第159話 嵐の予感

 ゆったりと波打っていた海面が俄に大きなうねりに変わった。

 同時に、そこに幾つもの波紋が広がり出す。

 雨が降りだしたのだ。


 太陽が落ちて既に幾ばくかの時が経ち、世界を分かつ境をも失ったような暗闇に沈む海に、突如としてぽこりと浮かび上がるモノがあった。

 ぽこりぽこりと、次々に闇に尚黒い影が浮かぶ。

 水と大気の世界にシミのように在る人の造りし船。あたかもそれを取り囲むように、ソレ等はそこに在った。


 ― ◇ ◇ ◇ ―


「雨か、月も星も雲に隠れるとなれば襲撃には丁度良いな。おい、斥候は目標を見つけたら合図をしろ、わかってるとは思うがヘマぁするんじゃねえぞ」

「へい、頭」


 僅かな、覆いを掛けられたランプの灯りだけを頼りに、海面に在る船へと男達が降りる。

 恐れを知らぬように闇の中へと飛び込めるのは、他に更なる恐怖を知るからか。

 それを見送って、海賊達の頭は次の指示を飛ばした。


「漕手を締めろ、速さ勝負だ」

「へい」


 久々の暴力、獲物を屠る予感に、やや興奮を伴った多数の足音が甲板を騒がせる。


 その喧騒から少し離れた船の中のとある場所にヴェントがいた。

 そして、そこは正に地獄だった。

 語彙の無いヴェントでは表現する言葉を探すことさえ出来ないが、目前に在る全てが最悪であることだけははっきりとわかる。

 たちこめる臭いは既に知覚の域を越え、暴力的ですらあった。

 それに接した途端に、ヴェントは胃の内容物を吐瀉し、肉体的な目眩を感じて膝を突いてしまった。


 だがそこにある光景は、恐怖や悲しみといった感情を抱く余地を許さない。

 そこにはただ、棒のような板が大人の膝程の高さにいくつか渡されおり、そこに『繋がれた』モノ達は既に人と形容する存在から外れかけていたからだ。


 幽鬼によって動く船。


 その様子を客観的な立場で目にする者がいたとしたらおそらくそう評するだろう。


「オカシラ、ユルシテクダセエ、タスケテクレ」


 よだれを垂れ流しながらうわ言のにように言葉を紡ぐ男がその中では唯一まだ人の痕跡を残していた。


「ほら、いつまでもヨタってんじゃねえよ、おめえの場所はあそこだ!」


 臭気避けのためか、顔の半分を布で覆った男がヴェントを引き摺るように奥へと進む。

 そこに在るダレもが彼らを見ることすらしなかった。


「……っ、この臭いが平気だとは、よっぽど鈍いんだな、テメェ」


 ヴェントは悪臭なら嗅ぎ慣れている。

 彼らの住む廃棄小屋はほとんどごみ捨て場のようなものだったし、食べる物を腐った物の中から漁るのも日常だ。

 だが、そのヴェントをしても、この場所の臭いは耐えられなかった。

 まるで空気そのものが毒であるかのように、ヴェントの体は言うことを聞かず、震えが止まらない。

 息を止めて虚勢の言葉を吐き出すだけで、生きるための力のかなりを削ったようですらあった。

 それでも、ヴェントはその彼なりの矜持ゆえに、相手を蔑んでみせることを止めなかった。


「おうおう、活きがいいな、その調子で船の速度を上げてくれよ。ああ、サボるというならそれでもいいんだぞ?俺も悲鳴を聞くならガキのほうが楽しめるし、こんなゴミ溜めじゃあ他に楽しみもないしな」


 仕事に手を抜けば嗜虐趣味のこの男の娯楽のために傷めつけられるのだとあからさまに言われて、ヴェントはこの場での反抗を諦める。

 機を逃さず行動するにはなるべく体力を温存する必要があった。

 意地のためにチャンスを逃す訳にはいかないのだ。


「クソッタレが」


 だがヴェントの最後の意地が一言の悪態を吐かせる。

 長い夜になりそうだった。


 ― ◇ ◇ ◇ ―


「ヴェント、どうしよう」


 あれほど強気であった少女は、仲間の少年が連れ去られ姿が見えなくなった途端に崩折れた。

 彼女が泣き出すとその身を頼りに集まっていた子供達も泣き出す。

 だが、今のライカには到底その少女達をなんとかする余裕がない。


「嵐が?」

「ああ、近いぞ。この船ってやつは大丈夫なのか?やたら脆い造りだが」


 サッズが嵐の気配を察知してライカに告げたのだ。

 しかも船は移動を始めているらしく、嵐の予兆なのか、荒れている波との相乗効果で起こるうねりが船を持ち上げては落とすという繰り返しを行ない続け、段々とその場の全員の気分を悪くしていた。


「嵐だって?空も見てないのにわかるのか?」


 旅芸人のハトリが、吐く物も無くなったぐったりした様子でサッズに尋ねる。


「わかるさ、空気が違うだろ?」


 サッズが当然のようにそう言うが、もちろん他の誰にも理解されなかった。


「サッズはそういうのを間違えたりしないよ。本当に嵐が来るんだ。船って海の上で風とか大きな波とかを受けて大丈夫なの?安定してないみたいだけど」

「大丈夫じゃないよ。うちの連中の親も海の上で嵐に遭って帰って来なかったのがたくさんいるんだ。この国では珍しくもない死因さ」


 泣き疲れたのか、泣いていても仕方がないと思い切ったのか、いつの間にか泣き止んでいた少女、ロレッタがそう答える。


「いざという時はヴェントの言っていた通り、檻から出て海に浮かぶしかないってことか」

 ライカのその言葉にハトリは再び昏い笑みを浮かべながら首を振った。


「無理だ!ここでは時間がよくわからないけど、さっきの食事からすれば今は夜なんだろう?夜の海に投げ出されて助かる訳がない。そりゃあ僕は海に詳しくは無いけどさ、職業柄噂には詳しいから知ってるよ。しかも嵐だって?終わりだ、僕達はもう終わりだよ」

「男のくせにうるさい!」


 ハトリの泣き言に、ロレッタは怒りを露わにした。


「死ぬ死ぬ言う奴程生き汚いもんさ、あたしはそんな男共を何人も知ってるよ。他人を嫌な気分にさせるだけさせておいて、いざとなったら助けを求めて他人に縋る。あたしはそういう男にムカつくんだよ!誰だって死にたくは無いんだ、本当はね。だからしゃんとしなよ!」

「お前こそ女のくせに口が汚い」

「あんだって!?」

「二人共、喧嘩はもっと余裕がある時にしてよ。今はとにかく方針を決めておこう」


 睨み合う二人に、ライカが溜め息混じりに提案する。

 サッズは我関せずという風に檻の隅で目を瞑ってしまった。


「方針って今更何のだよ」


 ハトリがそう鼻で笑うと、その足をロレッタが踏み付ける。


「いてぇ!」

「それは何よりね、生きててこその痛みよ」

「とにかく今度船から大きな音がして、そのまま傾くような異常があったら檻から全員出よう。もしここに閉じ込められたまま沈んだら、ほとんどの子が助からないと思うし」

「それはそうだけど、船が沈まずに海賊に見つかったらそっちが危険じゃない?」

「そうだ、業腹だが、この女の言う通りだ」


 『この女』扱いにロレッタがハトリを睨むが、ハトリの方はすました顔でやり過ごす。

 元々整った顔のこの少年にはそういうそっけなさが似合うのがまた性質たちが悪かった。


「いや、それは大丈夫だと思う。最悪でも檻に連れ戻されて、今度は逃げられないように何か工夫をされるだけだろう。それはそれで困るけど、生き死に比べたらまだ軽い問題だ」

「ふうん、なるほど、僕達が商品だからか」

「うん」


 ライカの言葉に納得したようなハトリだったが、ちらりと視線をロレッタに流し、言葉を継いだ。


「だが、この女は違うんじゃないか?」


 ピクリと、ロレッタの体が揺れる。


「それも、大丈夫だと思う。あくまでも今はだけど」

「大事な『生贄』ってことね、まあ嵐が来るなら今使われる可能性もあるんだけどね」

「そうなの?」


 ロレッタの自嘲するような言葉に、ライカは驚きを込めた声で問う。


「元々航海の安全のための『贄』だもの、嵐は船にとって最も忌まわしい相手だわ」

「それなら尚更逃げるのは早いほうがいい。ヴェントのこともあるし」


 ライカの口からヴェントの名前が出ると、途端にロレッタは顔を歪ませた。

 夕食と同時に連れて行かれたヴェントは、切れ込みを入れた檻の様子に違和感を抱かせないためにわざと暴れて殴られていた。

 連れて行かれた先で、更にもっと酷い目に遭っていないとも限らない。


「でもこの意気地なしの言う通り、夜の海で生き延びるのは無茶な話だよ。長年海で生きた船乗りだって尻込みするようなことなんだ」


 意気地なし呼ばわりにハトリが聞えよがしに舌打ちをしたが、ロレッタは無視を決め込んだ。


「最悪を考えるのは当然だけど、並んでる条件が全部悪いんだ。その中でよりいいほうを選ぶようにしないと、わずかな望みも失ってしまうんじゃないか?俺はそう思うんだけど」

「ああ、うん。その理屈は僕みたいな『意気地なし』でもわかるな。君は説得上手だね」


 ハトリの言葉に鼻を鳴らしてみせたロレッタだったが、彼女も否やは無いらしくライカの言葉に頷いた。


「そうだね、ヴェント流に言うと『勝ちの目のある勝負』をしろってことだね」

「あはは、面白い言い回しだね」

「あんたは知らないだろうけど、海の男って賭け事ばっかりやってるんだよ。まったく仕方ない男ばっかり」


 ロレッタはそう言うと、不安そうに自分達を見上げる子供達に笑顔を見せる。


 希望はまだどこにも見えないが、膝に擦り寄るミーテとセニアを撫でる彼女の姿は、どこか彼らをほっとさせる温かさを感じさせたのだった。

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