第164話 喪われた嵐の夜

 吠えた海賊の頭ハーバーは、まるで保身を捨てたかのように一直線に討伐隊の隊長に突っ込んだ。

 一瞬の船の大きな揺れに足を取られていた隊長には、それを避ける術も無い。


 ハーバーは、得物を巧みに使うことを忘れたかのごとく己が手で掴み掛かると、武装した大の男を軽々と投げ飛ばした。

 理性を失ったように見えても、何もかもがわからなくなっていた訳では無かったようで、隊長の体は、炎に包まれそれでも尚頑丈な帆柱の折れ口へと背中から投げ込まれたのである。

 或いは理性が薄れていたからこそ、その残虐性ゆえにそうしたのかもしれなかった。

 その場には、たちまち嫌な音と匂いが撒き散らされる。

 周囲の隊員から、息を飲むような詰まった悲鳴が上がった。


「ぐあぁっ!」


 受け身も取れず、背中から帆柱に叩き付けられた隊長は苦鳴にのたうつが、幸いなことにぐっしょりと雨に濡れた衣服に火が移る事態だけは免れた。

 それを幸いと呼ぶなら、であるが。


「いいぜ、もっと苦しめ、俺の目の前で苦しんで死んでいけ!」


 ハーバーの歓喜に狂った笑いが、雨の弱まった大気を震わせた。

 だが、そんな彼らをまた、いや、今度は前よりも大きい揺れが襲う。

 下から殴られでもしたかのようなその揺れは、まるで熱狂的な足踏みのように船体を何度も上下に突き動かした。

 これにはさすがのハーバーも堪らず床に伏す。

 誰一人として起き上がることも出来ず、必死で手近な何かを抱え込み、船から振り落とされないようにしていた。

 そんな中、討伐隊の一人が、転がり落ちようとした隊長の体を庇って抱えると、奇跡のような軽業で碇止めのロープ杭にしがみつく。


 ふっと、唐突に揺れが止んだ。

 それどころか、あれほど荒れ狂っていた風雨が徐々に収まってさえいるようにも感じられた。

 雨風の中、途切れることなく続いていた耳元の囁きのような人魚の歌が、ふいにぴたりと止まる。


 何が起きたのか?

 事の成り行きを確認すべく、甲板上の人間全てが空を仰いだ。

 闇の雲、嵐を形作る厚く蠢く雲は、まだ厚く空を覆っていたが、船の斜め後ろ側の真上に、丸い、墨の中に水滴でも落としたかのような穴が見える。

 そこに月の欠片が垣間見え、一筋、光が差し込んでいた。

 しかしその光は、大部分が何者かによって遮られている。

 そのあまりに巨大な空に在る影が、よもや生き物であると、いったい何人がこの時気づいただろう。


 ―…ィェアオオオオオオオオオッッ!!


 ソレから恐るべき音が発せられた。

 いや、それはおそらくは『声』だったのだろう。


 その声は全ての人間の全身を打ち、身動きも思考も奪った。

 ソレの頭上では、まるで声に押し広げられているかのように、たちまちの内に雲に開いた穴が広がって行く。


 真円というにはやや欠けた白き月、暗き中にほんのりと藍の色を帯びた空。

 雲を排し、すっかり姿を現した夜の空の元、月の光に暗く影として浮かぶ巨大な姿がある。


 ―…キィーッ!ギュアアア!


 船の下、波間では、人魚達が恋への酔いを覚まされて、狂ったように啼きながら海中へと逃れて行く。


「待てぇ!人魚共!俺のために船を動かせ!」


 この状況下で体を動かせ、更に怒鳴りつける胆力は、流石に海賊の長であると言えただろう。

 だが、ハーバーはすぐにその背にひやりとした気配を感じ振り向いた。


「俺を、見てるのか?」


 その視線を感じただけで、足がガクガクと震え、崩折れるように膝を付く。

 口惜しさも、悪態も、まるで水を掛けられた塩のように溶け崩れた。


 ―…カアアァアア!


 咆哮が風を呼んだ。

 いや、それを風と呼ぶのは間違いなのかもしれない。

 最初に在ったのは衝撃で、それはまるで全速力で切り立った崖に突っ込んだかのようなものだった。

 次に全く呼吸が出来なくなる。

 空気がそのまま泥か石に変わったかのように、固く、吸い込むことが出来なくなったのだ。

 そのまま瞬時にブラックアウト。

 それまで暴威を振るっていたハーバーは僅かなその一瞬で意識を刈り取られたのだった。


 しかし、この場に残った者達が事態を把握出来たのはかなり先の話である。


「みんな!何かに掴まって!それからお互いに手を繋いで離さないで!」


 ライカは、サッズの放った声を聞いた途端、ヴェントの腕を掴んで奥の階段へと走った。

 一人ずつしか上れないそこへヴェントを押し込むと、上から心配そうに覗き込むロレッタにそう叫ぶ。

 すううっと空気の厚みが変化するのをライカは肌で感じとった。

 幼い頃から慣れ親しんだ感覚、サッズが風を操る時の予兆である。

 途端に馴染んだ護りの皮膜が周囲とライカを切り離した。


「こんなのむちゃくちゃだろ!サッズッ!」


 ほぼ衝動的に動いているだろう相手にそんな叫びが届くはずもなく、恐るべき衝撃が船を襲うこととなった。


 子供達の声なき悲鳴。

 天地がグルグルと何度も入れ替わる感覚。

 ライカの目前で、ヴェントの体が何かに押し付けられているかのように壁にめり込み、苦痛に歪んだ。


「危ない!」


 ドオン!という音と、またも振り回されるような衝撃。

 と、ふいに空気の厚みが正常に戻り、ライカと世界の繋がりも復活した。


 壁からずり落ちて来るヴェントを受け止め、気絶しているのを確認すると、一旦階段の途中に下ろし、ライカはそのままその上を乗り越えて階段の上部に移動してから、上からヴェントの体を階上へと引き摺り上げた。


「ロレッタ、ハトリ、ミーテとセニア、それからええっとニニスと後は名前聞いてないか、みんな無事?」


 返る声一つ無く、累々と横たわる子供達を一人一人確認する。

 全員に新たな怪我が無い事を見て取って、ライカはやっと安堵の吐息を吐いた。


 ふと、空気が揺らぎ、慣れ親しんだ気配を感じる。


「見ろ、全部終わっただろ?」


 階段を上りながら得意げにそう言ってくるサッズを、ライカは無言で蹴り落とした。


 ― ◇ ◇ ◇ ―


「南の防風林に船が打ち上げられています!」


 嵐と海賊に備えていたリマニの守備隊は、急激に収まった嵐に首を傾げ、その後鳴り響いた大きな音に仰天した。

 そして急いで出立した調査隊は海岸よりも遥か内奥に巨大な船が鎮座しているのを発見して更なる驚愕を経験することになる。


 投光用のカンテラに照らし出されたその姿に、リマニの国主ジラソーレは慎重に言った。


「これは、件の海賊船に間違いないのか?」

「はっ、帆柱が折れてはいますが、間違い無いでしょう。この大きさの外洋船は多くありませんし、形も特徴的です」

「よし、それでは取り逃がしの無いように船の周囲を青、白の総六班でもって囲め。捕縛一人に付き褒賞に北の果実酒をひと樽出すぞ!残りは各班長統率の元内部の探索に当たれ!一番には届けのあった略取された商家のお嬢さんの保護だ。お嬢さんといっても数え七つの子供だから変な下心を起こさないように!」


 周囲から思わずといった笑いが起こる。

 ニヤリと自身も笑みを見せたジラソーレは、指示を続けた。


「第二に当然ながら海賊の捕縛!これは生きていても死んでいても手柄は同等だ!そして第三に先に乗り込んだ討伐隊の状況確認、それ以外のことは必ず上官に指示を仰げ!個々での勝手な判断を禁ずる!以上だ!」

「おう!」


 軍にしてはややざっくばらんな雰囲気の返事が響き、突入が開始された。

 しかし、彼らの意気込みに反して、その処理は実に簡単に終わった。

 なにしろ内部の人間のほとんどは気絶していたのだから。


 船内で唯一目を覚ましていたのは子供達の集団だった。

 捜索願いの届けられていた子供と、届けは無かったが、攫われていたらしき子供達は大人達に抱えられて、注意深く船から隔離されることとなったのだが、ここで一騒ぎ起こる。

 ヴェントやサッズはこの扱いを酷い侮辱だと受け取ったのである。

 揉めた挙句に部隊長を呼ばれる騒ぎとなり、自分達の足で降りることを許される運びとなったが、ロレッタはその一幕に「バカ」とだけコメントした。

 全てを内包した、実に深い言葉ではある。


「俺達は船の中にいたので、何が起きたのかはよくわかりません。ヴェントの知り合いらしい大人の人達が来たので、助かったと思って安心していたし」


 船が打ち上げられるという異常事態について問われたライカは、しらを切った。

 ライカ同様大体のことの成り行きに気づいていたであろうヴェントも、「あんなにグルグル回されたのは生まれて初めてだ」と告げるに留まった。

 しかし、その後ちらりとサッズを睨んでいたのは仕方のないことだろう。

 むしろ衆目の元で糾弾しなかったのが不思議なぐらいだが、さすがに自分の正気を疑われると思ったか、それなりにサッズに恩義を感じているか、その判断は微妙な所だ。

 ことの張本人のサッズはというと、とうとうライカに褒めて貰えなかったせいですっかりグレていた。


 そのあまりのグレっぷりに、とうとう根負けしたライカは、懐から最後の肉桂飴を取り出すと、その口に突っ込んでやる。

 たちまち戻ったその機嫌に、傍から彼らの様子を見ていたヴェントは、何かとてつもない理不尽を感じているかのように首を振ってみせたのだった。

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