生のような容姿だ。

 アイはいつもそんなハチロウの姿を見るたびに、野暮ったいなと思っていた。姿がダサいということではない。むしろリアルと違いゲームなだけあって全体のバランスは取れている。ただハチロウの姿からは拘りのようなものを感じないのだ。


 キャラメイク出来る以上、普通はイケメンにしたり大男にしたり、はたまた醜い老婆の姿にしたりとそれぞれ演じたいキャラクターやその人の性格がキャラに反映されるはずだ。

 実際、アイも今の姿にするのに二時間以上微調整に微調整を重ねた記憶がある。だがハチロウの姿はキャラメイク時の土台となるいくつかの素体から適当に選んだかのように、キャラ愛や拘りを一つも感じないのだ。


 そんなアイの気持ちを知ってか知らずか、ハチロウは何食わぬ顔でテーブルに皿を置き、よっこらせ、と親父臭い一言ともにアイの向かいに座った。


「さて食いますか」


 そして黙っているアイを尻目にハチロウは黙々と食べ始めた。もちろんアイの予想通り今日も炒飯だった。

 最初は食事という行為に戸惑いはしたが、折角作ってくれていることもあってアイは感謝して食べていた。しかしだ。例え行為だけの食事とはいえ、毎日炒飯だとどうにも反応に困る。それにアイ自身、すっかりその味に飽き始めていた。


「別に何でもない。いただきます」


 今日こそ文句を言ってやろう、とアイは不貞腐れたまま出された料理に口を付けて目を丸くした。いつもと違う。やはり炒飯は炒飯であることは変わらなかったのだが、具材が違っていた。今日の炒飯には肉が入っていたのだ。


「フフン、驚いただろ。いつも同じとは思うなよ」


 アイがスプーンを口に突っ込んだまま顔を上げると、してやったりという顔のハチロウと目があった。


「ぬぁに、ぬぁにかうあったのぉ?」


「スプーンっ、スプーンを口から出しなさい。何言ってるか分からん」


 ハチロウに指摘され、アイはぷはっとスプーンを口から出す。


「いつもお肉なんて入れないのになんで?」


 ハチロウはお金がない。無いどころか多大な借金を抱えていた。それはアイにも原因があった。そういう意味で、いつも炒飯であることには不満を持っていたが、出される食事の具材が最低限であってもアイは文句を言わなかった。

 それなのに今日に限って肉という追加食材が入っていたのだ。


「だから言っただろ」とハチロウは演技っぽく人差し指を振り、そして言った。


「今日がそのロビンレースだ」



  ♯



 ロビンレース。それはまだダイアフラグが盛んだったテイルズから親しまれているフェスの一つだ。聞いて名の通り、ダチョウのような姿のモンスター『クックロビン』に股がり、誰が早くゴールできるかを競うごく単純なものだ。


 このレース名にも含まれるモンスター、クックロビンは冒険者が最初に出会うオートエイムを備えたモンスターで、どんなに早く逃げても必ず追い付いて攻撃をしかけてくるという初心者殺しの異名を持っていた。だが反面、いざ捕まえてしまえば頼もしい仲間となり、ゲーム内の乗り物として幅広く愛用されていた。


 そんなクックロビンは乗り物になると言えど、そのステータスや成長度は個々によって異なっていた。より優秀な個体を、と冒険よりもクックロビンの捕獲や育成に精を出すプレイヤーも少なくなかった。

 また、このダイアフラグには隠しステータスに『乗り』というものが存在し、職業の違いはあれどレベルさえ上げれば、誰でもクックロビンを乗りこなすことが出来るようになっていた。


 そういったクックロビン単体の性能差や、このゲームの職業に囚われない要素が受けたためかレースは開催当初から大いな盛り上がりを見せていた。

 それはエピローグを迎えた今でも途切れることなく続いており、現存するフェスの中では指五本に入るであろう規模を誇っていた。


「とまぁそんな感じがロビンレースの歴史だな」


 ハチロウはスプーンをクルリと回し得意気に説明する。アイは説明を聞きながらも炒飯を食べ続けていたため、その量は残りわずかとなっていたがハチロウの炒飯はさきほどからほとんど減っていなかった。食べることよりもアイに説明することが楽しくて仕方ないといった感じだった。


「ちなみに、我らがギルド『悠久ゆうきゅう黄昏たそがれ』はフェスに参加したことはない。攻略組として常に最前線を切り開き、そんな暇なぞなかったからだ」


「まぁ出ていたとしたら優勝をかっさらっていただろうがな」とハチロウは満足そうに鼻息を立てる。


 また始まった、とアイはそれを聞いて炒飯を掬う手を止めた。そのままアンニュイ顔でハチロウを見つめるが、ハチロウは自分の説明に酔っているのか気付く様子もない。そして気のままに、その時代に自分達がどこを冒険していたかの英雄譚えいゆうたん、もとい自慢話を始めてしまっていた。


 アイがこの世界にきてからハチロウはことある毎に『悠久ゆうきゅう黄昏たそがれ』の自慢ばかりしていた。それはアイに出された炒飯の数とは比較にならない多さだった。

 『悠久の黄昏』はこのゲーム内ではその名を知らないものはいない伝説級のギルドだ。少なくともアイはゲーム開始前に噂でそう聞いていた。実際アイはその噂を頼りにこの世界まできたのだ。


 しかし、そんな有名なギルドもエピローグを迎えることでメンバーのほとんどがこの地を去ってしまったらしく、アイがこの世界にくる遥か昔に『悠久の黄昏』は消滅してしまっていた。

 そして元メンバーとして一人この世界に残り続けていたのがアイの目の前にいるこの男、ハチロウだったのだ。


 アイはハチロウと共通の目的のため二人で再びギルド『悠久ゆうきゅう黄昏たそがれ』を立ち上げ直した。そして今日もギルドの維持のため、こうして意味もなく顔を合わせ続けているのだ。

 再びギルドになったハチロウの喜びをアイは理解できない訳ではなかった。だがこうも何度も繰り返される栄光話に、いい加減文句の一つも言いたくなっていた。


 しかし『悠久の黄昏』を求めてこの世界に来たアイにとって、それらの話が聞きたくないかというとそういうわけでもなく、最近はこうしてじれったい気持ちを抱えたまま話が終わるまでハチロウを見つめるに留まっていた。


「それでそのレースとこのお肉がどういう関係があるの」


 ハチロウの話が一段落付いたのを見計らってアイは口を開く。残しておいた肉片を強調するようにスプーンの先で軽くつついた。


「この肉は栄えある『悠久ゆうきゅう黄昏たそがれ』への前祝いだ」


 ハチロウは満面まんめんの笑みで答える。今日のハチロウはやけにテンションが高かった。


「前祝い?」


「そう、前祝いだ」


 そこまで聞いてもアイにはさっぱり分からなかった。ハチロウは話を焦らし、中々本題を出さないという面倒な癖があった。こういうときは直接切り込みにいくに限る。


「レースがあると『悠久の黄昏』は祝うの?」


「いやぁ、違う。レース自体じゃない。レースで優勝することの前祝いだ」


「優勝って誰が?」


 アイは小首をかしげる。ハチロウは当然とばかしに親指で自分自身を差した。


「この俺様よ」


 そして決め顔で笑ってみせた。


「ふ~ん」


 アイはそうして仰け反るハチロウを余所にある疑問を覚えた。優勝以前にハチロウはそもそもレースに参加するためのクックロビンを持っているのだろうか、と。

 ここ一ヶ月、アイはハチロウと共に行動しているがその間ハチロウがクックロビンに乗っている姿など見たことがなかった。


「参加するって言ってもクックロビンはどうするの?」


 アイが思ったことをそのまま口にすると、それを待っていたとばかしにハチロウは指を鳴らし、玄関先まで歩き始めた。アイの目も自然とハチロウの後を追う。


「アイ見て驚くなよ、これが俺のクックロビンだ」


 そしてハチロウが大袈裟なフリで玄関を開けた。光の向こう、アイの目に巨大な黒い塊が映り込む。


「わぁ」


 アイは構えていたにも関わらず、その想定外の姿に思わず声を漏らした。

 話の流れ上、クックロビンを見せてくれるであろうことはアイにも予想が付いていた。それにまだゲームを始めて一ヶ月だったが、その間にそれなりの数や種類のクックロビンを見てきていた。だからそれが少々変わったクックロビンだったとしても、それほど驚くつもりはなかった。


 ところが玄関の先に見えるクックロビンはアイの想像を遥かに超えるものだったのだ。


 そのクックロビンは全身が黒く光沢こうたくした羽根に覆われ、遠目からでもその羽根の下に並々ならぬ筋肉を備えているであろうことが見てとれた。それはすでに鳥型モンスターというクックロビンの元のコンセプトからかけ離れた体つきをしていた。

 そして何より驚いたのがその大きさだった。玄関から顔がはみ出しているため全長は分からなかったが、それでも通常のクックロビンのゆうに倍はあるであろうことが分かった。


 ハチロウにクックロビンと紹介されなかったら、アイはこれを別のモンスターだと誤認していたに違いないと思った。


「アイ。もっと近くで見ても良いんだぜ」


 ハチロウはアイの反応に満足したようで、にやにや笑いながらアイを手招きする。その姿は若干の犯罪臭を漂わせていたが、このあまりに巨大なクックロビンを前にしたアイには関係なかった。


「うわぁ、うわぁ、すごいすごい」


 アイは文字通り玄関から飛び出しそのまま巨大なクックロビンの回りをくるりと一周した。

 そしてクックロビンの目の前で立ち止まり顔を上げる。

 クックロビンの全長は隣に並ぶハチロウの二倍以上、四メートル近くまで達していた。アイが精一杯見上げても、長く張り出したクチバシの影となり、顔まで確認することが出来ない。むしろ、そのクチバシの影にアイ自身がすっぽりと収まるほどだった。


「どうだ。気に入ってくれたか」


 横からハチロウが顔を出す。アイはクックロビンの作る影から一旦離れ、その全身をまじまじとなめ回していた。


「なにハチロウ。これいつのまにどうしたの?」


「こいつの名前は『ブラックスワン』といってな、今回のロビンレースの企画『ノワール』のギルマスから直々の依頼があって借りたのさ」


 そうしてハチロウは依頼の内容を説明し始めた。

 ハチロウ曰く、今回『ノワール』がレースの企画になったため、そのギルマスはレースに出られないらしい。だからそのギルマスに代わりに優勝してくれと依頼されたのだと言う。


「まぁ、俺にかかればどんなクックロビンでも優勝するくらい余裕だったんだが。ノジさん、おっと『ノワール』のギルマスがな、どうしてもって聞かなくてなぁ。仕方なく借りてきたってわけよ」


 やれやれ、といった風にハチロウは肩をすくめる。体を隣にいるブラックスワンに預け、すでに自分の物のように扱っていた。


「なんでその依頼がハチロウだったの?」


 アイは頭に浮かんだ疑問を口にする。ハチロウが普段からクックロビンに乗り慣れているというならば話は分からなくなかった。しかし先ほども言ったようにアイはこの世界に着てからハチロウがクックロビンに股がっている姿など見たことがないのだ。仮に過去に乗っていたとしても、一ヶ月以上もブランクのあるハチロウに白羽の矢が立つのは考えにくい。

 それを聞いてハチロウは、ふんと鼻をならす。


「そりゃあアイ、答えは簡単だ。俺が伝説のギルド、『悠久ゆうきゅう黄昏たそがれ』の一員だからさ」


 ハチロウは当然とばかしに答えてみせた。一見、それは答えとしては検討がずれているようにも感じられる。


「そっか。やっぱすごい、『悠久の黄昏』!」


 しかしその答えはアイに絶大な効果を与えていた。外の世界で『悠久の黄昏』の噂を知り、ゲームを始めてからもずっとハチロウに英雄譚えいゆうたんを聞かされ続けていたのだ。今のアイにそれを疑う余地など存在しなかった。


「おうよ。これが『悠久の黄昏』の力よ」


「すげー、悠久の黄昏っ」


「おうよ」


 ハチロウは喜んでいるアイを見て微笑む。


 ハチロウは毎日のように英雄譚えいゆうたんを語ってみせる中で、そろそろ実際にその姿を見せる必要があると思っていた。そのために今日まで裏で色々と努力をしてきたのだ。

 今、アイの笑顔を前にしてその苦労が無駄でなかったと実感する。

 あとはこいつでレースに優勝するだけだ。ハチロウはブラックスワンを見上げ、意気込む。


 ロビンレースの説明からこのブラックスワンの紹介。ここまではハチロウのプラン通り、順調にことが進んでいた。

 しかしここまであまりに順調だったことが、逆にハチロウを調子付かせてしまっていた。

 この時のハチロウはこの後の自身の思いつきが今日という日を左右することになるとは考えもしなかった。


「そうだ、アイ。どうせなら乗ってみないか」


 ただこのときのハチロウはアイを喜ばしたくて、自分のいたギルドを良く見せたくて一杯一杯だった。



  ♯



「おぉ、すごいっ。高い高い。遠くまで見渡せる」


 ブラックスワンの上からアイの感想が聞こえる。興奮しているためなのか語彙力ごいりょくが低いためなのか、その感想はまるで小学生の感想文のようになっていた。


「そこにいるとまるで王様になったような気分だろ」


 ハチロウはブラックスワンの手綱たづなを握りながら答える。やはり四メートルもの高低差があるとこちらからアイの顔を確認することは出来ない。それでもぐるぐると揺れる足を見るだけでアイが喜んでいることがハチロウには分かった。


「乗ってみないか」というハチロウの提案にアイは二つ返事で答えた。

 それからハチロウは肩を貸し、アイをブラックスワンにしがみつかせた。


 実際、四メートルもの壁をよじ登れと言われても普通の人間にそうそう出来るものではない。

 しかしそこはゲームの世界である。

 『乗り』ができる以上、乗り物となるモンスターへのしがみつき行為はステータスに関係なく無条件で出来るようになっていた。


 アイは吸い付くように張り付く手に驚きを覚えながらもブラックスワンの背中の上までよじ上った。そして今に至るというわけである。


「確かになんだか分からないけど偉くなった気がする」


 アイはブラックスワンの上から遠くを見渡す。見慣れている街並みでも高さが変わるとまるで別のもののように見えた。


「そうだろ、そうだろ」


 そうして二人がわいわいとやっていると一人の人物が姿を現した。


「なんだか外が騒がしいと思って出てみりゃ、こりゃあ確かにすげーなぁ」


 オールバックに固めた髪に四角くゴツいサングラス。これだけならばギルド『ノワール』の一員を思わせるが実は違う。服はヨレヨレのライフジャケット、そして顔にはシワが刻まれ顎からは無精髭が飛び出していた。


「ゲンさんこんにちは」


「ゲンさん、ちっす」


 二人は元気よく挨拶する。

 ノワールの出で立ちが黒一色のヤクザ風なのであれば、この人物、ゲンさんの出で立ちはまさに釣り名人のそれだった。


「おう、こんちわ」


 ゲンさんも片手を上げ二人に答える。

 ゲンさんはその姿に違わずこのゲームで釣りを趣味としているプレイヤーの一人だった。ゲーム内の釣れるモンスターの全種制覇を目標としており、そのためエピローグを迎えた今でもこの世界を離れることなく目標に向かってマイペースに釣りを続けていた。


 そんなゲンさんと二人がどんな関係かというと、家が隣同士、つまりはご近所さんということになる。

 ゲンさんは気さくな性格をしておりアイがこの世界にくる前から長くハチロウと交流があった。そしてアイもこの世界にくるなりすぐにその輪に加わり、こうしてゲンさん仲良くなっていた。


「しかし立派なもんだなぁ。別に見たことない訳じゃねぇけど、こう目の前に立つとまた違った迫力があるな」


 ゲンさんは値踏みするようにブラックスワンをジロジロとなめ回す。ブラックスワンの方はそんなゲンさんなど、どこ吹く風でまったく動じることなくたたずんでいた。まさに王者の貫禄かんろくだった。

 アイもハチロウも借り物と分かっていながらも、そうして誉められることが嫌ではなかった。ゲンさんが色々と感想を言う度に頬が自然と緩んでいく。


「あれだけハチロウが必死に頼み込んだんだもんな。本当よかったじゃねぇか」


 しかしハチロウアはそのゲンさんの一言に緩んだ頬を一気に強張こわばらせた。アイはなんのことかと首を傾げる。


「ゲンさん、ハチロウが頼んだってどういうこと?」


「あれ、まだ話してなかったのかよ。今回のレースは……」


「ちょっと良いっすか。ゲンさんっ」


 それ以上語られては不味い、とハチロウがすかさず割って入った。手綱たづなを離し、ゲンさんの口を後ろからふさぐ。


「ぐふぉ」


「二人ともどうしたの?」


 アイが不思議そうに声を上げる。

 二人がいた場所は丁度ブラックスワンの正面だった。そのためアイの位置からだとブラックスワンの頭に隠れ、二人の姿を見ることが出来なかった。


「ごめんな、ちょっとゲンさんに用があったことを思い出したんだ。向こうで話してくるからそこで待っててくれないか」


 アイに見えないのを良いことにハチロウはゲンさんを喋らせないように口と首をガッチリと固める。そしてそのまま強引に部屋の奥へと連れ込んでいった。


「うん、分かった」


 アイは二人の背中が家の中に消えてくのを見送った。このときアイはハチロウの突発的な行動になんら疑問を持たなかった。ただ、肩に腕を回してよれよれと歩くその姿が酔っぱらいみたいだなとなんとなく思っていた。


「何すんだこのやろうっ」


 ハチロウがゲンさんを部屋まで連れ込み解放すると、いの一番で怒声がハチロウに降りかかった。


「ゲンさん落ち着いて。これには深い深~い訳があるんっすよ」


 そしてハチロウは飛んでくる唾を両手で防ぎながら、ゲンさんを無理に連行した訳を説明し始めた。



「はぁっ? 頼んだじゃなくて頼まれたことにしただぁ?」


 事情を聞いたゲンさんは先ほどの怒りの代わりに驚き半分あきれ半分の顔を見せる。

 今回のハチロウのレース参加。それはギルド『ノワール』から依頼では無かった。むしろその逆ハチロウが『ノワール』に頼み込んで実現したものだった。

 ブラックスワンに関してもそうだ。ハチロウがアイに良いところを見せたいがため、わざわざ貸してくれるよう頼んだのだ。

 つまり、ハチロウがアイに説明したことのほとんどが嘘と言うことになる。


「どうかアイの前ではそういうことにしてくれないっすか」


 ハチロウは手を合わせ必死に頭を下げる。


「別にそりゃ構わないが、そもそもなんでそんな嘘を付いたんだよ。正直に言ってやりゃいいじゃんか」


「いやぁ、その出来心というかつい……勢いっつうか、ねぇ」


 ハチロウは弱々しく笑う。

 そんなハチロウを見てゲンさんは頭を掻いた。ゲンさんには見栄を張りたいハチロウの年頃も気持ちも解らなくはなかったのだ。


「はぁ、わかったよ」


 ゲンさんはため息を付き、ハチロウの願いを聞き入れる。別にこの嘘が今回の目的のさまたげになるという訳ではないのだ。

 だがな、とゲンさんはハチロウに遠い目を向ける。虚勢張って最後に痛い目見るのはお前自身だからな、と。


「恩に着るっす」


 ハチロウはそのことに気づく様子はない。今もヘラヘラと安堵の笑みを浮かべていた。自分のことで一杯一杯で周りが見えていないのだ。


 しかし現実とはなかなか思い通りにはならない。最後には痛い目を見るぞ、というゲンさんの予言は予想に反しすぐに現実のものとなった。


「うわぁぁぁぁ」


 二人が話を終え戻ろうとしていると、突然外からアイの悲鳴が響き渡った。


「アイどうした!?」


 二人は慌てて外に飛び出す。


「これは……」


「なんだこりゃ」


 そして、その光景を前に二人は立ち尽くした。


 少女が一人うつ伏せに倒れていた。その頭から伸びる長い栗色を地面にぶちまけるようにして。

 その体は人形のように動く気配がない。


 玄関の先で、アイが死亡していたのだ。


 何があったんだ、とハチロウが停止しかけの頭で必死に状況を理解しようする。その直後、アイの体の周り仄かに転生の光が立っていることに気が付いた。


「アイっ」


 ハチロウはそれを見て我に返った。まだ死亡しても間もないのだ。急いでアイの元へと駆け寄る。

 このゲームは死亡しても転生までにタイムラグがあり、その間に復活の呪文やアイテムを使えば甦らせることが可能となっていた。

 ハチロウはアイの元に辿り着くと、すぐに復活アイテムを使用する。

 転生の白い光が消え、代わりに緑色の光のエフェクトがアイの全身を包み込んだ。


「おい、ハチロウ。そんなことよりやべぇ。いねぇぞ」


 一息付くハチロウにゲンさんは酷く緊張した声で呼び掛ける。


「なんすか。今急がしいんすよ」


 ハチロウはその声を無視しアイテムの使用を続ける。ゲンさんはハチロウの肩に間髪いれず掴みかかった。

 肩を捕まれ、さすがにハチロウもゲンさんの方を振り返る。


「突然どうしたんすか」


「だからいねぇんだよ」


「何がいないっつうんですか」


「まだ気づかねぇのか」とゲンさんはハチロウの肩を揺さぶる。


 ハチロウは汗だくのゲンさんの顔を見て、重大なことにようやく気が付いた。

 そうだ、玄関の外にはアイの他にもう一人、いやもう一匹いたはずだ、と。

 言葉を詰まらすハチロウにゲンさんが叫ぶ。


「気づいたか。そうだよ、ノジールの秘蔵っ子『ブラックスワン』がどこにもいねぇんだぁぁ」


 ハチロウは今さらとばかしに周りを見渡した。

 しかしここにいるのは自分とゲンさんとアイだけで、黒い巨体の姿はどこにも見当たらないのだった。



 ♯



 アイの死亡、そしてブラックスワンの逃亡。二人が話しているときに外で何が起きたのか。答えは至ってシンプルだった。


「うぅ」とアイがようやく死亡状態から回復し目を覚ます。


「アイ、何があったんだ?」


 まぶたこするアイにハチロウが問いかける。アイは寝ぼけた顔でハチロウを見つめ返した。顔をムスっとしかめ、ぽつり言葉を吐き出す。


「ブラックスワンが急に暴れだした」


「急に暴れた?」


「うん、突然」


 それでそのあと襲われた、とアイはぼやき、攻撃されたであろう頭をさすった。

 勝手に暴れて乗り手を襲う? そんなことあるのかとハチロウは思考をめぐらせた。そして一つの答えに辿たどり着く。


「アイ、お前。今のレベルいくつだ?」


「10レベルだけど、それがどうしたの?」


 唐突なハチロウの質問にアイは疑問を浮かべながら答える。ハチロウはそれを聞き、そうだよなぁ、と頭を抱えた。


 そう、答えは実にシンプルだった。

 ブラックスワンの暴走。それは乗り手であるアイのレベルが足りなかったことにより起きた結果だった。


 このゲームはレベルの違いはあれど、最終的にはどの職業でも関係なくモンスターに乗ることが出来るようになっている。それは乗りの条件が職業ではなく、『乗り』という隠しステータスに依存いぞんしているためだった。

 クックロビンに乗るために必要なレベルは、もっとも『乗り』の上昇の早い『戦士職』を持ってしても、そのレベルは36レベルだった。


 アイのレベルではどうあろうと到底不可能だったわけである。


 つまりブラックスワンはハチロウが手綱たづなを離した瞬間から、プレイヤーの制御下から離れていたというわけだ。


「なんでなが~くゲームをしてるハチロウがそのことに気付かなかったの?」


 アイはブラックスワンの暴走の理由を聞き、ハチロウをジト目で見つめる。


「逆に長くこの世界に居過ぎたからだろうよ」


 ハチロウはため息混じりに答える。


 そう、ハチロウがこんな単純なポカミスをやらかしたことにもまた理由があった。それはまさにハチロウが答える通り、この世界に長く居続けたことが原因だった。


 このゲームがエピローグに入り、すでに二年の時が経っていた。その間に出ていくものは後を絶たなかったが、新たにこの世界に訪れたのは一ヶ月前のアイただ一人だった。

 その結果、この世界には年齢の高齢化ならぬ『レベルの高齢化』が発生していた。


 攻略組であったハチロウや軍畑いくさばただけでなく、攻略を目的としていないゲンさんや商人セルでさえも、そのレベルはカンストかそれに近い状態だった。

 所謂いわゆる、どのゲームも最終的にはガチ勢しか残らない法則の極限化があったといっても良い。


 つまり、この世界に残っているプレイヤーの中にクックロビンを乗りこなせないレベルの者など存在しなかったのだ。


 アイがこの世界にくるまでは。


 結果、手綱たづなを離したハチロウも隣にいたゲンさんもすっかりそのシステムを忘れ、今回の事態を招いてしまったというわけである。


「駄目だ、この辺にはいねぇぞ。もう遠くに行っちまったみたいだ」


 ブラックスワンを探していたゲンさんが息を切らして戻ってくる。ブラックスワンが街の中を回遊かいゆうしているのであれば、まだ捕まえ直す可能性があった。だが街の外に逃げられてしまっては捕まえられる可能性は限りなくゼロに近い。


「おい、不味いぞ。どうするハチロウ」


 ゲンさんは諦めの顔をハチロウに向ける。


「ど、どうしやすかねぇ」


 いよいよこの重大な実態が現実味を帯び始め、緊張のあまりハチロウは言葉を詰まらす。

 レースを自分から頼んでおきながら、そこで活躍できるようにノジールの秘蔵っ子『ブラックスワン』借りておきながら、それをみすみす逃がしてしまった。

 まさに前代未聞、言語道断。とても許されることではない。


 ハチロウの視線は落ち着きなくぶれ続け、全身からは滝のような汗が流れ落ちていた。

 借りものだとしてもブラックスワンの所有権はノジールやそのギルド『ノワール』にある。今ごろは彼らにもブラックスワンのロストがシステムによって通知されている頃だった。


 もうすぐ自分の元へ黒服の集団が事情聴取ないしは殴り込みに来る、そう思うとハチロウは居ても立ってもいられなくなった。

 もう計画などと言っていられる場合ではない。ハチロウがすべてを投げ出し逃げ出そうとした時、アイがその手をぎゅっと掴んだ。


「ハチロウ、どうにかならないの?」


 アイのうるんだ大きな瞳に自分の顔が写り込み、ハチロウはたじろいだ。アイは今にも泣きそうな顔をしていたのだ。今回のことで責任を感じているようだった。

 ハチロウはそのアイを見て、握られた拳を固くしめる。

 いや、計画が失敗したとしてもまだ守らなければならないものはあると。


「なに言ってんだよ、アイ。俺を誰だと思ってるんだ」


 ハチロウは今出来る最高の笑顔をアイに向ける。それが成功しているかはハチロウ自身にも分からない。ただアイを安心させるためにも、自分をふるい立たせるためにもそれは必要なことだった。


「俺は『悠久ゆうきゅう黄昏たそがれ』だぜ。逃げたクックロビンを捕まえるなんて余裕よ」


「おい、ハチロウ」とゲンさんが心配そうな声を送る。ハチロウはそれを無視し尚も続ける。


「だから待っててくれ、アイ」


「う、うん」


 アイが歯切れの悪い返事で答える。まだハチロウの言葉を信用しきっていないようだった。ハチロウにはそれでも構わなかった。今は返事を聞けただけで十分だった。


 ハチロウはアイの頭を撫で、その間にゲンさんに「アイをよろしくお願いします」とアイコンタクトを送った。ゲンさんは、どうする気だ? と不安を顔に出しながらも、うなずきを返す。


「じゃ、ちっと行ってくるわ」


 そうしてハチロウは二人に背を向け走り出した。ブラックスワンの行き先はハチロウにも分からない。ただ今はアイに心配を与えないよう、確信を持った歩みで東へと足を進めた。


 すでに当初の計画は失敗に終わったかもしれない。それでもハチロウにはまだ守らねばならないことがあったのだ。




  ♯ ♯ ♯




 アイがノジさんの大事なクックロビン『ブラックスワン』を逃がしてしまった。いや、あれはアイのせいではない。ちゃんと見てなかった俺の責任だ。そうだ、アイは何も悪くない、俺がちゃんと責任を取るんだ。


 ハチロウはこれまでの経緯を思いだし、物思いにふけっていたがそれで事態が好転するはずも無かった。

 相も変わらず、前後から人だかりという名の壁がハチロウを囲い、食い潰そうとする目でハチロウを見ている。


「覚悟は出来たか」


 ぼんやりと上を見上げるハチロウに対し軍畑いくさばたからヤジが飛ぶ。それを期に周りからアイテムがハチロウに向かって投げられた。

 事態は何も変わらない。それでも経緯を整理することでハチロウの中に一つの決意が固まりつつあった。

 移動できない空間。崩れない壁。逃がしてしまったクックロビン。俺のやれることはこれだけだ、とハチロウは覚悟を決める。


「おお、なんだ。やっとその気になったってか」


 軍畑が狼狽うろたえてしまったのも仕方がない。そこには普段のハチロウにはない、強い眼差しがあった。

 ハチロウはゆっくりと軍畑の方へ歩き出した。それを見て軍畑が怯むな、と壁の連中を手で制する。


「お前の逃がした親分のブラックスワン。そしてお前が参加するはずだったレース。さぁ、どう落とし前を付けるか聞かせて貰おうじゃねぇか」


 事態は一瞬のことだった。

 その一言を合図に、ハチロウは軍畑いくさばたに向かって一直線に走り出したのだ。不意をつかれ軍畑の反応が遅れる。


「突破できると思うなぁぁぁ」


 それでも周りを固めていたのが統一のとれた『ノワール』なだけあった。軍畑の怒声が響くと共に彼の回りには屈強な黒服の厚い壁が出来上がる。

 しかしハチロウはそれを見て尚、足を緩めることはしない。


「捕まえろ、お前ら」


 止まろうとしないハチロウに間が指し、軍畑から次の指示が飛ぶ。目前に迫るハチロウに対し、数人のプレイヤーがおどり出し手を伸ばす。

 それをハチロウは頭を伏せギリギリで交わす。速度を落とさないまま、一人、二人と体をねじりながら寸でのところで回避していく。


「てめぇら、何してるっ」


 避けられたことに呆然としている黒服を尻目に、ハチロウはそのまま軍畑の目の前に飛び込んだ。軍畑もそれを見て覚悟を決める。


「堂々と正面切って挑んできたことは誉めてやる。だが絶対に逃がさねぇぞ」


 軍畑いくさばたは頭から飛び込んでくるハチロウを全身で受け止めようと構えを取った。そしてその手がハチロウの頭に触れたと思った瞬間。


「なっ」


 その刹那せつな、ハチロウの頭が軍畑の視界から消えた。軍畑の伸ばした手は勢いあまり虚空こくうを切った。

 軍畑は急いで周りを見渡した。どこにもハチロウの影はない。


 どうやって消えた? アイテムも魔法も使えないこの空間であいつはどんな手品を使ったんだ?

 軍畑は懸命けんめいに頭を使っている中である違和感に覚えた。周りの壁の連中が誰も慌てていないのだ。


 「お前ら何して」と叫び掛けたその時、皆の視線が一点に集中していることに気付いた。軍畑も自然とそこに視線を動かす。

 視点の先、そこは軍畑の足元だった。


「どうも、すいませんでした」


 華麗かれいなジャンピング土下座を決めた情けない姿のハチロウがそこにはあった。



 ♯



 ハチロウに出来ること、ハチロウが選んだこと。それは心からの謝罪だった。言い訳ならいくらでも出来た。今こうして謝っている最中にも、いくつもの言い訳がハチロウの頭の中を駆けめぐっていた。


 今までのハチロウならヘラヘラ笑いながら流そうとするか、俺は悪くないと逆ギレしていただろう。昔からのハチロウを知っている軍畑いくさばたも壁役のギャラリー達も、皆そうなると思っていた。


 ところが実際はどうだ。


 一切の言い訳もせず、ひたすらにハチロウは土下座をしていた。


「ごめんなさい、ごめんなさい。全部俺が悪いんです。許してください。ごめんなさい。ごめんなさいごめんなさい……」


 その口調は早すぎて何を言っているのかほとんどのプレイヤーには聞き取れなかったが、それでもハチロウが一切言い訳をせず、謝罪だけを述べているのだということは分かった。


 ハチロウをここまでするものは何なのか。頭でも打ったのではないか、いや、そもそも中身が違うのでは?

 この異常な状況に壁役のプレイヤー達から色々な憶測が上がる。


(バカが)


 そんな中、軍畑だけはハチロウの姿を見下ろし毒づいていた。軍畑はハチロウが必死な理由に心当たりがあったのだ。


「おい、謝っても解決しねぇぞ。どうすんだよ、この事態をよ」


 このままではらちが空かない。軍畑は高速で上下するハチロウの頭を足で押さえ付けた。どれくらいで攻撃判定にならないか、こういった荒事に慣れている軍畑には感覚で分かるようになっていた。


「どうすんだって言ってんだよ」


 それでも答えないハチロウに対し押さえ付けた足に体重を掛ける。うぅ、っとくぐもった声の後、ようやくハチロウが喋りだした。


「もうレースには出ません。もうこんなこと絶対に頼みません。『ノワール』とも今後一切関わりません。だから、許してください」


(ふざけんな、そうじゃねぇだろ)


 それを聞いて軍畑いくさばたの足に力がこもる。


 今回のクックロビンレース。それは全てハチロウが『ノワール』に頼み込んで実現したものだった。動機は簡単だった。アイがこの世界に来たからだ。ハチロウはギルド『悠久ゆうきゅう黄昏たそがれ』の一人としてとしてアイに良いところを見せようとしたのだ。


 その話を聞いて『ノワール』のギルマス、ノジールも、そして軍畑も乗り気だった。ハチロウに格好付けさせたかった訳ではない。エピローグ以来の初めての住民に対し、この世界が終わっていたとしても楽しいことが沢山あるのだと、アイを歓迎しようとしていたのだ。


 クックロビンを持っていないハチロウに、ノジールは自慢の愛鳥ブラックスワンを貸してやった。アイが見やすいようにと開催時間もいつもより早めた。


 ところが結果はどうだ。ハチロウはブラックスワンを逃がしただけでなく、わざわざ用意してやったレースにも出ないと言い始めたのだ。

 これでは秘密裏に動いていたノワールの顔が立たない。


(そうじゃねぇだろ。お前は何年このゲームをやってんだよ)


 軍畑いくさばたの怒りは頂点をとうに通りすぎ、あわれみの目でハチロウを見ていた。そこにあるのは親分を乗せてしまった自分の落ち度による申し訳なさだけだった。


 一方、ハチロウはハチロウでこの一言には決死の覚悟が必要だった。


 このいさぎよすぎる謝罪はアイに責任を負わせたくなかったからでは無かった。その気持ちも少しはあったにしろ、ハチロウが謝った本当の理由。

 それは事をこれ以上大きくしたくなかったからだ。事が大きくなればそれだけアイに伝わってしまう可能性が増える。


 ハチロウは何としても、今回の事が自分の仕組んだことだとアイに知られるわけにはいかなかった。

 ギルドを、自分自身を、アイに失望させたくなかったのだ。


 このことがどれだけノワール失礼なことだともハチロウは分かっているつもりだった。

 それでもハチロウはギルドの保身を取った。ハチロウにとって何があろうともアイに『悠久ゆうきゅう黄昏たそがれ』に疑念を持たせるわけにはいかなかったのだ。自分自身がどうなろうとも。


 軍畑いくさばたから返事は無い。そのことを怒りと感じ取ったハチロウが身を切り捨てる最後の謝罪に出ようとした。


「そ、それでも許してもらえないなら、もう俺、このゲームから」


 足を洗うよ、とハチロウが言い掛けたとき、軍畑から渾身こんしんの蹴りが飛んだ。

 攻撃行為禁止によりそれは寸前バリアのようなものに弾かれ、大きな音を立てただけだった。だがハチロウの口を閉ざすには十分だった。


「それを言ったらマジで殺すぞ」


 それは長年付き合ってきたハチロウが始めてみるほどの怒りと辛さにまみれた軍畑の形相だった。



 ♯



「で、お前は逃げたブラックスワンを探すふりしてどうするつもりだったんだ?」


「レースに間に合わなかったことにして、アイにも少しは責任を感じてもらって、それで今回のことを全部うやむやにしようと思ってました」


 お前は本当にくず野郎だな、と軍畑いくさばたは高笑いした。上を向いたツンツン頭が稲穂いなほと同じように風に揺れる。ハチロウはその横に体育座りをし、前方に広がる草原の波をいじけながら眺めていた。


 ここはゲームのオープニングで流れる草原のステージだった。ゲームの最初に見るだけあり人気スポットのひとつだったが、エピローグに入っての住民の激減、そして残った住民も今はほとんどがロビンレースのため開催地に集まっているため、ここにいるのはハチロウと軍畑の二人だけだった。


 オープニングシーンでは暗闇に沈む夕暮れ時だが、現在のゲーム時刻では正午にあたり、二人の目の前には草原の一面の緑と青い空の二分した光景が広がっていた。


「まったくなぁ、いくらお前が『悠久ゆうきゅう黄昏たそがれ』だったにしろ、なんでお前なんかを信じちまったかなぁ」


 軍畑は顔に手を当ててまだ笑っていた。

 そこまで笑わなくても良いじゃないか、とハチロウは思ったが口には出すのをぐっとこらえた。軍畑は命の恩人なのだ。もしあのままの状況が続いていたら、ハチロウは本当にゲームを止めるはめになっていたかもしれなかった。



 あの状況を打開してくれたのは、意外にも軍畑いくさばただった。


「そうか、腰痛でレースに出れねぇ親分の代わりに、お前に白羽の矢を立てたんだが……俺たちの人選ミスだったようだな。だがレースに出れないにしろブラックスワンの損害分は後でちゃんと返してもらうからな」


 土下座するハチロウへの一蹴いっしゅうのあと、軍畑は周りに聞こえるように大きな声を上げた。

「そうだ、ちゃんと払えよ」とそれに反応し周りからヤジが飛ぶがそれ以上のことは誰も言わなかった。

 軍畑はハチロウの計画を誰にも言わなかったのだ。ハチロウの嘘に付き合ってくれた。


「ごめん」


 土下座のままハチロウは軍畑いくさばたに聞こえる程度の小声で謝罪した。それに軍畑は答えなかった。


「おい、ハチロウ。ちょっと付き合え。伝えたいことがある」


 ただ全員を散らしたあと、軍畑はしゃがみこんだままでいるハチロウをゲートの向こう、つまりハチロウが来ようと思っていたこの地へと誘ったのだった。



「なんで俺があそこのゲートを使うって分かったんだ」


「お前は何か困りごとがあるとすぐにここに来る癖があるからな。網を張らせてもらった」


「そっか」


 なんだよ、全部お見通しじゃんか、とハチロウは小さく笑った。確かにこの高原はハチロウにとってもギルド『悠久ゆうきゅう黄昏たそがれ』にとっても大切な場所だった。


「それでさっきはなんで助けてくれたんだ」


 ハチロウはポツリと本題を口にする。軍畑はあぁ、あれはな、と言いにくそうに頭をかいた。


「あれは親分からの命令だ。『何としてもゲームを止めさせるな』だとよ。だからわざわざお前の脚本に付き合ってやったんだよ」


「なんだよそれ」とハチロウが口にする。それに対し「あぁまったくだ」と軍畑は苦笑いを浮かべた。


「まったく親分はよぉ。お前らのことになるとなんでこんなに甘いんだろうなぁ」


 軍畑いくさばたは両手をポケットに突っ込み数歩進んだ。そしてハチロウの方へクルリと振り替える。


「今回、お前が『ブラックスワン』を逃がしたことを報告したら、親分はどうしたと思う? 怒ったり悲しんだりするどころか、建物が揺れるくらいに勢いで大笑いしたんだぜ、信じられるか。

 それで親分は俺に言ったんだよ。

『うちで一番遅いクックロビンを連れてこい、あいつにはそれっくらい大人しいのがお似合いだ』ってな。ハチロウ、この意味分かるか?」


 ハチロウは首を横に振る。それを見て軍畑はため息をついた。


「お前がそのクックロビンで堂々どうどうとビリっけつを走り抜けてくれたら許すってよ。親分は言ってんだよ」


「今から出来るか」と軍畑はハチロウに持ち掛ける。ハチロウ下を向き少しの時間悩んだが、それでも首を横に振った。


「ごめん、それはできない。そんなことしたら『悠久ゆうきゅう黄昏たそがれ』をアイに失望させることになる……それだけは絶対駄目なんだ」


「ま、そう言うだろうなと思ってたよ。そこがお前の限界だろうな」


 座り込むハチロウに影が落ちる。気づくと軍畑がハチロウの目の前に着ていた。


「さてこれで親分への義理ぎり立ては済んだ。こっからは俺が言いたいこと言わせて貰う」


「お前、このゲーム舐めてんのか。周りに甘やかされて持ち上げてもらって、それで少し上手くいかないことがあるとすぐ投げ出そうとする。

 このゲームはお前一人でやってんじゃねぇんだぞ。一人ゲーがやりたいならさっさとやめちまえっ」


 軍畑いくさばたの激しい剣幕けんまくに、ハチロウは座ったままに後ずさった。軍畑を見上げながら「さっきと言ってることが違うじゃないか」と怯えながら反論する。


「あぁ、そうだ。さっきのは親分のギルド『ノワール』の方針だ。だが、俺個人の本心はやる気がねぇならやめちまえってことだ。大体、お前が勝つように仕向けられたレースを見てアイちゃんは本当に喜ぶと思ってたのか。

 おれつぇぇぇぇ、を見せつけて、楽しんでくれると思ってたのかよ」


「アイは……アイは『悠久ゆうきゅう黄昏たそがれ』を心酔しんすいしてる。だから、だからその幻想を守ってやるのが俺の使命なんだ」


 アイのことを言われハチロウも立ち上がった。ハチロウにはハチロウなりに引けないものがあったのだ。

 二人は今、広い草原で顔を付き合わせて立っていた。


「お前に、関係ないだろ。これは俺ら『悠久の黄昏』の問題だ」


「はっ、『悠久の黄昏』か。確かにすげーギルドだった。それは認める。だがな、いつもいつも上手くいってたのか。とんとん拍子でことが進んでたのか。

 そうじゃねぇだろ。初歩的なミスで仲間を死なせたこともあっただろ。ダンジョンで迷ってボスを取りのがしたダセーことだってしてたじゃねぇか」


「違う。そんなことは……」


「それはお前の頭ん中ではだろ。一緒に共にした仲間を見ちゃんと思い出せよ。現実を見ろよ。誰だって作られた物語のように何でも上手くいくわけじゃねぇんだ。だから良いんじゃねぇか。楽しんじゃねぇか。

 アイちゃんは『悠久の黄昏』のことを知りたがってるんだろ。だったら全部見せてやれよ。今も昔も、かっけぇところも駄目だったところも全部。それが本来のお前が残った役目ってやつじゃねぇのか。いつまでもお前の妄想をアイちゃんに押し付けてだましてんじゃねぇよっ」


 ハチロウは何度も反論をしようとした。口が出ないならこぶしで黙らせてやろうとも何度も思った。それでも行動に移すことは出来なかった。

 ハチロウには軍畑の言っていることが分かってしまっていたのだ。


 何も言ってこないハチロウを見て、ヒートアップした軍畑いくさばたの熱も少し覚めたようだった。これで最後だ、といった形でハチロウの胸に拳を当てる。


「『悠久ゆうきゅう黄昏たそがれ』の幻想を守ってやりたい? 幻想を守りたかったのはお前の方だったんじゃねぇのか」


 その通りだ、とハチロウは思った。

 アイがあれだけ真剣に『悠久の黄昏』のことを知りたいがためにこの世界に来たと言うのに。俺はアイに真実を見せずに、俺の幻想を押し付けようとしていたんだ。



 ♯



 呆然ぼうぜんとしているハチロウに背を向け軍畑いくさばたは、言い過ぎたか、と少し焦っていた。これで本当にゲームを辞められたら流石に親分に会わす顔がない。


 しかし言いたいこと言えてスッキリという気持ちもあった。この世界の住民は『悠久ゆうきゅう黄昏たそがれ』に甘すぎるところがある。誰かがこうして説教しれやらなければならないのだ。


「おい、ハチロウ。これは親分からの手みあげだ。受けとれ。こいつは逃がしちまっても責任はとらせねぇからよ」


 去り際に軍畑はステージの端に繋がせておいた『ノワール』最弱のクックロビンをハチロウに向けて放った。どういう用途ようとで使うのか、一目でトロいだろうと予想がつくほどの不格好な姿をしていた。

 またうずくまって小さくなっているハチロウの背中はそれに何も答えない。


 聞こえていても聞こえていなくても別に良かった。軍畑はこれで親分の依頼をすべて果たすことができたと、その場を後にする。

 のそのそとハチロウに向かっていくクックロビンがどうなるのかを見届けないまま、軍畑は再びゲートをくぐっていった。さきほどまであれだけ盛り上がっていたのが嘘のようにゲート内には誰もおらず、いつもの静寂に還っていた。


 しかし説教でも言いはしたが、現実は本当に上手くいかないものだと軍畑いくさばたは思った。

 このゲートでハチロウが「俺は悪くない」とごねてくれれば、こんな事態にならずに済んだのだ。

 実際あの状況であいつの性格なら言い訳を並べてくれると思っていた。だから、あれだけのギャラリーを集めたのだ。そうしてくれればギャラリーを味方に付け、無理矢理にでもハチロウをあの不格好なクックロビンに乗せてレースに参加させることが出来たのだ。


 ところが実際はどうだ。ハチロウはあの場で土下座したのだ。

 その時はアイちゃんに責任を被せないためかと軍畑は思ったが、実際は自身のギルドを傷付けたくないというくそのような理由だった。そのことには余計に怒りを覚えた。


 いや、そのことは今は良い。理由はどうあれ、あそこで土下座したことが予想外だった。


 土下座をされてしまったからにはギャラリーを味方に付けるなどもう出来ない。

 だから結果的にあのようなうやむやな終わり方になってしまった。壁に参加して貰ったギャラリーもあれでは満足出来ないだろう。


(あいつは本当何も分かってねぇ。空気の読めねぇくず野郎だ)


 軍畑はさきほどのことを思いだし、怒りをつのらせた。


 大人数がプレイするオンラインゲームはそれこそ現実と一緒だ。一人ゲームやドラマと違い、何が起こるか分からない。いつも物語があり、オチがその辺に転がっている訳じゃない。そこが楽しいということもある。


 それでも、誰かが指揮をとればある程度は演出することが可能だと軍畑は考えていた。


 昔、その指揮を取っていたのはゲーム運営だった。物語の導入であるイベントの開催を知らせ、オチにはちゃんとレアドロップという恩恵おんけいを与えてくれていた。現実と同じで何が起こるか分からないというなら、わざわざゲームをやり続ける理由もない。

 ゲームをプレイするのはそこに物語があるからだ。物語が提供されることを分かっているからだ。


 ところが今のこのダイアフラグは運営から見放されアップデートされることはない。物語が一方的に語られることは無くなってしまった。


 それでもここにはある程度住民が残った。ここに残った、この世界が好きだった連中は気づいたのだ。人がいれば、そこに物語は生まれるのだと、作れるのだと。ここで生きる意味があるのだと。


 人為的なイベント、フェスはこの世界で定期的に行われた。色々なギルドや街単位でさまざまなフェスが考えられ産み出されていった。

 そこには運営が関わっていないため、強制権を発動させられるものはいなかった。だから様々な穴があった。ズルをすることだって出来た。


 だが、そういったことをする者は誰一人いなかった。そんなことをしても誰も楽しくないからだ。みんな真剣にフェスに参加し、そして心の底から楽しんでいた。


 そうやって今のダイアフラグは出来上がっていた。みんながみんな、乗るところは盛大にのり、空気を読むところはちゃんと読んだ。そうすることで、何もないこの世界にも意味が、物語が生まれ始めていた。


(まぁハチロウみたいに、ここを守りたいのが理由で残ったわけじゃねぇやつもいるみてぇだがな)


 軍畑いくさばたはゆっくりとゲートを越えてレースの開催地であるグースに戻ってきた。レースの開催が迫っているため、街はいつも以上に盛大に盛り上がりを見せていた。


(そういったイレギュラーも世界を面白くする要素の一つだと思うしかないか)


 そう軍畑が納得しかけたとき、一人の黒服が大慌てで彼の元に駆け寄ってきた。


「大変だ、兄貴」


 よっぽど探していたのか軍畑の前で、黒服は息を切らしている。


「どうした? 何かあれば連絡はチャットで送れば良いだろ」


「何度も送りやした。でも、兄貴が全然反応してくんねぇから」


 あぁ、と軍畑は意識をメニューに向ける。すると電子音と共に沢山のメッセージが一挙いっきょに表示された。

 そういえば、と軍畑は思う。ゲート内ではこうした連絡が通じなくなるのだ。普段はすぐに抜けるのでこういったタイムロスを気にして無かった。ゲートを抜けるのにずいぶんと時間をかけてしまっていたなと軍畑は思い返した。


 軍畑はたくさん表示されるチャットの一つを無造作に展開させる。


「お前、これはどういうことだ」


 チャットを確認し、軍畑いくさばたの罵声が飛ぶ。


「俺にもよく分からないんです。もう、ただ手違いがあったとしか……」


 チキショーが、やっぱりイレギュラーがいると筋書き通りには進まねぇじゃねぇか。軍畑は毒付く。チャットには走り書きでこのようなことが書かれていた。


『ロビンレースに悠久ゆうきゅう黄昏たそがれのエントリーが』


 ハチロウが今さら参加するとは考えにくい。そうすると考えられる可能性は一つ。


「会場に急ぐぞ」


 なりふり構ってられない。軍畑と黒服は移動アイテムの『転移の羽』を発動させた。彼らの回りを白い光が包み込む。


 今の『悠久の黄昏』はハチロウとアイの二人だけだ。


「まったくこれだからイレギュラーはっ」


 その状況でのエントリー。つまりそれはハチロウの代わりにアイがレースに参加表明したということを意味していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る