第149話 密入国
夜の海、ましてや月が雲で隠れているような夜は本当に何も見えない。
だが、それは光を利用して見る第一の視覚での話だ。
物の存在の力を形として見る第二の視覚を使えば、世界はまた違う様相を帯びる。
普段は目を閉じないと認識出来ないその第二の視覚を、ライカは闇に沈む海中で行動する為の普通の視覚として使っていた。
これは闇の恩恵でもある。
第一の視覚が存在しないかのように(つまり目を閉じているように)ライカの無意識の部分が誤認しているので、自動的にもう一つの視覚に切り替わったのだ。
そうして第二の視覚で見る海の中は地上以上に生命に満ち溢れている。
海中を光の粒のような微細な幾種類かの生物が無数に漂い、岩に張り付いたイソギンチャク達がゆらゆらと触手を揺らめかせて世界を探る。
眠る魚達が海流に流されないように海藻の間に体を入り込ませ、時折寝ぼけたように泳いでみたりしていた。
尤も、今まで知っていた海が、竜王の作りし古代世界の写し世に存在する海であり、ここより遙かに生命に溢れ、夜ですら光輝く鮮やかな世界であったライカからすれば、少々寂しく見えたかもしれない。
頭上、海の世界的に言う所の天上に、木製の物体が多数浮かんでいるのが珍しいのか、ライカはどちらかというとそちらに気を惹かれていた。
『これが船なのかな?凄い数だけど波でぶつかったりしないんだろうか?』
『さあ?とりあえずうっかり浮かび上がると頭をぶつけるだろうから気をつけろよ』
『いくらなんでも見えてる物にぶつかったりしないよ』
『嘘だな、お前は昔から見えてる物にぶつかってた。藪とか木とか俺とか』
『あれは、小さい頃は走りまわってたし、体を軽くした時の制御とか色々難しかったからで、今はそんなことないさ』
『ついこないだのことだぞ?信用ならんな』
『みんなのついこないだは十周期(約十年)ぐらい単位だからね、俺は人間だから成長が早いんだよ』
そう言った矢先に、突然前を横切った海ガメを避けたライカは、浅くなった海底に足を取られて盛大に転んだ。
その衝撃に驚いたのか、海底の砂の中で眠っていたらしい何かの魚が慌てて逃げて行く。
『……成長ね』
『うるさいな』
二人はそのまま水面から顔を出すと、注意して周囲を窺った。
海岸には高い木製の櫓が二つあり、その上で篝火が焚かれている。
その光が直下の地上に落ちることは無かったが、二人は用心してそこからかなり離れた場所に上陸した。
『結構人がいるね?』
『船とか言う木製の箱の中にもかなりいるな、時々海上をカンテラで照らしているし、どうやら案外と海からの侵入を警戒してるみたいだな』
『こっちの端のほうから入り込もう。柵があるけどこの程度なら問題無いし』
ライカは少し助走を付けると、トンと地面を蹴って柵を越える。
サッズは音も立てずにその隣へと降り立った。
『ん?なんかあるぞ』
着地と同時に、足元スレスレの草の間の地表に張られた紐を見付け、サッズはそれを引っ張り上げた。
――…カランカラン…
途端に乾いた音が響き、それが連なるように近くから遠くへと音が広がって行く。
「まずい!サッズ、上!」
ライカはそれが意味する所を瞬時に悟ると、何やら感心したように紐を振っているサッズを引っ張って上昇する。
「あっちだ!急げ!」
大地を踏み鳴らす足音と、大声の指示とそれに対する応答の声、いくつもの方向性を持った特殊なカンテラと思われる道具によって光を掲げた幾人もの人々がライカとサッズのいた場所に殺到した。
彼らの行動は早く、もう少し上昇するのが遅かったら上を向いただけで気づかれる位置に二人はまだいたかもしれない。
「逃すな!海賊の斥候かもしれん!なんとしても見つけ出せ!」
指示を出す声はよく通り、地上からそこそこ離れたライカとサッズの耳にもそれが届いた。
『なあ、海賊の斥候ってなんだ?』
『さあ?とりあえず俺達のことじゃないだろうけど、だからといって見つかっても良い訳じゃないと思う』
『そうか。しかし、あの仕掛け面白かったな』
『あれのせいで見つかりそうになってるんだろ?あれはきっとこっそり柵を越えて入り込もうとした人を見つけるための工夫だな。柵越えで安心して歩き出した時に引っ掛かるようになってるんだ。きっと見つけたのをわざわざ引っ張ったのはサッズぐらいだよ』
『それは遠回しに俺のせいって言ってるのか?』
『遠回しじゃなくてはっきりと言ってるんだよ』
目と目を交わした二人は、お互いに意識を圧力に変えて押し合いを始めた。
最初サッズが圧倒的にライカを押していたが、ライカが極限まで収束させ、尖らせた『悪口』という意識で突っつくと、覆うように押していたサッズの意識が萎縮するように引っ込む。
『おのれ、細かい嫌がらせばっかり上手くなりやがって』
『自分の能力を過信しすぎてるから痛い目に遭うんだよ』
ライカはその心声のやり取りの中で、ふとその自分の言葉から何かが閃いたらしく、『ん?能力と言えば』と言って唐突に黙り込んだ。
『ん?』
サッズは問うように顔を向ける。
「あっ!」
いきなり声を上げたライカに、サッズはやや驚きながらも苦言を呈した。
『おいおい、相手の声が届く範囲なんだぞ?こっちの声も届くんだから気を付けろ』
サッズの常に似合わないそんな小言も気にならないかのように、ライカはサッズに向けてどこか乾いた笑い混じりの言葉を紡ぐ。
『よく考えたら夜に入るなら空から入っても良かったんだ』
「あっ!」
夜空に突然響いた声に数人が気づき、カンテラを空に掲げる。
しかし、そこには何がある訳でもなかった。
「いや、ここらには上に足場になるような物は無かっただろ?」
「じゃあ今の声はなんだよ?」
男達は顔を見合わせると、慌てて海神の御印を指で象り、「御身の恩寵にて魔を払いたまえ」と呟く。
人知の及ばない天運に生死を委ねざるを得ない船乗りの多いこのリマニでは信仰の篤い者が多く、殆どの者が海神である女神を信仰していた。
彼ら船乗りは、魔物や凶兆に触れるのを極端に嫌う傾向がある。
聖印を切った彼らは、慌ててその場を離れたのだった。
急いで遙か上空に上がったライカとサッズがそんな地表の様子を知る由もないが、ライカは寒さに凍えながらもようやく浅く息を吐く。
「なんで気が付かなかったのかな?」
「間抜けだな」
「ねえ、それって自分も間抜けな中に含まれてるのに気づいてる?」
「俺はライカの言う通りにしただけだからな」
「飛竜が空を飛ぶ事を思い付かなかったとか笑い話にもならないよね」
「いやいや、お前がどうしても海中を散歩したがったから俺は可愛い弟に合わせただけだよ?」
「サッズってさ、都合が悪いことがあると可愛い弟呼ばわりするよね」
「何のことかな?」
「まあそれはもうどうでもいいからさ、少し降りたら町中まで引っ張ってくれるかな?」
「おお、任せろ」
表面上にこやかに微笑み合いながら、二人はゆっくりと降下したのだった。
上空から第二の視覚で眺める町はどこか殺風景だ。
理由は簡単で、普通の建物がほとんど見当たらず、何かの布を屋根代わりにした、まるで市場のテントのような物がぎっしりと密集しているからである。
第二の視覚だと塗料の色は判別出来ないので全体的に白っぽく見える上に、建物の凹凸が無いと、まるで更地のようにも見えた。
この視覚の時に見える色は存在の強さや温度によって認識されるので、ほぼ同じ物質である場合は、どのような色の物であろうが全部が同じ色に見えるのだ。
「なんか寂しい所だね?」
「飯に期待出来なさそうだな」
ライカの言葉に答えるサッズの声もまた、別の理由で少し沈む。
町の印象だけでなく、もう一つの予想外の出来事が二人を暗くしていた。
彼らからは、町全体に小さな灯火が移動しながら広がっていく様子が手に取るように見える。
もちろん灯火だけが移動する訳もなく、当然ながらそれを持つ人がいるのだ。
「あれって、さっきの音が出るやつのせいだよね」
ライカはほとんど呆れ果てたように呟いた。
サッズは無言である。
流石に自分の行動が原因だろうという認識があるのか、下手に同意するのもまた危険とばかりに沈黙を守っていた。
「とにかくどっかに降りよう。なるべく人の多い所に紛れてしまえばなんとかなると思う」
ライカの提案に、サッズは即、ある箇所を指さす。
「賑やかなのはあそこだな、エッダのいた所と似た感触だ」
「ん?」
サッズは事前に察知しておいたのか、指し示す方向に迷いが無い。
しかし、そこは、確かに明るく人が多かったが、同時に争いの気配も濃かった。
近づくと、あちらこちらから怒声が響いている。
ライカはそのまま無言で少し離れた路地のような場所に降り、辺りの様子を窺った。
途端に盛大な破壊音と共に、ゲラゲラという大勢の笑い声。
そうかと思うと恐ろしい唸り声のようなものが更にその向かいから聞こえて来て、そちらに目をやると、機嫌良く体を揺らしながら唸っている男がいた。
「ここに紛れ込める自信が無くなってきた」
「頑張れ!」
「いや、人ごとじゃないし」
それでも逆側の路地の出口をカンテラらしき灯りが照らすのを見れば躊躇う暇などない。
ライカは意を決すると、賑やかな通りへと歩を進めたのだった。
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