第161話 海の魔物

 ぽかりと口を開けた深淵の闇を思わせる穴。

 そこから吹き込む風雨が狭い荷物室を荒れ狂う。

 受け入れ難い現実に、わずかな放心があり、次いで、短い悲鳴に似た声が上がった。

 本当なら波高い今、その穴からは大量の海水がなだれ込み、彼らは有効な思考を開始する前に波に呑まれる定めだっただろう。

 だが、今、周辺の巨大なうねりを無視するように、この船のみには波がその凶暴さを収めていた。


「全員を檻から出そう」


 まず、まともな言葉を発したのはライカで、未だその胸を押さえてはいたが、声には力強さがあった。

 その声にはっとしたように、旅芸人の少年ハトリは、身近な子供を一人抱え上げると、ライカが一部を外した檻の一角から抜け出て、なるだけ穴から遠ざかると、ぐったりと子供を抱えたまま膝を付く。


「そうね、ぐずぐずしてられない。急ごう!」


 先ほど歯の根も合わないぐらい怯えていたロレッタも、次々と移り変わる事態に対応すべく、二人の少女の手を引いて、海賊の男が開け放したままだった扉から出た。

 檻の中でぐったりしていた子供達の内数人はのろのろとだが外へと向かい、残った子供にはライカやロレッタが手を貸した。


「ん?なんで慌ててるんだ?火ならもうすぐ消えるぞ」


 唯一事態を把握していないのは、事の原因のサッズで、特別に夜目の効く彼は、みんなの動きを不思議そうに見てそう漏らす。


「サッズ、船に穴を開けたらまずいんだ」


 すっかり後追いになった形の説明を、ライカが少し疲れた声で告げた。


「あ、まずかったのか?」

「うん、メロウ達が波を遮ってる今の間はいいかもしれないけど、それがなくなればここから海水が入り込んで船のバランスが崩れる。そうしたら大きく傾いて、更に海水が入り込み、って感じで、この船は沈むと思う」

「そんな危ない乗り物なのか、船って」

「正確には今開いた穴でとても危険な状態になった」


 理解したようなしてないようなサッズに説明を続ける気力も時間も無かったので、ライカは説明をとりあえず切り上げて、彼にぐったりした子供を三人押し付けると、檻の中を見て、他に子供がいないことを確認する。


 風雨に混じって聞こえる歌は、先ほどのものと違って太く力強く弾けるようなものに変わっていた。

 メロウ達がどうやってか、せまる波を打ち消しているのは確実だろう。


『なかなか細かい作業をしているようだぞ。俺にはついぞ理解出来ない細かさだ』

『サッズは壊すのが専門だもんね』

『もしかしてお前、怒ってる?』

『残念、ちょっと違う。呆れてるんだ。いくらお馬鹿なサッズでも、船がどうやって水に浮いているかぐらい理解してると思ってた俺が悪かったんだけどさ』


 ライカは周辺を素早く確認しながら心声でサッズに嫌味を言う。

 サッズに比べるべくもないが、今まで人工の灯りを使わずに生活していた(ただし、セルヌイが自身の趣味でランプやロウソクは使ってみせたことはある)ライカは、暗闇でもそこそこ物が見える。

 それを駆使しての行動だった。


「ど、どうしよう。こうなったらその穴から海に逃げた方がいいのかな?」


 全員が檻から出て、次の行動に迷ったロレッタは、そう誰にともなく言う。


「それは止めたほうがいいと思う。外は本来嵐で夜でなくても到底泳げるような状態じゃない。それに今はメロウ達がいる」


 それに応えたのはライカだった。

 ライカは淡々と、しかし周辺に吹きすさぶ風に負けないように声を張って理由を説明する。


「メロウって?」

「ええっと、人魚のことだよ」

「人魚だって!」


 ライカの言葉に食い付いたのはロレッタではなくハトリだった。


「どこだ?海の中か?」


 穴から首を突き出して海面を窺おうとするハトリをライカは慌てて静止する。


「危ないから」

「くそ、暗くて見えない」

「何よあんた、さっきまで死んだ魚みたいな顔しちゃってた癖に、なにいきなり馬鹿みたいに元気になってんの?」


 ロレッタは気絶している海賊を彼自身の帯を使って縛り上げると、呆れたようにハトリを評した。


「何って、人魚だぞ!海の神秘、麗しき海の奇跡の乙女。船乗りは彼女らの歌に惹かれて海の底へと誘われる。そんな伝説の一部を自分の目で見られるかもしれないんだ!これを逃して歌人と言えるか?」

「えっと、誤解があるようだけど、今ここにいるのは男の人魚だからね」

「へ?男?」

「うん、求愛の歌を歌ってたから間違い無いよ。人魚は嵐の夜に恋人を求めて歌を歌う種族だし」

「何言ってるんだ、歌で船乗りを惑わすのは昔から人魚の乙女と相場が決まってるだろ」

「ちょっと考えれば分かるだろ?ほとんどの種族で求愛の歌を歌うのは男じゃないか。だからこそ彼らは海賊に利用されたんだ」

「男!」


 何か謎なショックを受けているらしいハトリを置いておいて、ロレッタがライカの言葉に首を傾げる。


「それってどういう事?」

「人魚は古い種族だから同族同士じゃなくても婚姻が出来るんだ。とても女性の少ない種族だし、むしろ積極的に他の種族を求める場合もあるって聞いた。きっと海賊はそれを利用して、彼らに花嫁を渡す代わりに海を安全に航海出来るように船を守らせたんじゃないかな?」

「えっ?じゃ、じゃあ」


 ロレッタはどこか縋るように言った。


「生贄にされた女の人は生きてるってこと?」

「残念ながら人間は海では生きられないよ」


 ライカの短い答えにロレッタは唸り声を上げる。


「やっぱりあたしは殺されるとこだったんだ」

「うん。だから今海に飛び込むのがまずい理由の一つがそれでもあるんだ。わかるだろ?」


 ロレッタは身震いして頷いた。


「それにしてもお前、そんなこと良く知ってるな。僕はあちこち旅してきたけど、全然聞いたこともない話だぞ?」


 なんとか気を取り直したらしいハトリが疑わしげにライカに言う。


「本を沢山読んだからね」


 ライカは事実ではあるが、真実とは違う答えを返した。


「本だって!お前どっかの貴族かなんか?」

「違うよ、育ててくれた相手が凄く本が好きで集めてたからそのおかげで沢山読めただけ」

「ふ~ん?」


 どこか疑わしそうではあるが、ハトリはそこで話を止めた。

 鼻をひくつかせて荷物を見たのだ。


「おいおい、いくら絶望しかない状況でも、そこまでする必要ないだろう?」


 運命を呪うようにハトリはうめいた。

 積まれた荷物の一部から煙が出ている。

 どうやら床にあった火が荷物に移ったらしい。

 まだ火は見えないが、鼻を刺激する煙は急速に不安を煽った。


「一か八か上に出よう」


 ライカはそう言って、サッズに預けていた子供を一人引き受けて背に負う。


「サッズ、その子達を守ってあげてね」


 残る二人を両手に抱えたまま、サッズは呆然とライカの言葉を聞いた。


「ロレッタ、その子達二人は大変じゃないか?一人俺が抱えるよ」


 ライカは自分は空いた手に子供の一人を引き受けるべくロレッタに話し掛ける。

 しかし、ロレッタはそれどころではないようだった。


「あ、ありがとう。っじゃなくて、上って正気?上には海賊連中がうじゃうじゃいるよ、あ、あの男も」


 思わず恐怖で口ごもる。

 海賊たちの頭である男に対する恐怖で、思い浮かべるだけで体が震えるのだ。


「でもこのままここにいたら燻されちゃうよ。それに人魚が気持ちを変えたらここはすぐに水が入ってくる。今はここが一番危険なんだ」

「まあそうだな。僕もいい加減運命に翻弄されるのは面倒になってきたし。おい、しゃんとして、一人で立てるだろ?」


 ハトリが、後半は自分が連れ出した少女を促しながらそう言う。

 十歳を超えたぐらいの女の子は泣きながらだったが、自分で立ち上がるとそのハトリの手をおずおずとぎゅっと握った。


「あんたの顔も役に立つんだ」


 ロレッタがその雰囲気を察してすかさず皮肉を言った。


「顔しか取り柄がないみたいな言い方はよしてくれ」

「本当だし」

「なんだとこのガサツ女」

「みんな元気みたいだから行くよ?あ、こらサッズ、子供を逆さまに持たないで、ちゃんと優しく抱えてやって。首根っこを掴んでぶら下げるのも無し!」


 ライカは言い争う二人と、自分にしたような扱いを普通の子供にしようとするサッズに注意したりと、なんだか間違った方向に忙しい。

 煙が風に乗って渦巻く中、彼らは上へと上がる階段へと向かった。


 ― ◇ ◇ ◇ ―


 リマニの国の海戦兵達は夜間の海上での行動の訓練も積んでいる。

 喫水の浅い、ほとんど一枚板のような細葉船と呼ばれる船を使い、彼らは大きく迂回して海賊船の後ろに付けて襲撃の機会を伺っていた。

 荒れ狂う波によって彼ら自身の安定と敵船までの視界が最悪に近いが、それに弱音を吐く者はいない。


「おい、あれ」


 海賊船の甲板から指向性のあるランプの光が海をざっと照らし、そこに浮かび上がったモノを見た途端、そんな屈強な男達の間に動揺が走った。


「人魚じゃないか?」

「魔物憑きだ!」

「火矢を!あの船を燃やすんだ!」


 人魚は嵐を呼ぶと言われている。

 根源的な恐怖に裏打ちされた感情が、激しい攻撃衝動を引き起こそうとした。


「止め!」


 その混乱を止めたのは、声自体はさして強くないはずだが、この風の中で不思議と耳を打つ指示だった。


「しかし御大将、魔物憑きは嵐を呼ぶ。早く燃やしてしまわないと災厄を招いてしまいます」


 必死の懇願にも似た声に、男はぴしゃりと告げた。


「馬鹿野郎!あの船には子供らが捕まってんだぞ?今燃やしちまったら子供達も助からないだろうが!火矢は止めろ、それにどうせこの距離じゃ届かねぇし、無駄だ」


 だが、彼の指揮力も、この嵐の中では限界があった。

 船団の内の数隻が命を待たずにするすると海賊船に近づきだしたのである。

 海の男達は迷信深い。

 災いを呼ぶという魔物憑きの船は、彼らにしてみれば到底許せる相手ではないのだ。


「ちいっ、馬鹿共が!仕方ない、足並みを揃えるぞ。俺たちが乗り込めばさすがにいきなり火炙りにしねえだろ」

「いや、大将。これ幸いとやっちまう奴がいるかもしれねえよ?」

「そんなやろうはこの俺が女神の懐に抱かせてやるよ」

「俺はまだうちの母ちゃんで良いな、女神さまは畏れ多い」

「無礼な野郎共に御慈悲を」


 口々勝手に言いながら、船はまるで海面を滑る生物のように進む。


「我が麗しきリマニに栄光を!」

「おおう!」


 嵐の夜、荒れる海。

 天の力、神の威光も知らぬままに、人間達の戦いが始まろうとしていた。

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