第4話 オレンジ

 目覚ましの音がなる少し前に目が覚めた。

 スイッチをオフにしたあともすぐに起き上がれなかったのは、久しぶりにあの嫌な夢を見たからだ。

 泣いてしまったのか天井が滲んで見える。


 子供みたい。

 また自分が嫌になる。


 もう何年も前のこと。

 今思えば、子供っぽい意地悪の1つじゃないか。

 それをいつまでも忘れていない私がいることに嫌気がさした。


 ***


「高木さんって千草っていうの!?」


 左京くんが転入してきて3日目。

 席順で回ってくる日直は、今日ちょうど私と左京くんの番だった。

 彼はまだ来たばかりだし、今日は日誌を書くくらいしか仕事もなさそうだったから、一人でやろうと思っていた私。けれど、最後の授業が終わったあと、彼は私に『日誌書くんだよね?』と言って教室に残った。


 みんながいなくなった教室で机を合わせて、正面に座る彼。

 私は緊張で、いつも以上に机にかじりついていた。


 日誌に書いた私の名前を見て、彼が驚いたのはその時のこと。下の名前を確かめられた私は、かじりついていた机から慌てて目線を上げて応えた。


「はっ、はい。た、高木千草です」

「そっか!そっかー!」


 彼はなぜか驚いたように口を手で覆い微笑む。


 その姿を見て、こんな風にも笑うんだ、と少し得した気分になった。

 なぜなら勝手にクールなイメージを抱いていた彼のその行動は、すごく可愛い気がしたから。

 自分でも知らないうちに頬が緩んでいたらしく、目があった彼は口を覆った手を机の上にずらして微笑んだ。


「隣の席なのに、まだあんまり喋ったことなかったね」

「あ、いえ。わ、私、喋るの上手くないし」

「それ上手い下手ある?」


 面白いね、高木さん。と彼はまた笑った。

 私は彼が微笑む度に頬が熱くなっていく気がしてならなくて、慌てて日誌に目を落とした。

 並べて書かれた二人の名前。

 なんだかそれも恥ずかしくて戸惑ってしまうが、目の前の彼が、私の書いた字を目で追っているのも何となくわかってしまい、心臓がドキドキと早く打った。


「高木千草っていい名前だね」


 唐突に、本当に唐突に、彼は言った。


「え?」


 弾かれるように顔を上げた私に、彼はまた続ける。


「高い木と、千の草でしょ?気持ちのいい野原みたいだ」


 ただ黙って固まった私に、でしょ?と言うと、彼は私の目を見て2度頷いた。


「せ、千の草だなんて、そ、そんなこと初めて言われました。ち、小さい頃、クラスの男の子に……」


 慌てて否定しようと口を開いた私は、すぐに後悔した。


『ちーぶーさー!ちーぶーさー!たかぎのちーぶーさー!』


 ハッと口を閉じ、今朝見た夢を思い出す。

 私の中に小さく残る傷。

 それを口走ってしまった。


 小学生の時、クラスの男子に『ちぶさ』と、からかわれたことがある。

 それはそれは恥ずかしかったけれど、未央も助けてくれたし、そんなに気にならなかった。


「どうした?」


 左京くんが困ってる。


「ご、ごめんなさい。なんでもないです」


 笑顔を作って見上げたはずなのに、彼の目に映った私は、ちっとも笑えていない。


「嫌じゃなかったら話してみなよ」


 彼は優しく、そう優しく言うと軽く頬杖をつく。

 どうして話してしまったかわからない。

 けれど、私は机の木目に視線を落としたあと、ゆっくりと話し始めてしまった。


 小学生の時、好きな男の子がいたこと。

 男の子なのに花が好きな子で、花屋の我が家によく遊びに来てたこと。

 いつも仲良くしてたのに、なぜか4年生になったらあまり話してくれなくなって、避けられるようにもなったこと。


 うん。うん。


 彼は時折、私のペースに合わせて静かに頷く。それは、私が話しやすい空気を作り出してくれているように思えた。


「で、4年生のある日、忘れ物に気付いて教室に戻ったら、そんなことがあったんだ……」


 ***


『お前ちぶさのこと好きなんだろー!』

『ちぶさとけっこんすんのかー!ははははは』


 西日が差す三階の教室。

 私をからかう声が聞こえて勝手に足が止まった。私をからかう声、それだけなら良かったのに、次の瞬間聞こえてきた声はあまりにも受け入れがたいものだった。


『うっせぇ!ちげぇよ!ちぶさじゃねぇよ!千の草なんて雑草じゃんか!!』


 雑草……好きな子からのその言葉は、頭を思い切り殴られたような、いや、それ以上の衝撃だった。


 その事があってから私は、ちぶさとは呼ばれなくなったけれど、同時に彼の顔を見ることも、話すことも一切出来なくなってしまった。


 さらに、未央がその事を知って、彼を怒りに行ってから、何度か彼は声をかけようとしてくれた気がするが私はいつも避けてしまった。五年生になり、彼がお父さんの仕事の関係で札幌に引っ越すまで結局1度も話すことはなかった。


 私はその時から、自分に自信を持てない。

 子供心に、自分も可愛い花だと思っていた。

『雑草』

 その言葉に酷く傷付いた。


 それと……もうひとつ。


 困った顔をして何度も謝ろうとした彼に、その機会を与えなかった私。

 私を雑草だと言ったこと、もっと反省すればいいんだ。そんな風に思う自分の嫌な部分にも気付いてしまった。


 そのせいなのか、私は可愛くない、何時からかそう思うようになっていた。

 優しいと言われるけれど、本当の私はちっとも優しくなんかないの、そう思うようになった。


「変な話しちゃって……ごめんなさい」


 長々と話してしまったことに気付き、慌てて謝る。面倒な女だと思われただろう。私の恋はきっとここで終わるんだ、と膝の上で手を丸めた。


 彼はしばらく黙っていたが、何度か頷くと突然こう言った。


「……彼は高木さんのこと好きだったんだね」

「え?」


 顔を上げると、すぐに目があった。


「千草の意味を回りのガキに伝えたかったんだよ。照れで雑草だなんて言ったんだろうけど」


 彼の顔は逆光でよく見えなかったけれど、そう話す優しい声はまるで、私の嫌な部分を浄化してくれるお日様のようで……


「いい子だね。彼も高木さんも」


 そう話す彼の口調はあまりにも温かくて。


「大丈夫。雑草なんかじゃないよ」


 そう言って、私の頭をポンと包んだ彼の手のひらが……その、大きくて、少し骨ばった手のひらが、あまりにも温かかったから。


 ふと涙が溢れたのが分かった。


 力を込めて握っていた手の甲に涙が落ちる。

 喉の奥が燃えるように熱くなって、それはまるで嫌な私が溶けていくようにも思えた。


 泣いた私を見ないようにしてくれたのだろうか。

 彼は体の向きをそっと変えると、ただ黙って窓の外を見ていた。

 何をするでもなく――ただ黙って。


 ***


 どのくらい時間が経っただろう。

 お日様の位置が変わって西日になっていることに気がついた私は、急に現実に引き戻される。


「ごめんなさい!!」


 立ち上がり、彼に頭を下げる。


 どうしよう。

 どうしよう。


 泣いたせいもあって少しクラクラする下げた頭。彼からどんな返事が返ってくるか怖かった。


 けれど次の瞬間、私にかけられた言葉。


「……なにが?」


 見上げると、窓から注がれるオレンジ色を背中いっぱいに受けて、優しく微笑む彼がそこにいた。


「これくらい大したことじゃないよ」


 そう私を包んだ彼の言葉と眼差しを、私は一生忘れないと思った。

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