第9話 バスボムと涙
右京の前から私は逃げ出した。
これ以上、あいつの口から千草への想いを聞いたら私は壊れてしまいそうだったから。
ざわざわ騒がしい教室……。
みんなの引く椅子の音が響く中、私も席に腰を下ろした。
そして、そのうち真後ろでも椅子を引く音がした。それは他の音となんら違わないのに、はっきりと耳についてしまう。
全部の神経が背中に集まってしまったみたいに、私は右京を感じていた。彼がどんな顔をしているかも分かるような気がする。悲しさに押し潰されてしまわないように、こんなところで泣いてしまわないように、グッと背中に力を入れた。
授業が始まってからも、背筋は硬直したままだった。いつもは眠くなる古文の授業も、今日はちっとも眠くならない。真面目にノートをとる私がよっぽど珍しかったのか、先生と何度も目が合った。このまま時計の針が進まなければいいのに、そう思ったのも初めてだった。
無情にも終わりを告げるチャイムの音。
6限目は体育だったから、逃げるように教室を飛び出した。
「……水沼、あのさ!」
「あー!さっちゃん!ごめん!私今日用事があって、放課後残れないの!学祭準備任せていい?!」
「……あ、うん。いいよ!」
「じゃあ、ごめん!また明日!」
「……ちょっ、水沼!」
「未央?!ちょっと!」
帰り際、彼が私を呼び止めようとしていることに気付いたから、思わずそう誤魔化した。それでも呼び止めようとする右京の声と、彼を無視する私を不思議に思ったクラスメイトの声が背中に突き刺さった。
怒っていっそ嫌いになってくれればいい。
女友達の枠から一日も早く私を外してくれればいい。彼の方から無視してくれたっていい。
そうでもしないと私は忘れられないから。
『未央大丈夫?』
私が擦りむく度にくれる絆創膏。
優しい千草のことだ。
怪我した彼を無視することなんて出来なかったのだろう。
そんなのちゃんとわかってる。
ちゃんと、頭ではわかってるけど。
私はいい子じゃないから。
自分が大事だから。
どんな顔をしたらいいかわからない。
頭で分かっていても、口を開いたらドロドロした感情が汚い言葉になって溢れてしまうかもしれない。
だって今、自分でもどんな顔をしてるのかわからない。いつもの自分がわからない。どんな顔で右京と話せばいいかわかんない。
何もかもがわかんないんだもん。
学祭作業で楽しそうな中を逆らって歩く。
周りを見ずに下駄箱まで急ぐのなんて入学してから初めてだと思った。
校門を抜けてまっすぐ続く並木道。
隣接した公園。
駅前の駐車場。
今朝ここを通った時、イチョウの葉は鮮やかな黄色だったと思う。
でも今はどうだ。
お洒落な英字の包み紙みたいにセピア色だ。
何も考えずにただただ歩き続ける。
こんなにたくさん歩いたのは初めてじゃないし、部活よりも体を使ってないのに、体がダルくてたまらない。
痛み始めたローファーの靴先に目を落としたのと、ほぼ同時。
ひとつ、ふたつ、と、アスファルトに次々と出来る丸い染み。
見上げると、いつの間にか、青から灰色に変わっていた空は、私の心を投影したのか、大粒の涙を落とし始めた。
慌てて駆け出す人や広がる傘のアーチをただただ黙って……見ていた。
「連絡くれれば迎えに行ったのに!」
ずぶ濡れの私を見て、母はすぐにお風呂を沸かした。
白い湯気で曇った鏡を手で擦ると、へばりついた髪の隙間から覗く情けない顔の私が映った。
あぁ、私、こんな酷い顔してたんだ。
母が入れたバスボムの溶ける音。
シュワシュワと小さくなるそれを見ていると、どんどん小さくなって、最後は粉々に割れて消えた。
溶ける音が消えて静まり返ったその空間。
その時、やっと涙が溢れた。
私の願いも粉々に割れて消えた……?
「……うっ。……うっく……」
徐々に抑えきれなくなり大きくなっていく声。その反響する泣き声が、ここから洩れたらどうしようかと気になったけれど、そんな私を助けてくれたのだろうか、その夜はとても酷い大雨だった。
子供みたいにワンワン泣いた。
雨が強くて良かった。
泣くことを我慢しなくて済んだから。
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