第160話 人魚の歌

 風が唸りを上げ、暗闇の中に漂う船を翻弄する。

 夜間に航行する船を守る為に灯る櫓の上の篝火も、風に吹かれて危うげだ。

 嵐の予感に海に生きる民の動きは慌ただしくなり始めていた。

 小型の船持ちは岸辺からより遠くへと船を移し、港を埋める大型の丸底船は、渡り板を増やし、隣同士の船で固定する。

 港の海側の開口部に何重にも網を引き、僅かながらも波を弱める工夫もされた。

 更に大型の外洋船は港の外の海へと出て、海上でこの嵐をやり過ごす準備を整える。


「賊が動き出しました。嵐に紛れて商船を襲うつもりのようです。斥候艇が出て来ました」


 報告に、頷きを返した相手は振り向かずに声で応える。


「承知。しかし、また面倒な時にやらかしやがる。いや、だからこそか」


 叩きつける風雨と潮の香り。

 交わす声も聞き取り辛く、手信号さえ闇に見えない。

 状況としては最悪に近かった。


「まあ、いつだって物事はままならないもんよ」


 どこか楽しそうな声音は、本人にすら届かずに渦巻く風の中に飲み込まれた。


 ― ◇ ◇ ◇ ―


 激しい揺れと叩きつける雨音、唸る風。

 その合間に細い叫びのような、笛のような音が響く。


「サッズ、これ」

「ああ、メロウ族の求愛の歌だな。しかし連中、こんな陸地に近い所まで来るのか」

「セルヌイによると彼らは子育ての時期以外は陸には近づかないってことだったよね」


 檻の中は惨憺さんたんたる有様だった。

 何人もの子供が戻した胃液と僅かな食事の残滓、弱々しい悲鳴と泣き声、その中でライカは早々に意識を外向きから切り離し、竜の精神の輪の中に逃げ込んでいた。

 船酔いがどうこうという以前に、延々と大きく体を揺さぶられ続けている感じなのだ。

 どのような頑強な人間でも、普通は参ってしまうような状況と言えるだろう。

 他の者から見たとしたら、ライカもサッズも檻の端にもたれ掛かって目を閉じ、ぼそぼそと話をしているように見えたはずだ。

 しかし、今、この場は真っ暗であるし、冷静に状況を判断出来る人間もいないので、そういったことに気を向ける者も居なかった。

 泣いてもすがっても助け手が無いとなれば、人は己の中に閉じ篭るしかない。

 か細い泣き声だけが響く中、誰もが自らを抱え込んで我が身を守ることのみに務めていた。


 ― ◇ ◇ ◇ ―


「船長!」


 真っ青な顔はこの闇の中見えはしないが、声の震えはその怯えを写していた。


「ち、外洋でもねえのに化物共め。仕方ねえ、とりあえず女を与えとけ、いや、むしろこの嵐の中なら連中程頼りになるモノはねえだろ。せいぜいまた役に立ってもらえばいい」


 風雨の間にソレらの声が響く。

 風の音と調子を合わせるかのように激しく細い声は聞く者の心をかき乱す力があった。

 ソレは海賊船の周囲を囲んで、まるで船を崇めるかのように手を伸ばし歌っている。


「うるせえ!化物共!いいか、女が欲しけりゃ俺様の船を守れ、沈まないように風雨から遮って俺達が進むのを助けるんだ!わかったな!」


 割れたその声は、嵐の中の雷の音の如く放たれる。

 その言葉が相手に伝わったのか、嵐の只中にいたはずの船の揺れがぴたりと収まった。


「へっ、そうだ、貴様らは俺のために遣わされた海の女神の使者だ。せいぜい働いてもらうぜ」


 海賊船を牛耳り、沢山の老若男女を攫って売っていた男、ハーバー。

 元々人を人とも思わないと有名だったこの海賊が、沈まずの船を手に入れ、隣の大陸へまで販路を広げられたのには、ほんの偶然がもたらした幸運があった。


 この男、海賊ハーバーが獲物を抱えたまま追手を恐れて岸辺から離れ、やや外洋寄りに航路を広げていた時、運の悪いことに嵐に出会ったのである。

 更には、船乗りの間で恐怖と共に語られる人魚の歌まで聞いた時には、さすがのハーバーも他の船員共々死を覚悟した。

 だがこの時、甲板に暴力を振るわれて朦朧となった女がいたことが彼を救った。

 女は海上では不吉だとする船乗りのジンクスを思い出したハーバーは、咄嗟の思いつきで、その女を海に放り込み叫んだのである。


『贄を受け取れ!その代わり、俺を救え!』と。


 結果として、彼の願いは叶った。

 沈まずの船の名声はそうやって始まったのである。


 ― ◇ ◇ ◇ ―


 急に揺れなくなった船の中で、檻の中の子供達は、ホッとしたような怖いような心地で辺りの様子を伺っていた。

 そこへ、ギシギシと板の軋む音と小さなランプの光が近づいて来る。

 子供達の擦り切れた心が、また恐怖に縮み上がった。


「ったく冗談じゃねえ、女神よ我らを救い給え。いつものことながら、船長の豪胆さはこええぐらいだぜ」


 それはいつもの子供達の担当の男だ。

 元々さまざまな傷跡で歪んだ顔がランプの光に照らされて、伝承の魔物さながらの凶相に見える。


 その男は、声も無く慄く子供達のいる檻を開き、他の子供達に頓着する事なく、ランプをかざして目的の相手を探した。

 彷徨うランプの光は、子供達を抱え込んだロレッタの上で止まる。


「ほら、嬢ちゃん出番だ。せいぜい海の女神の慈悲を願うこったな」


 ガッチりと掴まれた腕に、ロレッタは声も出せずに震えた。

 その体に縋り付いていた子供達もカチカチと歯の鳴る音が聞こえる程怯えている。

 だが、その全てを気にする風もなく、無理やりに少女を引き摺り出した男は、しかし突然、脇腹に何かが激しくぶつかるのを感じてよろめいた。

 放り出されたランプの灯が一瞬見せたのは、男の横でうずくまる少年だった。

 ライカが咄嗟に檻の枠木を外して檻の横手から抜け出し、海賊に思わぬ一撃を食らわせたのである。

 しかし、


「つっ」


 あまりの痛みに息が詰まり、ライカはその場に崩れ落ちた。

 折れた胸の骨が、今の衝撃で激しい痛みを発したのだ。


「ち、このガキが!どうやって出やがった!手間あ掛けさせやがって!」


 振り上げた足でライカを踏みつけようとしたその男は、しかし、次の瞬間宙に舞っていた。


「吐く息も、体臭も、頭の中も何もかも臭いくせにうちの弟に何しやがる!」


 そのサッズの怒りの声に答える者はいない。

 海賊の男は既に全身を強く打って意識を手放していたのだ。


「こいつら、恋の季節のメロウ族に自分達と同族の女性を渡して言うことをきかせてたんだ。なんてことを」


 ライカが絶え絶えの息の下でそう吐き捨てるように言うと、サッズが肩を竦める。


「連中は見境が無いからな、さぞや喜んだだろうよ、最初は」


 人は海の中では生きられない。

 だが、海の民であるメロウ族にはそれが理解出来ないのだ。

 安全な棲家へ花嫁を連れ戻っても、彼女は決して目覚めない。

 互いにとってそれはどれほどの悲劇であろうか。

 それでも、嵐によって恋の衝動に駆られたメロウ族の男達は花嫁をもたらすこの船を追ってきたのだろう。


 メロウ族には女性が少なかった。

 彼らは女性中心の社会を作っていて、一人の女王と多くの求婚者がペアを作ることなく交じり合って暮らしている。

 それでも男は余ってしまい、若い男は新たな相手を探して巣立ちをしなくてはならない。

 そして、そのまま相手を得られずに他の種族の女性と結ばれる者もあるのだ。


 メロウ族も前時代の種族なので肉体的な縛りが無く、種族で婚姻を縛られることが無いのがその性質を更に助長した要因だろう。

 ただ、異種間の婚姻だと子供が極端に生まれなくなるのだが、そういったことを気にするような一族でもない。


 そう、本来沿岸部に現れるはずのない彼らがこの船を囲んで歌う理由。

 それにライカは気づいたのだ。

 同時に、船が沈まないその理由にも。

 メロウ族は多情ではあるものの情の深い種族である。

 何度も海賊船と彼らとのやりとりが繰り返される内に、彼らはおそらくこの船を花嫁の棲まう神聖な何かであると思ってしまったのだ。

 そして、船からもたらされる命儚い花嫁を、彼らなりになんとか救おうとし続けているのかもしれない。


「酷いことを」


 ライカは痛む胸を抑えながらもう一度呟いた。

 ライカは幼い頃にメロウの少女と出逢って恋をしたことがある。

 それほど賢くは無いが、純粋でいつも楽しげな彼らは、まるで幸福を体現したような存在だった。


「火が!」


 ロレッタの叫びに我に返ったライカは、転がったランプから漏れだした油に火が移っていくのに気づいた。


「大変だ!」

「まかせろ!」


 サッズが言うが早いか、周りを壁のように囲む船の側面を蹴り抜いた。 

 吹き込む激しい雨が火の威力を弱めるが、浮いた油に移った火がなかなか消えない。

 いや、この場合問題となるのはそこではないだろう。


「えっ?」


 ロレッタやハトリ、そしてライカは呆然と風雨の吹き込む場所を眺めた。


 彼らの視線の先で、船体に開いた大きな穴が、黒々と嵐の夜を切り取っていた。

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