第16話 苦悩を抱く者
彼は元々騎士の家柄だった。
それは
その程度の家柄なので、貴族であるという特権意識などは微塵も無く、代わりに義務と誇りのみでその矜持を支えるよすがとしている、そんな貴族だった。
しかし、やがて大陸の北部の大半を飲み込んで巻き起こった泥沼の戦は、彼等の矜持を打ち砕くに十分のものとなっていったのである。
その戦では古い伝統は失われ、騎士は誇りある一騎打ちでではなく、蟻のごとく群がる敵に引き摺り下ろされて槍でめった突きにされて討たれることとなった。
そんな戦で初陣を経験することとなった彼が、わずかな期間で敗者として戦場の片隅に転がったのはむしろ必然ではあったのだろう。
……だが……
――…笑い声が聞こえる。
それは記憶という逃れようがない自らの一部からもたらされる痛みだ。
「おいおいこいつまだ生きてるぜ?」
「なあ、賭けをしないか? こいつがどこまで頑張れるか」
笑い声は消えない。
「まず腕な」
声と共に蘇る焼け付くような痛み。
いや、あの時本当に痛みを感じたのだろうか?
わからない。
だが、笑い声だけははっきりと覚えている。
「はっはあ! まだこいつ生きてやがるぜ! 這いずってやがる!」
「よし、俺の番な、お次は足だ!」
ガコリという重い衝撃。
そうだ、これは覚えている。
俺の上げた悲鳴にまた笑い声が上がったことも。
「てめえ、自分の賭けを有利にするために急所を避けやがったな!」
「言い掛かりはよせよ」
「ぎゃはは、こいつダセえ、ゴロゴロ転がってやがる」
「んじゃ俺が片目っと」
世界が赤黒く塗り潰される。
― ◇ ◇ ◇ ―
「がはっ!」
男は激しく喘ぎながら起き上がった。
とっくに渇き、塞がったはずの傷口が熱を持って熱い。
「くそ、今頃になってもあれにうなされるとはな」
男は、体中を重く侵す痛みを無視して身を起こそうとした。
が、そこに、ぱたりと小さな音が聞こえ、男の身体が強張る。
枕元の剣に一つきり残った腕を延ばし、男はじっと暗闇を透かし見た。
「マァイアおじさん、お水持って来たよ」
そこにはぼんやりと小さく白い姿が浮かび上がっていた。
だが、姿ははっきりしなくとも、馴染んだ声はそれが誰かを知らせてくれる。
「リアナか、こんな夜中に出歩くな」
「だって、おじさんがうなされてたから。それに私には夜も昼も同じだもの」
少女はくすりと笑って水の注がれた器を男に差し出す。
常人にはほとんど何も見えない暗闇だが、確かにその少女には関係無かった。
彼女は目が全く見えないのだから。
目が見えないから捨てられてしまったのか、孤児となった彼女を引き取る施設は無く、危うく放逐されて野垂れ死にさせられる所をこの城の養育施設に引き取られたのである。
その少女から差し出され、体に押しつけられた器を、男は剣を手放したただ一本の手で受け取った。
少し大きすぎる、本来はスープを盛る木の器に注がれた水は、男の渇いた喉をゆっくりと潤しながら滑り落ちた。
― ◇ ◇ ◇ ―
この辺境の街に在って、似つかわしくないぐらい城郭の中は広い。
街の三分の二程の広さが城の敷地だけであるのだ。
尤も、元々は水路部分も城の一部だったのだから、本来の大きさからすればかなり狭くはなっている。
城郭内は、その広さにふさわしく、様々な施設が立ち並び、さながらもう一つの街といった様相を呈していた。
もちろん店などの呼び込みは無いので賑やかさにおいては街のそれに少々劣るが、響き渡る訓練の声や、数頭いる放し飼いの犬の吠え声、下働き達の交わす指示や愚痴や噂話など、この場独特の喧騒は当然ながら存在した。
その城郭内に立ち並ぶ施設間には、直接行き来するための専用通路が造られているのだが、それも古い物と新しい物が複雑に入り交じった結果、迷路のようになってしまい、慣れない者にはさっぱり繋がりがわからなくなってしまっている。
なので、そこで働く者達も己の担当や関連する区画以外のことは知らない者が多く、どうしてもわからない場所を通らなければならない場合には、大回りして庭や外通路を抜けることが多いのだ。
そんな通路を、今、一つの人影が歩んでいた。
「あの女傑殿のおっしゃっていた全部の現場を繋ぐ道筋ってのが、これまたややっこしいな」
警備隊の内の風の班、その班長であるザイラックである。
手にした皮紙をカンテラで照らしながら、考え込むように通路の様子を窺っていた。
そして、そのままの姿勢でぼそりと呟くように言い放つ。
「何の用だ? 見ての通り俺は忙しいんだがな」
すると、通路の緩いカーブの先から一人の男が姿を見せた。
薄暗く、ほとんど物の輪郭しか判別出来ない通路ではあるが、その男の仰々しく武装したシルエットは、容易くその素性を知らせる。
「聖騎士ザイラック、どうかこの未熟な身に教えを賜りたい」
それは守備隊の青年兵だった。
胸に手を当て、身を前に折り、正式に騎士に対する礼を取る。
「なんだ、それは? ここにはそのような者は居ないな。だいたい、この国にはもう騎士はいない。お前せめて三十年は早く生まれればよかったんじゃないか?」
「いえ、騎士は滅びません! それは制度の名では無いからです。騎士とは魂の在り方、私は祖父にそう教わって育ちました」
通路を一人調査していたザイラックは、わざとらしいため息を吐いてみせた。
「だから、そのじっさまの時代ならそれでよかったんだろ。とにかく俺には関係ない、仕事の邪魔だ。去れ」
「いえ、去りません。私は先日くだんの魔女に遭遇し、みすみす取り逃がしてしまいました。自らの不甲斐なさに血が遡り、我が身を焼くがごとく感じております。かつて炎すら斬ったと言われる聖騎士殿になんとしても極意をいただくまでは、この身に安らぎは訪れないでしょう」
「うっとおしい野郎だな」
ザイラックは舌打ちをすると、嘲るような笑い声を上げる。
「生憎と、ここにいるのは力なき民に命を救われ、あまつさえその民を見殺しにした愚か者だ。貴様の求める相手ではあるはずもない」
「その話は伺っております。ザイラック殿を慕う民が命を投げ打って殿下をお助けもうしたと、それは名声を上げることこそあれ貶めるものでは」
「黙れ!」
発せられた怒声の持つ、大気を震わす力によって守護隊の青年兵は二、三歩後退った。
そしてまるで殴られでもしたかのように自分の頭を振る。
「事実を知らぬ者が賢しげに死者を語るな!」
びりびりと大気が雷気を帯びたかのようにとげとげしく敵意を纏った。
僅かな動きに青白い細い光が走り、青年が恐怖のあまり触れた剣の柄から痛みが指先に伝う。
青年は一瞬の忘我の後、慌てて片膝を付いた。
「申し訳ありませぬ、騎士の怒りを受けたからにはこの貧なる首を持ってしてお怒りをお鎮めください」
「俺は荒神か何かか? ちっ、気が削がれた。わかった、その素っ頓狂さに免じて一つだけ助言をしてやろう」
「はっ、ありがたき!」
「有難いかどうかはお前次第だろ。いいか、およそこの世に存在する物には必ず核がある。その存在の寄って立つ何かが中心でその存在を支えているんだ。だからその存在を滅ぼそうと思うなら、その核を絶てばいい」
「核」
頭を垂れて呟く青年へ、ザイラックは吐き捨てるように告げる。
「もうついて来るなよ、今度気配を感じたら、迷いなく斬り捨てるからな」
薄暗い通路を歩み去るザイラックの足音を福音のように聞きながら、守備隊の青年は一人決意に満ちた目を見開くのだった。
― ◇ ◇ ◇ ―
その日は、この季節には珍しい曇天に、冬の先駆けのごとく冷たい風が吹き抜けていた。
人々はまだ薄い着衣を掻き合わせ、随分と鳴りを潜めた怪しげな事件についての不安を忘れて行き、明るい内の早い外出禁止時間に不平を漏らし合う。
酒場で昼に飲む男が増えて、仕事に支障が出ると愚痴る雇い主達も多かった。
そしてまた、同じように不便を感じている者がここにもいた。
「最近は市場もお店が早く閉まるから治療所から帰る時に一度先に買い物をして家に荷物を置いてからミリアムの店に行ったほうがいいかな? 夕方はみんなバタバタしててゆっくりできないしね」
「あいつも思ったより手こずってるようだな。本格的に探し始めた途端に鳴りを潜める辺り、相手も知性が無い化け物って訳じゃなさそうだしな」
ライカは外に干してあった大きな布を回収して籠に入れながら今後の予定をサッズと相談していた。
城郭内で起きた事件の犯人が捕まらないまま、それなりに時間が経過してしまっている。
そのせいで人々を守るためになされた臨時の決め事が、人々の生活に深く影を落としはじめているのだ。
しかし、彼らにはまだまだ深刻さは無く、気楽だった。
今も他人の目が無いのをいいことに、サッズは干している布を挟み板ごと風で舞わせ、ライカに被せて遊んでいる。
「サッズ! いい加減にしないと今度作る飴を分けてやらないからな!」
「え~、なんで飴を引き合いに出すんだよ、関係ないだろ」
「価値と価値の交換だよ、ほら、お金と一緒さ」
「なるほど楽しみと楽しみとで等価とみなした訳だな。仕方ない、まじめに手伝う」
「最初からまじめに手伝うか、さもなければ好きに遊んでればいいんだよ」
「お前文句ばっかり言ってるとモテないぞ」
「今のところモテたい相手がいないからいいよ」
「お? あの城にいる背の高い女はどうなんだ?」
「年が違いすぎて相手にもされないよ」
冷たい風がともすれば回収した布を巻き上げようとするが、ライカは巧みにそれを押さえて逃さない。
彼らにとって風の扱いは慣れたものであり、この程度の寒風は辛いとも感じないのだ。
「だれかぁあああ! 誰かきてええ!」
そんな彼らの元に突如として悲鳴が聞こえて来たのは、最後の布で取り合いをしていた時である。
声が聞こえて来たのは城の裏手、野菜畑のある方向であり、その悲鳴が子供のものであることを瞬時に理解した二人は、弾かれたように走り出したのだった。
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